1リットルのハナミズ


ゴミ箱からあふれたティッシュが、
くずかごの周りに百花繚乱たる荘厳な光景を作り出した。
一体、どんだけのハナミズが私の体内から排出されたのかと戦慄すると共に、独身男性(ギリギリ)の部屋に咲き乱れる大量の使用済みティッシュは、どういうわけだか
「うら寂しさ」
を醸してやまない。
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ゴミ箱からあふれたティッシュが、
くずかごの周りに百花繚乱たる荘厳な光景を作り出した。
一体、どんだけのハナミズが私の体内から排出されたのかと戦慄すると共に、独身男性(ギリギリ)の部屋に咲き乱れる大量の使用済みティッシュは、どういうわけだか
「うら寂しさ」
を醸してやまない。
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私はどちらかというと、
絵を描くことそのものが好きというより、
絵を描いて、みんなにそれを見せて、
面白がってもらうのが好きだったりする。
だもんだから、
ちょっと前までは「絵を描く」という作業は、
自分の脳みその中にある、
「面白いと思うもの」を具現化するための過程に過ぎず、
「面白がってもらう」という報酬を受け取るまでの必要経費
という色合いが濃くて、実はやや面倒な時間だったりした。
しかし最近、
ちょうど今もそうなのだけれど、
仕事で黙々と絵を描いていると、
一定間隔でムラムラと、絵が描きたくなってくる。
仕事ではない絵が。
そうすると、
絵描きの息抜きに、絵を描く。
という現象が起きる。
これは自分でも可笑しい。
(オレってこんなに絵が好きなのか!?)
と、自問したくなるひと時なのです。
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誤解や行き違いは人間につきもの。
自分以外の誰かとならもちろんのこと、
自分ひとりでもそれは起きる。
たとえば、
真夜中、胃腸に異変を覚えて目覚めた時。
脳は持てる情報の中からあらゆる事態を想定し、
不安を生じ、焦燥に駆られるが、
体はただ、
「ハラヘッタ。」
とメッセージを送っていただけだという。
まったく、人騒がせな胃腸と脳である。
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先日、たまたま立ち寄った店屋のバイトのお兄さんは、
つり銭の渡し方に独特のこだわりがあったらしい。
100円玉と10円玉を取り上げるとチャチャチャっと手で揉み、
チャリリリリと筒状に渡す。
見ると、
なんと10円玉と100円玉が交互に編みこまれるように配置されているではないか。
パッと見、数えづらい…とは思ったが、
こういう無駄なこだわりはキライではない。
アンタの美意識、
確かに受信したぜ。
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我が家の掛かりつけ医師、
スーパードクターNは、
私が大の注射嫌いであることを知ってからというもの、
いつか、プスリとやる機会を虎視眈々と狙っている。
今回の風邪でも、
ここぞとばかりにプスリを持ちかけられたが、
断固として拒否。
経口風邪薬と気合で対処する方針を伝えた。
だって、
プスリコワイんだもん。
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主に鼻方面に被害の大きい風邪をひいている時の楽しみといえば、
一度のハナカミで、
如何に多くのハナミズをテイクアウトするかということに尽きる。
ティッシュペーパーの強度と、
己のハナミズ排出量の限界のせめぎあいだ。
一枚ないし二枚(やや強化版)のティッシュで受けきらないほどの
ハナミズを排出すると、
何ともいえない達成感というか、
勝利感があるとかないとか。
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流れってものは確かにあって、
悪いときというのはホント、
何をやっても上手くいかない。
自分自身もまた、
いやなところばっかりでちまうもんだ。
ここんところの、
そんなダメな流れに追い討ちをかけるように、
風邪を引いた。
それも、
このところでは珍しいほどまとまったヤツ。
多分、バチが当たったんだな。
弱ってる時って、意外に素直に反省できるから、貴重だね。
あの人とあの人、ごめんなさい。
とりあえず思い当たったところに謝ってみました。
あの人と、あの人もだな。
ごめんなさい。
うわ、まだまだ出てくるぞ。
あの人にあの人にあの人に・・・
オレは世紀の大犯罪者かっちゅーねん。
インチキ関西弁も出る。
でも、ごめんなさいね。
んでも、風邪をひいているのだけれど、
寝込んでなかったり。
風邪を引いている時だからこそ、
普段と同じ事をして、
普段というものが、
いかに恵まれているかということを噛み締めてみるものいいものなんだろうね。
記事のストックが切れてることに気づいて、
この記事を描いているのだけれど、
普段、パパッとやってることが、
ホント、上手く出来ない。
普段のオレ、
なかなかやるじゃん。
ちょっぴしロクデナシでも、
一つくらいトリエが無いとな。
ああ、たまにはここで私信を返しておこう。
知り合いのOさんからメールが入っていたんだ。
息子さんの進路が決まったって!
