トリノの英雄

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フィギュアスケート荒川静香選手、
金メダル獲得おめでとうございます。

私もにわかファンの作法として、
朝早くにテレビのタイマーを仕掛けていたのですが、
テレビはつけども目が覚めず、
朦朧とした意識の中でなにやら大騒ぎしているのと、
「君が代」が流れているのを聞いて、

(ううむ、もしかして、金メダル獲ったのか…?)

と思いつつもやっぱし目覚めず、
結局朝のニュースでそのことを知ったという、
もはや「にわかファン」とさえ呼べないような体たらく。

ともあれ、
おめでとうござました。

そして、感動をいただき、
誠にありがとうございました。

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カーリングカーリングヤッホウ!

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たまには時事的なネタを描いておこう。

今、世間の話題と言えばトリノオリンピック。

あいにくと日本は未だメダルナシの状況らしいですが、
なあに、気にすることは無い。

そういうことで競技者を責めるのは、
たいていが

学名
「ハンパ門」
「ナンダカナー網」
「オカメハチ目」
「ソレミタコト科」

のケッカロンジャというトリノさえずり。

その舞台に出られたこと自体、
あなた方は偉いのだと、私は思う。
 
 
 
そんなことはさておいて。

カーリング。
面白いですねえ。

カーリングの楽しみは、
「答え合わせ」
だとおもうのですよ。

画面のなかのストーンの位置を見ながら、

「ココを狙うといいんじゃないの?」

というのを、選手と一緒に考える。
もちろん、選手の方が判断も正しいし、
こちらの意見が何かしら反映することはないのですが。

実際に狙った点が、
自分の仮説と合致することで、

「どうだい、オイラの慧眼は。」

というエッヘン感を楽しむことが出来る。

そういうスポーツというのは、
意外と少ないような気がする。

そして、カーリングはなんとも優雅かつのどかだ。
ここもポイントが高い。

なにしろ、
競技の合間に
「オヤツタイム」
があるのだ。

みんなで輪になって、
ダベりながら
甘いものをムシャムシャ食べている。

まあ、おそらくすんごい高度な戦略を練っているのだろうが、
観ている方はなんとものんびりしたものを感じてしまう。

カーリングはのんびり戦うスポーツだと思った。

そして、
カーリングはゲーム展開ものんびりしすぎていて、
ツマミ食い観戦にはまったく向かないスポーツであり、
諸々の事情から未だもって、
試合の最後まで観たことが無いのであった。

ハンパ応援者、ここに極まれり。

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揺れた思惑

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久しぶりに大きな地震に見舞われました。

数年前に震度6の三連発というのも経験していましたが、今回の揺れは気象庁などから発表された数字と違って、体感震度は「6強くらいあったのでは?」と思うくらいです。

つまり、「小さな地震の大きいもの」ではなく、
「大地震の小さなもの」という感じ。

揺れの性質、地鳴りの音などがいつもの地震とはまったく異なっていて、それは不気味で強大で戦慄と無力感を感じるような・・・。

そんな恐怖を感じる揺れでした。
 
 
 
東北地方は地震の多い地域で、普段から、小中の揺れは珍しいことでもありません。
私個人の感覚からすると、震度4くらいまでなら日常の中に溶けてしまうくらい「地震に慣れている」と言っていい。

その慣れは、自分の中に「動く線」を設定させてしまうのです。

「ここよりも大きいなら、動こう。」

という線。

そこに至るまでは、まったくの日常なのです。
つまり、慣れが地震を見切ろうとさせてしまうわけなのですね。
 
 
 
今回の地震は、突発的なものではありませんでした。
グラフにすると、キレイな山型を描いたと思います。

しかし、やや峻険であり、標高も高かった。
自分の中の「動く線」を、ぽーんと飛び越えてきた。

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今日は店が定休日ということもあり、パソコンに向かって作業している時に、揺れが始まる。
床がまるくシェイクされ、パソコンの上に置いてあった電磁波対策の木炭が転げ落ち、キーボードの「れ」を直撃。
傷がつき、黒く汚れた。

これが、パソコンにおける最大の地震の爪あととなったわけですが…。

最大揺れの時などは、家の天井が不気味に「ミシミシミシ・・・」と音を鳴らし始め、本当に

「家が倒壊するのでは!?」

という命の危険さえ感じました。
大げさでもなんでもなく、先ほど述べたとおり、「災害を生むであろう天災の予感」を感じて、これはとんでもない地震かもしれないと思ったのです。

幸いにも、大地震としては小さいものだったので、死者などは出なかったようです。


しかしもしもですよ。

もしもさっきの地震で家が倒壊し、下敷きになって死んでしまったりしたら、私の最後の記事が

「無口なタイマー」
の話ということになるわけですよ。

己の人生観とかを語っていれば、

「寿さん、いつもしないような真面目な話をしてたのは、なにかの暗示だったのね・・・」
となる可能性もあるし、

相変わらず相方とのノロケを描いていれば、

「寿さんは、最後まで愛に生きていたのね。」
と語り草にもなるかも知れない。
(なんないか。)

しかし、よりによって「無口なタイマー」が遺作では・・・

「寿さんは、最後にキッチンタイマー…ウーン・・・。」

と、コメントに窮することは疑う余地もないわけですよ。
それだけは勘弁願いたい。

これからは、いつ何時万一のことがあってもいいように、たまに格言というか至言というか、心に響くようなことを書いておこうと思いました。
 
 
 
じゃあ、さっそく、
なんつーか、心に響くようなことを。

ウーン、そうだナ・・・
うん、これだナ。

「ガラスは、水の中ならハサミで切れる。」

いけね。
こりゃ「生活の知恵」だよ。

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差別と分別と区別

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たろーさんのブログから。

「人権擁護法案」

についての問題提起です。
何が問題なのか、分かりやすく教えてくれるサイトは「たろぐ」で紹介されておりますのでそちらをご覧ください。
 
 
 
「差別」は良くないことですが、区別と分別までごっちゃになるようなルールはもっと良くないと思います。

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「解禁」は甘い響き

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つい昨日。
2004年度の「ボジョレ・ヌーボー」が解禁された。

なんでも、ボジョレ・ヌーボーというのは、毎年11月の第三木曜日が全世界的に解禁日となっているそうで、なんでそんな事をわざわざ決めるのだろうかとつらつら調べたところ、どうやら原産国のフランスで「その年もよいブドウに恵まれた事を感謝して、いち早くワインにして飲もう祭」が開催され、それからなんでかそれに添った法律が出来たとの事だった。

・・まあ、極めて解説チックな文章で恐縮なのですが。
私も、つらつらと調べただけなんで、別にソムリエを目指しているとか、血液がワインで出来ているとか言うことはないのであらかじめご了承ください。
 
 
毎年、このボジョレ・ヌーボーは、大々的に宣伝され、ネコも杓子もヌーボーになる。
ヌーボーは上手い。
「美味い」ではなく、「上手い」のだ。

まず、「解禁」という響きが上手い。
「解禁」という言葉は、「限定」のそれと同じく、日本人の心の琴線を激しく掻き鳴らす。
全然知らない人が、知らない理由で、知らないうちに決められた「禁」だというのに、「解かれた」という話を聞いてしまうと、全然関係無いのに、なんとなく
「あ、んで、飲まなきゃ。」
という心理が湧き上がってしまう。
それどころか、
「飲まないと、損な気がする。なんでかは知んねーけど。」
という気分になってしまうのではないか。

「なんでかは知んねーけど、お得な感じ。」
が、ボジョレ・ヌーボーの価値を大幅に押し上げている気がしてならない。
 
 
そして、「優越感の隠し味」も、その価値を大幅に押し上げているのではないか。
全世界的に「11月の第三木曜日」と決められているため(なんでかは知んねーけど)、時差の関係で日本が本場のフランスよりも8時間くらい先に解禁日が来るのだ。

つまり、
「本場のフランス人よりも、オラたちの方が早えーべ。こりゃ飲まなきゃなんね。飲んで、フランス人さ一泡吹かしてやんべ!」
という、
「わずか8時間の優越感」
が、ボジョレ・ヌーボーの価値を決定付ける大きな要因の一つとなっている気がする。