ってことは受験が上手くいったんだ。
おめでとう!
努力が実ったのだね。
「努力した者が、必ず成功するとは限らない。だが、成功したものは、すべからく努力しておる!」
って、鴨川会長も言ってたもんね。
たしかそんなこと。
君はエライ。
着実に、一歩一歩進んでいるんだものね。
(あ、「一歩」にかかったぞ。)
オッチャンも、君に倣って
一歩一歩進もう。
(ほらまた!)
さしあたり、今日の記事を描こう。
これが「一歩」なのかはよく分からんけれども。
よ~し。
イイカンジに体が火照ってきたぜ。
これは熱ってか、暖気完了ってカンジだ。
こうなったらむしろ外出だな。
ヒヤウイゴー!
もうなんか、ホントごめんなさいね。
妙な記事で。
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そりゃあさすがにもう、
大騒ぎするようなトシでもないのだけれど、
まるで意識しなくなった自分がなんだか面白かった。
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レンズが小さくて、横長で、
ちょっとツリ目っぽいメガネが近頃の主流らしい。
確かにアレはカッコイイ。
アタマも良さそうに見えるし。
もし似合うようなら、
ちょっと雰囲気を変えてみることもヤブサカでないと、
私も試しにかけてみたのですがね。
…いやあ、似合わない。
輪郭が長マルで、トホホマユゲにややタレ目なものだから、
明らかにメガネが小さくて、
小さいくせに浮いてるんですよ。
かけられたメガネの方も、
かけられてみたはいいけれど、
何ともいえない居たたまれなさというか、
これから向かいたい方向性が明らかに違っていることにすぐ気づいて、
己の顔面にかなり気まずい空気が立ち込めていた。
自分のイメージとしては、
「ぽや~ん♪」から「しゃきーん!」
への変身という予定だったのですが…。
やはり、もうしばらくこの「のび太メガネ」で行きたいと思います。
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連日の絵仕事でショボショボの目が生んだちいさな偉業。
目薬を使い切るなんて生涯初めての経験。
達成感はあるが、
自慢にはならない。
※追記
右サイドバー、イラストサイトリンクに、
「tana」を追加しました。
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こんなんやってますが、 三十歳になりました。
つまり、二十代が終わったということです。
自分が三十歳になるなんて、本当に不思議なものですね。
ちょうど10年前。
二十歳を迎えて二十代に突入した時は、
実感どころか全然ピンと来ませんでした。
法的、世間的にはには成人と認められたけれど、
自分にはなんにも無くて、
何が出来るわけでもなく、
何がしたいかも分からず、
ただ、十九だった自分が「にじゅっさい」になっただけ、
という感想しか持てなかった。
では、三十歳の自分はどうか?
両の手に感じるぬくもりを確かめれば、
ずっと一緒にいたい人がいる。
ずっと続けたいことがある。
なんて恵まれているのだろう!
この二つを得られたことが、私の二十代の意味だったと思う。
それは、
純然と上乗せされたシヤワセ。
生きているという幸運。
周囲の大事な人たちに、
「ありがとう!これからもお世話になっちゃいます。」
と。
そして、
これを読んでくださっている皆様に、
「出会ってくれてありがとう!」
と。
この場を借りてお礼を言っちゃったりする、
人生30年目の第一歩。
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どことなく影のある女性に惹かれるのか、
それとも単にMなのか。
最近の相方はほの明るいので、
ちょっと前の相方を見たような、
懐かしさを覚えた。
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先日、ワタクシの干支、辰の守り本尊であらせられる
「普賢菩薩」に年始のご挨拶をすんべと、
愛宕(あたご)神社というところに行きました。
仙台の街中、
青葉城址の近くにある由緒正しい神社である。
初詣参拝用に整備された臨時駐車場にクルマを止めて、
神社特有の清々とした空気を吸い込む。
鳥居の傍には、大きく
「虚空蔵菩薩」
の文字。
…
…アレ?
ネットの情報では「普賢菩薩」を祀ってあるところだと聞いたのだが…。
「虚空蔵菩薩」といえば、干支でいう丑・寅の守り本尊。
近いことは近いが、それはこの際関係ないような気がする。
アテが外れたことに少しガッカリしながらも、
高台に向かって伸びる階段の横に設置されていた看板を調べる。
すると、
どうやらここには「十二支八角堂」というものがあり、
その中に「普賢菩薩」が祀られているらしいことが分かった。
ああ、よかった。
来た甲斐があった。
本懐を遂げるべく、
境内に向かって階段を昇りはじめた。
最近、神社、仏閣というものが心地よく感じるようになった。
自然のなかにたたずんでいることが多いというのもあるだろうけど、
清々とした空気に、
知識が無いながらもなんとなく感じる様式美。
ピンと張り詰めた静寂。
とても落ち着く雰囲気がある。
階段をいつものように一段飛ばしで昇りはじめて、
なんとなくそうやって省略することが失礼に思えて、
一段一段、踏みしめるように昇ることにするという、
妙に細かいところばかり謙虚な心持ちになってしまうのだ。
そうして、自分なりに謙虚な気持ちで階段を昇る。
階段を昇るのは楽しい。
特に急な階段は良い。
階段を昇りきった時に、
目の前に広がる景色がどんなものなのか、
とてもワクワクする。
足にありえないほどの乳酸がたまり、
だんだんと昇段がつらく、
億劫になってくる。
ワクワクよりも、
ヘトヘトの割合が大きくなってくる。
ワクワクヘトヘトが、
ワクヘトヘトヘトになってきた。
ついに、足をまっすぐ持ち上げるための大腿四頭筋のリーダー格とも言うべき大腿直筋が鈍い痛みとカッとした熱をもって抗議とし、その活動を停止させた。
しかし、
途中で立ち止まるのは悔しい上に恥ずかしい。
日頃の運動不足をなんとしても認めたくない。
それに、
これしきの試練に打ち勝てぬようでは、
ご利益が望めないような気さえしてくる。
止まれない。
止まっちゃいけない。
不甲斐ない大腿直筋に代わって、
「オレに任せろ!」
とばかりに名乗りを上げたのが外側広筋だ。
まっすぐ上げられないのなら、
横から迂回しようという作戦だ。
なるほど、そうすることにより、
ノンストップでの残り3分の1昇段が可能になった。
しかし、外側広筋の活躍とはすなわち、
内股歩行の遂行を余儀なくされるという意味を孕んでいるのだが、
そのことに気づいたのは今になってからである。
そういった、内なるスペクタクル、
友情物語のようなものがありながら、
とにもかくにも境内に到着した。
肩で息をしながら八角堂に歩み寄り、
「普賢菩薩」の像の前に立つ。
賽銭箱に100円玉を二つ投入。
同じ辰年生まれの相方の守り本尊も私と同じであるため、
二人分のご挨拶をした。
すこし休憩がてら、愛宕神社の境内を見て回る。
愛宕神社に行ったことのある方はご存知かと思いますが、
あそこは結構な高台にあるのですね。
お堂の横は木々の間からガバリと視界が開けて、
眼下に広瀬川のゆったりとした流れ、
その向こうには仙台の街並みが広がる。
視界の端に映る木々と柵が景色を額のように縁取り、
ボッカリと開いた空間の向こうには
有機的な自然の緑。
そこから無機質な人工の建物が幾何学模様のように
ビルビルと林立している。
冬の澄んだ空気がこちら側の静寂と、
向こう側の道路を走るクルマ、
クルマのスタッドレスタイヤの音が
混ざり合うことなく、別の世界の出来事のようだった。
それは一幅の絵画・・・というより、
人の世を俯瞰している何者かの景色を垣間見たような・・・
清涼な違和感と、視界が滲むようなひとりぼっちを感じた。
「こういう景色は一人で見るものではないかもな…。」
と少し後悔しつつ、階段を降りる。
喧騒がすこしずつ音量を上げ、
人の世にもどってきたような安堵を感じる。
たまらなく、
相方とラーメンを食べに行きたい。
とどのつまり、私の神社、仏閣探訪は今のところ、
人間としてのシヤワセを再認識するためのものなのだろう。
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今日の分の記事を削除しました。
理由は、内容の表現バランスが崩れていて、
それによって大事な人が迷惑を被ると判断したためです。
大変申し訳ありませんが、
いただいたコメントも削除させていただきました。
コメントをくださった方々、
本当にごめんなさい。
ご迷惑をおかけしました大事な人にも、
ただひたすらごめんなさい。
いい機会なので、
反省と自戒の意味をこめて、
個人サイトを運営することについて、
感じていることを書きたいと思います。
以前、報道関係の知人に言われたことがあります。
「情報というのは刃物です。 無いと非常に困るものですが、 使いようによっては簡単に人を傷つけます。 寿さんは、非常に鋭利な刃物を持っています。 くれぐれも、その扱いには気をつけてください。」他で精製された情報を集めるタイプではなく、 自分で情報を作るタイプのブログを運営している以上、 表現力が問われます。
こんなにもたくさんの人が集まってくれるサイトを作れたということは、
自分は表現力という「鋭利な刃物」を持っているのだろうという自覚もありました。
日々、ずんずんと増え続けるアクセス数はもちろん嬉しかったし、