ボジョレ・ヌーボーは上手い。
消費者の購買心理を上手く突いている。
だから、毎年今年のヌーボーはどうだとか、みんなで集まってボジョレーすっぺとか、そういう騒ぎが起きるに違いないのだ。
  
 
ボジョレ・ヌーボーが「美味い」のかどうかは、酒の飲めない私には永遠に分からない事であるが、新酒のお祝いという行事は実に微笑ましいことであるし、宇宙から俯瞰して、11月の第三木曜日に限り、移動する日付変更線が紅いワインに染まっているなんて、なんとも素敵なことではないか。

私も、せめて紅茶で新酒の解禁を共に祝いたいと思う。
かんぱーい。

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地面が大きく揺れた日に

昨夜の事。
夕餉の食卓で、姉(家具職人)が
「あ!地震が来るんじゃない?」
と言い出した。
揺れている気配はしない。
それぞれが半信半疑ながらも地面の揺れを感じるのに集中し、それぞれが視覚で確認しようと天井から吊り下がった電灯や、汁物の中の味噌汁の水面を見ていたとき、その音に気付いた。

「ごごごごごごご・・」

地面の奥底から聞こえてくるような、耳ではなく足元から聞こえてくるような、無気味な音。
それがだんだんと南を背にしていた私の背後から殺到してくるのが分かった。
その音が、足の裏を通過した途端、大きな横揺れが来たのである。
いつもの「カタカタカタ・・」という揺れ方ではなくて、大きくうねるように揺れている。
こういう揺れ方は珍しい。
地震に慣れているともいえる東北人でも、この揺れ方は実に不気味で、大地震を予感させるには十分であった。
家族の顔をそれぞれ見ながら、今、火の気のある場所を思い浮かべつつ、「これ以上大きくなったら動く」のボーダーラインを計っていた。
見ていたテレビには、揺れが収まらないうちからニュース速報が流れた。
「新潟で震度6強の地震」。
地面の波紋よりも、一歩遅れて電波による情報がもたらされる。
程なくして揺れは収まり、一同、一応の安堵を感じながら、
「なんだや、新潟。台風のすぐ後にそんな大きな地震では、ものすごい被害になるぞ。」
「ねえ。地盤が緩まっている所を揺らされたら、崖崩れだって・・」
と口々に新潟県への心配を募らせていた。

そして、2度目の大きな揺れ。

3度目の揺れでは、新潟のキャスターが生放送をしながら揺れが起きていることを伝えた。
それから10秒ほどして、現在地にも揺れが到達する。
新潟で発生した揺れが、約10秒で宮城県まで到達するのである。
その凄まじいまでの速さに慄然とした。

結局、本震は三回起きた。
三回とも震度6クラスの大地震である。

それがどれほど怖いものか、よく分かる。
去年、宮城県でも立て続けに三回、震度6の地震に襲われるというよく似た事があったからだ。
私の住む地域は震度5くらいで深刻な被害は無かったが、知り合いの住む町がもっとも被害の大きかったところにあり、堤防の決壊、家屋の倒壊、道路の破損などの地震の痕跡を目の当たりにしているのである。

地震は、予測が出来ない上に今回のように大きい揺れの場合は対処法が無い。
なにしろ、重力の影響を受けている立場の者としては、地面が動いている限り身動きが取れないのだから。
揺れが収まるまではとにかく運任せなのである。
(もちろん、収まってからの賢い動き方はあるが)

新潟では、いまだ余震が続き、次々に深刻な被害が報告されている。
少しでも早い地震の収束と、被災者の救助を願ってやまない。

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仙台にプロ野球チームが・・?

非常にローカルな話題で申し訳ないのだが、もしかしたら、我が宮城県に、新しくプロ野球チームが出来る可能性が出てきた。

ということは、以前、たろーさんが言っていた、「仙台ジャス」が実現するということも、決して絵空事ではなくなってきたということになるのである。

「ジャスって何?」と言う方のために、おおまかに説明させていただくと、
宮城県では、中学校で着るジャージのことを「ジャス」と呼んでいたのである。

もちろん、私も中学校時代は、体操着を「ジャス」と呼んでいたクチであり、小学校から上がった時から、周囲も「ジャス」、友達も「ジャス」と呼んでいたため、アレは「ジャスなんだ。」とばかり思い込んでいたのであるが、全国的にはもちろん「ジャージ」であり、中学校を卒業してから数年を経て、初めてあれが「ジャス」ではなく、全国的には「ジャージ」なんだと、方言のようなものだったのだということ知ったのである。

大体にして、何故、「ジャージ」を「ジャス」と呼んだのか、それはどこから来たのか、そして、今も「ジャス」と呼んでいるのか、それすらも分からない、本当によく分からない呼称なのである。

「ジャス」について、私が知っているのはこれくらいである。
 

 
さて、仙台の新しいプロ野球チームの名称は「仙台ジャス」で決まりと来れば、もちろん、ユニフォームも「ジャス」でしかるべきである。

宮城県在住の、一県民として、そして、「ジャス」の呼称にゆかりの深い者として、「仙台ジャス」のユニフォーム案を描いてみた。

それがこちらである。

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モデルは、私の出身中学校の「ジャス」である。
私の出身中学校では、野球部の生徒は必ずと言っていいほど、ジャスのズボンの裾をソックスの下に入れていたので、それをデザインの方にも反映させてみた。

「仙台ジャス」発足の際には、是非このユニフォーム案を参考にしていただきたい。
デザイン料などは、この際「ご祝儀」として、請求しない方向で考えているので、遠慮なく使ってもらって構いません。

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己の限界

身体能力を極めようとする者にとって、クスリの力を借りるというのは、これ以上の屈辱は無いのではないかと思う。

何故ならば、鍛錬だけでは超えられない、己の限界を自ら認めてしまうからであり、その道において、永劫続く矛盾を背負ってしまうからである。

しかし、クスリを使ってまでも、結果を残したいという気持ちもまた分かる気がする。
純粋にその道に打ち込めば打ち込むほど、一部の「異能者」とのわずかな差が、埋められない事に気付いてしまうからである。

もし、これを飲めば、打てば、その異能者たちの見ている世界が見えるとしたら・・。
使ってしまうかもしれない。

どちらにしても、クスリが絡めば、スポーツは悲壮感を帯びる。

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おっちゃんだわ。

去る3月20日。
いかりや長介さんが死去されました。

晩年は、意外なほどの(失礼!)名優ぶりを発揮され、「人生の楽園」という番組のナレーションも大好きでした。

原発不明頚部りんぱガン。
原発不明ということは、根治の可能性は少なく、おそらく医師からも「長くは無い」と
告げられていたのでしょう。
そこで、臥せることなく最後までいのちの炎を燃やしきって逝ったいかりやさんに、
凄まじいまでの「生きる美しさ」を見た気がします。

話は変わりますが、この間いかりやさんの訃報を知らせる番組で、20歳くらいの女性にインタビューしていたのですが、
その人がなんと、こんな事を言っていたのです。

「いかりやさんて、コメディアンだったんですねー。そんな過去もあったのかと、ビックリしましたー。」

・・・あらー・・・。

私は、小さい頃「8時だヨ!全員集合!」と「俺たちひょうきん族」の二大コント番組を見て育った世代。

いかりや長介=ドリフターズ=コメディアン→へえ~、演技もできるんだー。

の図式が当然だと思っていましたので、結構ショックを受けました。
今考えてみると、どちらかと言うと私は「オレたちひょうきん族」の方を見ていたと思いますが・・。
たしか、後半の方では「8時だヨ!」は教育上良くないとの評判が立って、例に漏れず私も親に「8時だヨ!」は見ちゃダメ!と言われた記憶があります。
まあ、もともと「お笑い」と言うものは「禁忌」とのせめぎあいですからね。
その辺の折り合いをつけ続けるというのは至難でしょうね。

しかしなるほど、こういうのがジェネレーションギャップと言うヤツか。
世代の相違か。

オラもおっちゃんになったもんだ。
と、妙な感慨に耽ってしまったものです。


これからこういう話が多くなって、そのたびにこう思うのでしょうね。


なにはともあれ、
いかりや長介さんのご冥福を祈ります。

合掌。

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