自信にもなったし、
描くことへの燃料資源にもなりました。
しかし、
一日に読んでくださる人の数が、
3ケタから4ケタ、
4ケタから5ケタとなるうちに、
上記の言葉がのっそりと背中にのしかかってきました。
自分の持つ「鋭利な刃物」には鞘がない。
ということへの恐怖。
何千人、何万人が見る情報を提供するのも、
「送信」ボタン左クリック一発で済んでしまいます。
それはとても怖いことです。
何千人、何万人の観衆が取り囲む中で、
抜き身の鋭利な刃物をもって踊るわけですから。
一歩誤れば大勢を一度に傷つけてしまうし、
一振り違えてなにかと対立すれば、
それはすべて自分ひとりの責任。
守ってくれる組織はないわけで。
「好き」というだけで続けるには、
まったく割の合わない、リスキーなことだと思います。
それでも踊ることが好きで、
積み重ねた大事なものをもっと育てたくて、
表現に出来る限りの注意を払い、
記事を早く作ることで公開までの時間を稼ぎ、
推敲に推敲を重ねてなんとかギリギリのところを描いていたつもりなのですが…。
(もう少し・・・!)
という一瞬の欲が手元を狂わせ、
もっとも近い人に刃が走ってしまいました。
これはとんでもないことです。
一番やってはいけないことでした。
今回のことで、
あらためて情報を発信することの怖さを痛感しました。
よく反省し、
考えたいと思います。
ご迷惑をおかけしました皆様に、
重ねてお詫び申し上げます。
本当にすみませんでした。
『言戯』@寿
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人の世には、
「しょんぼりグッズ」
というものが存在するのをご存知だろうか。
それは、うっかり手にとってしまうと、
知らず、脳内の後ろ向き志向物質を分泌せしめるという
恐るべき物質である。
「しょんぼりグッズ」。
どの品目に対して「しょんぼり」が発生するかは人それぞれ。
ネガティブぐわい、すなわち「しょんぼり効果」も千差万別である。
ここで、『しょんぼりグッズ』
についてまとめた文献を紐解いてみよう。
「しょんぼりブレインのメカニズム1章第4項」
*代表的なしょんぼり脳の報告例*
宮城県在住、Tさん(29)の場合。彼の「しょんぼりグッズ」は「ビニタイ」である。
「ビニタイ」とは、家電製品などで電源コードなどをまとめている
針金をビニールコーティングしたようなものである。机の端っこなどに転がっているそれをうっかり手にとって、
手でコネながら模様を作ったり、
バネのようなものを作っている。両の手が、非常に忙しいことになる。
長さの制限が難易度を高くし、
難易度が挑戦的興奮を呼び覚ます。なんとかこのヒモを意中のカタチに整えようと、
秘術を繰り出す。手が夢中になる。
しかしである。
手は忙しいのだが、脳はヒマになる。
手はビニタイに熱中しているが、脳にはその面白みが分からない。「なんでそんなヒモに夢中になってんの?」
という冷めた視線を送っている。
普段、手と脳は非常に密接な関係を保っている。
当たり前だと思っていたそんな関係が、
ある日突然、ビニタイなどという海のものとも山のものともつかないヒモに寸断されてしまったのだ。築きあげたものの崩壊。
痛感する己の無力さ。脳の孤独、推して知るべし…である。
脳は、孤独を感じるとマイナスの思考を始める。
自身の所有する膨大な情報の中から、次々に”しょんぼり濃度”の高いものを集めてくる。
そして、脳は”しょんぼり物質”を分泌。
全身に『総員、しょんぼりせよ!』
の指令をくだす。
そうして、
『しょんぼり指令』を受け取った手が初めて「あ、脳をないがしろにしてた。」
という事実に気づき、
慌てて『しょんぼりグッズ』を投げ捨て、
事態は収束の方向に向かうと考えられる。ヒーリング・富士本
『SHONBORI★クライシス~僕らは後ろ向きに生きてゆく~』
より抜粋
ヒーリング・富士本先生もおっしゃっておられるように、
『しょんぼりグッズ』は、手と脳の密接な関係が崩れることにより、
脳が嫉妬状態に陥ることによって効果が発揮すると考えられる。
『しょんぼり状態』は、
成人には避けて通れないものであるにせよ、
人間の精神的衛生面に重大な損傷を発生させることもあるので、
『しょんぼりグッズ』の取り扱いには十分な注意を払うとともに、
自我の確立した年代のお子様をお持ちの親御さんには、
『しょんぼりグッズ』に触れてしまったお子様への早めのケアを
お願いします。
なお、
『しょんぼりグッズ』
に対する反応は、逆説的に手や足などの部位と、
脳の良好な関係を表すものである。
もし、
「自分には『しょんぼりグッズ』に心当たりが無い。」
という方には、
脳と肉体の関係不和の恐れが考えられますので、
一度、「しょんぼり医」への相談をお勧めします。
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相方がここのところ(っていうか割といつも)メチャメチャ忙しいのは十分知っていたので、プレゼントが用意できなかったのは致し方ないことだし、それについては全然気にしていないのだけれど、
「好きなもの買ったげるから。」
という言葉には、ちょっと寂しくなってしまったり。
美味しいご飯と、
いつもよりちょっと長くご一緒出来ただけで上出来です。
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プレゼントはなにがウレシイって、
それをあげるまでのニヤニヤがイイわけで。
喜んでくれるだろうかという不安もひっくるめて、
やっぱしニヤニヤに転んでしまう気持ち。
キレイにラッピングされた箱を手にとっては、
またニヤニヤ。
ニヤニヤは日を追うごとにその濃度を増してゆき、
プレゼント前夜が最高潮となる。
子供の頃は、クリスマスといえばプレゼントをもらうことだけが
嬉しかったものだけれど、
大人のクリスマスはプレゼントをあげることがうれしい。
日本の聖夜は、
クリスマスという名を借りて、
多くの人が自分以外の誰かのコトを大切に想う夜だから、
きっと毎年美しいのだと思う。
…なんつってな。
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今年も残すところあと半月くらいということもあって、
ぼちぼち今年一年を振り返りたくなってくる今日この頃。
皆さん、振り返っちゃってますか?
この時期になると、
ニュースなどで必ず取り上げられるのが、
「今年一年を象徴する漢字」
というもの。
世相を現したものとしては、
「愛」
とのことでしたが、
自分個人にとって、どんなカンジの一年だったか。
ちょっくら考えてみました。
気をつけたのは、
「流」とか「転」とか、どうとでも取れるような抽象的でないもの。
今年一年の自分限定ということ。
これが結構難しいものなのですね。
う~ん…。
淹れたての紅茶に浮かぶティーバッグをぼんやり眺めながら、
考えること数分。
(ああ、これだな…。)
ふと思い当たって、
平成十七年度の私を象徴する漢字が決まりました。
それは…
です。
「さい」。
「のせる」。
掲載の「載」。
連載の「載」。
過積載の「載」。
搭載の「載」。
年齢の「載」。
まず、「掲載」。
今年一年で、本当に多くの雑誌や書籍に掲載されました。
ざっと数えただけでも10誌以上。
ココログの公式ページにも掲載されましたし、
共同通信社さんから取材もいただき、全国の新聞にも載りました。
ブログブームということもあり、
その中でもイラストブログとして早めのスタートを切り、
目立っていたということがあったのでしょう。
少しだけ、時流に乗ったんだろうなあ…。
という客観的感想もありますが、
ブログを始めた当初は、
まさかこんなにも色々なところで取り上げられるようになるとは、
夢にも思っていませんでした。
来年以降、
ブログ界隈もまた新しい波が出てくるでしょうし、
今年ほど騒がれることも無いのだろうなあ~とは思いますが、
なにしろ貴重な経験をさせていただきました。
そして、
「連載」。
ブログの記事を、「一日一回」と決め、
ほぼ毎日描き続け、載せ続けたこと。
よく、
「トシさんは、よく毎日手の込んだイラスト付きの記事を描けますね。」
と言われるのですが、
ワタクシ、描くこと以外、本当に趣味が無いので、
空いてる時間はとにかく書いたり推敲したりしています。
面白いものが描けたりすると、すぐにでも載せたくなるのですが、
ぐっとガマンしてストック。
一日一更新のペースを守っております。
多少睡眠時間は削られますが、
常に4~5日分は記事をストックしてありますので、
もし描けない日があっても更新は止まらないのです。
記事を描くのはそれなりに時間も労力もかかりますが、
これは画力や文章力の向上のために、
自分に対して続けている投資であり、
精神を安定させる治療法でもあるので、
これからも続けてゆきたいと思っております。
そして、
「過積載」。
今年はあれもこれも全部なんとかしようと足掻いて、
結局何一つ上手くいかなかった一年でした。
仕事でも、陶器製作、陶芸教室、出張陶芸教室、石窯ピザ、
イラスト…
それに毎日のブログ更新や、結婚の話。
どれもこれもと手を伸ばしているうちに全部が中途半端になって、
いくつものコトが壊れてしまいました。
人間、欲をかき過ぎるとかえって色んなものを失ってしまいますね。
人間の手は2本しかないんです。
持つものはそれぞれの手にひとつずつ。
大事なものは両手で抱きしめるようにしないといけないんだな。
ということを実感した年でした。
「搭載」。
これは、能力が搭載されたということですね。
私の絵にお金を出してもいい。
と言ってくださる世間様が現れたこと。
逆に言うと、お金をいただける絵を描く能力が備わったということですね。
それも、一回コッキリではなく、
同じ企業様から、複数回仕事をいただけたということが、
報酬をもらって描く「絵描き」としてのキャリアを積めたように思えて、
大変大きな財産でした。
んで、
「載」。
これには「年齢」という意味もあるそうで、
そうなんですよ。
今年で私の二十代も終わりなんですね。
来年からは三十路です。
ミソジ。
いやあ、楽しみだ。
なんだか、ミソジになれば、
二十代のモヤモヤから解放されるんじゃないだろうかと、
根拠の無い望みを持っているのですがね。
多分、そんなことは無いのでしょうが、
それでもなんとなく、楽しみでしょうがありません。
そんなこんなで、
私の今年の漢字は
「載」
ということにしました。
皆様の「今年の漢字」はなんですか?
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男も状況によってある程度は化けるものだけれど、
女性の化け方はハンパでない。
なにしろ意識や雰囲気までガラリと変わってしまい、
その幅がまたとんでもなく大きいものだから、
見違えてしまうこともしょっちゅうだったりする。
やはり、女性というものは実に面白い存在だと思う。
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先日、某カフェでレモンティーを頼んだ。
その店では、
レモンティーといってもティパックを突っ込んだストレートの紅茶に、
レモンの絞り汁の入ったパックと、
紙製の筒に入った砂糖が添えられているシロモノで、
つまり、店側でも
「便宜上、レモンティーと名乗っておりますが、そちらのご都合に合わせてストレートということにしていただいても当方一切の異存はございませんです。」
という姿勢が見て取れるメニューとなっている。
その意思を汲み取って、
いや、砂糖やレモンを入れた飲後感を嫌ってということもあるけれども、普段の私は何もいれずにストレートティーとしてすすっていた。
少し渋めの紅茶。
まあ、値段に見合った味といえる。
しかし、その日はたまたま気が向いて、
初めてレモン汁と砂糖をフル投入するという壮挙に出た。
そして、
一口目をすすったところでその壮挙は暴挙であったと気づいた。
本来レモンティーというものは、
レモンの強烈な酸味の中のわずかな甘みを補完すべく砂糖を入れることで、甘サワヤカな風味がキモチイイ飲み物になると思うのですが、
そのレモンティーは、
見ず知らずのレモン汁と砂糖を無理やりに紅茶の中に押し込め、
「一緒にいりゃぁ、ともかくカタチになっぺ。」
というひどく手荒いカップリングによってレモンティに仕立て上げられたような関係だった。
たとえるなら、薄めたケチャップをあっためたような、
ちぐはぐな味。
レモンティというかむしろ、
「レモン汁入り甘い紅茶」
という名称がしっくりくる液体だった。
それが、口腔内に流れ込み、
鼻腔内を充満した。
正直驚いた。
しかし、
さらに驚いたのは、そのちぐはぐなレモンティーも、
飲んでいるうちにやがて慣れてきて、
そのアッペトッペな渦の中に放り込まれてしまったことに当惑しながらも、
「まあ、これはこれでいいかな。」
という、諦めにも似たような連帯感を持つに至ったということだった。
つまり、私の誤解はそこにあった。
普通のレモンティーは、紅茶とレモンと砂糖の織り成す舞台を、
観客である自分が鑑賞し、味わうものだと思っていた。
しかし、その店の紅茶はそこから違っていたのだ。
シブイ紅茶とスッパイだけのレモン汁と凡庸な砂糖の作り出した混沌に、自らも参加することによりさらに混濁する状況を、共に乗り切ってゆこうというテーマのメニューだったのだ。
そういった意味では、
非常に飲み甲斐に富んだメニューと言えた。
私は深く感銘を受けると同時に、
人間、過酷な理不尽を受け入れるには、
「慣れ」と「連帯感」こそが最高の麻酔になり得るのだと、
再認識したのだった。
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ニュース番組などで紹介される同年代のスポーツ選手たちは、
もうすっかり「ベテラン」と呼ばれている。
サイクルの早いスポーツ界では、
我々世代が今まさに円熟期なのだろう。
ついこないだまで、そういうものは
自分とはまったく異質の空間における
「年代の線」
なのだと。
テレビの向こう側での出来事。
「まあ、そういう世界もあるんだな…。」
くらいに捉えていたのですが…。
最近、もっと身近な世間で日常生活において関わる人々にも、
「年代の線」
をヒシヒシと感じるときが増えてきた。
世間の第一線で活躍し始めた人たちが、
年下になりつつあるということに気づいたのだ。
社会において、
いわゆる「世間の倣い」を着実に積み上げる人たち。
実社会における自分の位置とか、姿勢が染み付いてきて、
認知され、責任に見合った裁量が認められるようになってくる年代が、
ゆっくりと目の前を通り過ぎようとしている。
「本当に、自分も齢をとってゆくんだなあ…。」
と、しみじみ感じる時だ。
世間というヤツは本当に待ったナシで、
年齢というものも待ったナシで。
たとえ自分が動かなくてもどんどんウネル。
ウネってねじあがってゆく。
常に自分を積み上げていないと、
ウネリはうず高く、あっという間に見えなくなってしまうだろう。
なにも積み上げていない人間には、
世間は絶望的なほど冷たい。
そのかわり、
どんなものでも(悪事じゃない限りは)、
積み上げていればだれかが見ているというのもまた世間。
そこがけっこう面白い。
私も、これから迎える年代の線に恥じぬよう、
せめて何かを積み上げてゆきたいと存じます。
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先日、ムズリと鼻先にクシャミが装填された。
発射までに1秒ないし2秒ほどの猶予を感じた私は、
上あごにクシャミを搭載したまま人や食べ物のない着弾点を求めていたのだが、そうこうしているうちにあろうことかアクビまでもが発生した。
つまり、
クシャミとアクビが併発するという二大生理現象揃い踏みの状況に追い込まれたのである。
さすがに、アクビとクシャミを同時に催すというのは、
人生においても初体験であり、
一体これから自分の体がどういった現象を迎えるのか。
不可避事態へのおののきと、未知の出来事に対する淡い期待が、
顔面の中心で展開される奇跡の競演。
生理現ショー
を極彩色に染め上げた。
爆発的な出力を誇るクシャミ。
その力強さはまさに「剛」。
しなやかかつ流麗な呼吸をいざなうアクビは、
いかなるものも受け流す「柔」といえた。
剛と柔のぶつかり合い。
異種格闘技戦。
しかし、その勝負はあまりにもあっけなく決した。
序盤、クシャミが激しい勢いで口腔内に爆発させるための空気を吸い込み占拠。
しかし、アクビはいち早く眉間と鼻腔に殺到し、
クシャミの契機たるムズリを締め上げた。
それにより鼻腔周辺にあったクシャミは、
意識の根元から刈り取られた格好となり戦闘不能に。
先ほど吸い込まれた空気は、
アクビためのそれへと流用、併合された。
あり得べからざるタイミングの偶然が生んだ
二大生理現象による注目の一戦は、
おだやかなアクビがクシャミを完全に掌握、制圧し、
なおかつその力を利用しながら
優雅にその生理を完遂せしめたのだった。
ちなみにクシャミは、
アクビがパフォーマンスを終えてから数秒後に意識を取り戻し、
思い出したかのようにムズリとして負け惜しみのように爆発した。
自然の摂理は、やはり
「柔よく剛を制す」
のだと、今回の出来事を通じて
あらためて学んだことは言うまでもない。
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メガネをかけている人で、
そのフレームが金属である人には、
大いに「ウンウン。」たる同意をいただけるはずなのですが、
冬の朝。
目覚めてメガネをかけるのに、少しのためらいがありませんか。
早朝の、清々とした放射冷却の空気にキンキンと冷やされたメガネ。
エイヤッと装着した時の、
あのツルと鼻あてから沁みこむツベタサ。
ダイレクトに脳に達して、
まるでカキ氷を食べた時のような「ヅ~ン…!」的頭痛に襲われる。
思わず、
「ひいっ…!」
という声が出てしまうくらい、
起き抜け冷却メガネは危険がいっぱいである。
メガネをかけているとさまざまなハンデが発生するものですが、
冬の早朝にも、こんな小さな不利益があるのですね。
せめて、鼻ツラとコメカミに冷気を感じることにより、
円滑な起床が促進されるならば、
視力矯正の思わぬ副産物たりえるのですが、
「ノド元過ぎれば…」というヤツで、
すぐに体温に迎合するツルはかえって安堵感を招き、
更なる二度寝への誘惑を強くするのだった。
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相方と食事をするときの会計は、
ほとんどの場合、大まかに自分の頼んだものをそれぞれ払う。
しかし、たまに片方の手持ちが少なかったり、
お礼だったり罰だったりで、
どちらかがおごるということも当然あるわけです。
自分が出す時はまったく問題ないのですが、
相方におごってもらったりする時。
レジで支払う相方の後ろで、
「ごっつあんで~す・・・。」
とささやく私。
おごってもらうのはうれしいのだが、
やはりこのひと時はニガテ極まりない。
大変居心地悪く、
ひたすら居たたまれず、
激しく所在無い。
いかにも仕事帰りのOLっぽい相方と、
何を生業としているのかイマイチ判然としない格好の私。
絶対「ヒモ」か、
「無職で彼女に食わせてもらってるカイショナシ」
だと思われている気がして仕方がない。
違うんです…
違うんです…。
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個別包装になっているお菓子というものは、ただそれだけで
「おひとついかが?」的要素に満ち溢れているものですね。
私の部屋に置いてある袋入りチョコレートは、
入り口から入って真正面という絶好の立地も手伝って、
訪れる人訪れる人みんながつまんでゆく。
袋の中身は3倍のスピードで減ってゆきますが、
日常、思いがけず味わうチョコレートというものは、
格別に美味しいものなんですよね。
そう考えると、
我ながらなかなかステキな計らいと言えなくもない。
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ラジオから流れるパチンコ屋さんのCM。
最近のパチンコ・パチスロ台って、
一昔前、我々が親しみ、楽しんでいたマンガやアニメ、ゲーム
などをモチーフにしたモノが多いんですね。
優れたフィクションが時の流れに埋もれゆくなか、
再びこうやって新しい分野に移行してまた日の目を見られたというのは、大人の視点から見れば、むしろ喜ぶべきことなのでしょう。
しかし、
かつて「愛」や「勇気」や「正義」を高らかに謳いあげていた彼らが、
バクチの機械になってしまったというのは、すこし切ない気もします。
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雨の日に、
少し大きめのスーパーや飲食店などの入り口に必ずと言っていいほど置かれているのが、
「傘袋」
である。
用途は、まあ、殊更言うまでもありませんが、
屹立し、濡れそぼった傘を挿入。
その飛沫によってもたらされる、大事な人や、
その周囲への多大な迷惑、被害を防止する効果がある。
(ただし、100%の効果を保障するものではない。)
まさに、大人としての身だしなみというか、
品位が問われるエチケットと言える。
しかしアレですね。
傘袋というものは、
どうしようもなくバツの悪さが付きまとうものですね。
傘の水気を簡単に飛ばして、施設に入る。
ヒョロヒョロと垂れ下がる傘袋から一枚引き取る。
歩きながら装着したのでは意味がありませんから、
どうしたって入り口付近で立ち止まって傘袋に取り組むことになる。
この位置が恥ずかしい。
次々に歩き去る人々。
そのほとんどが「傘袋」に目もくれない。
意外なことに、世間の傘袋装着率はそう高くないらしい。
みんな、「ナマ傘」から雫をポタポタさせている。
きっとあの人たちは、傘の扱いに慣れすぎてしまって
「今日は大丈夫。」とか、
「水気を外で出したから大丈夫。」
とか思っているのだ。
慣れって恐ろしいですね。
油断って怖いですね。
そんな人たちを横目に見ながら、
ヒラヒラと主体性のカケラもない袋の入り口に傘の先端をあてがう。
ビニール袋の入り口がなかなか開かず、
おぼつかない手つきでようやく先端を入れたと思ったら、
今度は傘の水気がビニールの内部で抵抗を起こし、
動かないわヨれるわの大騒ぎとなる。
この一人モタモタが恥ずかしい。
ついに装着たらしめたあとの、
ベタベタになった手もつくづく情けない。
このように、傘袋の装着というのは、
どう取り繕っても、洗練されない行為と言える。
…言えるのだが。
思うんです。
傘袋は我々に問いかけているのではないだろうか?
世の中がひたすら便利なもの、洗練された行為、
それだけを追い求め続け、
いつしかどこかに置き忘れてきた「何か」を、
傘袋はその存在をもって問いかけているように思えてならない。
そう考えると、入り口付近に突っ立っているあの姿が、
なんだかとても崇高なものに映り、
物言わぬそれこそが、
沈黙という名の雄弁を轟かせているような気さえしてくるのである。
しかし、どんなにまっとうな意見でも、
相手に伝わらなければ意味を成さない。
傘袋側にも少しは歩み寄る姿勢が必要だとも思うので、
最後に「もう一工夫」を提案して
今回の記事を終わりたいと思います。