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スカート下のズボンは避妊具である。

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最近では、街で女子高校生などが、制服のやたら短いスカートの下にジャージのズボンを穿いているという光景をよく目にする。

世間では、どうもこの「制服スカートの下にジャージ」というものは「みっともない」という評価を頂いているようだが、ぼくの意見は反対である。

「制服スカートの下にジャージはアリ。」

いや、むしろ
「制服スカートの下にジャージはグッジョブ。」
とさえ思っている。

何故ならば、ぼくは女性のスカートの下のズボンは、「避妊具」のようなものだと思っているからである。
 
  
 
そもそも、なぜ、スカートの下にズボンがみっともないのだろうか?
それは、「先入観」なのではないか?
「スカートの下は、脚線が出ていないといけない。」
という先入観。
決め付けである気がしてならない。

スカートというものの衣服の構造上、冬は寒く、たとえストッキングを穿いたところで、どうしても足腰が冷えるということはスカートを穿いた事が無く、ましてやスコットランドの出身(※注)でもないぼくでも想像に難くない。

しかし、永きにわたる「スカートの下は脚線」という先入観が、「冷やさない方がいい、寒い」と分かってはいながらも、世間の目に負け、超えられぬ壁として女性達の前に立ちふさがり、心胆ならぬ足腰を寒からし続けて来たのではないだろうか。

それらの障壁を、
「っつーか、さみーから穿くのー。」
という大儀(?)を無意識のうちに掲げ、軽々と超越してみせたのが彼女らだとしたらどうだろう。

合理的とも、開き直りとも取れるこの行動は、少なくとも「見た目が悪いから・・」という理由だけで寒さに耐えるしかなかったスカート像を、そして女性像をも覆し、「自分の体は自分で守る」という自衛の精神を高らかに謳っている気がしてならない。

しかし、単純に
「では、衣服本来の目的、体温調整、肉体の保護を念頭に置いて、ズボンにすれば良いではないか。スカートはいらんではないか。その辺どうなんだキミ。」
というお父さん。(誰?)
それは違う。

彼女らは、ズボンで体温を維持しながら、制服スカートの可愛さも捨てたくは無いのだ。
つまり、自らの女性としての魅力的な部分も、十分に自覚しているのだ。
男性の自分たちに対する期待感も計算に入っているのですよ。お父さん。(だから、誰?)
ぶっきらぼうに「両立」を図ってしまったがために、「ちぐはぐ感」は否めないにしろ、試みとしては悪くないと思う。

女性が、女性の特質を生かし、女性らしく生きてゆく事に何の問題があるだろう。
「私は女性として生き、女性なりの知恵で自分の身を守る。」
という主張が、あのファッションから読み取れる気がしてならない。

つまり、どんな状況でも、
「セックスはいいけど、避妊しないと絶対ダメ。」
と言える、流されない、媚びない賢さがそこにあり、もしかすると奇抜にも見えるあのファッションの影に、しなやかで、したたかな、想像以上に成熟した女性像を持っているのかもしれない。
と、考えたのである。

だからぼくは、「制服スカートの下にジャージ」を着る貴女方を支持したいと思います。
(別にぼくに支持されても何の足しにもならんだろうが・・。)

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栄枯盛衰の味

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いつからか、頭の中にいついてどうしようもない存在に気付く。

想うだけで脳から汁が噴出し、顔は紅潮し目は充血し鼻からは荒い吐息が漏れ、心臓は早鐘のように脈打ち不整脈さえ併発し、四肢からは血の気が失われ、爪には白い斑点が浮き、大腸の働きは活発になり、あらゆる意味でいてもたってもいられなくなる。

そう、その症状は、私の心の中に入り込んできた難病。
「恋」である。

約12年ぶりの再会を果たしたときには、懐かしさに紛れて感じなかった感情が、2度目の縁を境に、急激な感情の変化を遂げ、恋慕の念へと昇華してしまった。

しかも、この恋は、相方(彼女)を巻き込んで、三角関係の様相を呈してきてしまっているのだ。
事態はますます混迷の度合いを深めている。

ぼくは両方好き。
相方も、恐らく両方好き。
向こうは、名前からして多分好いてくれているはずだ。
三者が三者とも「好き」のトライアングルを形成してしまっているのである。
相思相愛。
三者の、誰が欠けても成り立たない奇跡の関係。

それが、ぼくと、彼女と、お好み焼きの関係である。
 
 
 
お好み焼きが好きだ。
という事に、つい昨日気付いてしまった。
お好み焼きは、うま楽しい。
どちらかというと、「美味い」より「楽しい」が勝つ。
注文から、具が運ばれてくるまでが異様に早いのもイイ。
(そりゃあ、具を詰めるだけですからね。)
かき混ぜるのくらい店側でやってくれるのかと思いきや、それさえ客にやらせてしまおうというショーマンスピリッツに、「こんにゃろうめ。」と思いつつ、顔がほころんでしまう。
ニクい演出である。
油を敷くのさえ、人任せ。
焼くのもひっくり返すのも飛び散った具をまたかき集めるのもヘラでちょっとだけ端っこを持ち上げて焼け具合を見てベストなタイミングを計るのも裏面を焼く時にヘラで上から押さえつけるかどうかの判断もソースを塗るのもカツオブシを乗せるのも青海苔をかけるのもマヨネーズをかけるのもその分量さえ人任せである。

店員さんは、注文を取るのと、具や飲み物を運ぶのと、ガスをつけるのと、伝票を置くのと、会計くらいしか仕事が無いのではないか。
(こーやって書いてみっと、ウェイターとしては普通の仕事か。)
果たして厨房ではどういう作業が、どれくらいの人数で行われているのだろうか?
生の、または冷凍の具材を、注文に応じて鉢に入れるだけなのだろうか?

なにしろ、調理はほとんどが客任せである。
客は、調理半分(といっても焼くだけだが)、食べるの半分で、文句も言わずに楽しんでいる。
こんなにもぶっきらぼうな料理屋があるだろうか?

ぶっきらぼうと分かっていながら、それを許し、それどころかそれがイイという事になってしまう。
これはもはや「魔性」といっても過言ではない。

その「魔性」は、ヘラにもよく表れている。
ヘラは、ほとんどの場合、一つのテーブルに2本である。
二人以上の場合、一人一本。
要するに、一テーブルに2本と決められているらしい。
すると、焼き進めるうちにヘラが2本必要となる場面を通過することになって、
「ちょっとヘラ貸して」
となるのである。

ヘラを借りて、他の人間が見つめる中、「ひっくり返す」ことになる。
周囲の人間は、固唾を飲んで見つめざるを得ない。
喜悲こもごもの人間模様が展開される。
そこがまた計算し尽くされている感がある。
これがもし、ヘラの本数が4本とか6本だったとしたらどうだろう?
それぞれが、それぞれのお好み焼きに集中してしまい、気まずい沈黙が流れ、場は白けきり、子供はいたたまれずに泣き出し、女房は子供を叱りつつダンナをなじり、ダンナは酒に溺れ、仕事をなくし、ついには一家離散の憂き目を見るということもありえないとは言えない。
(多分、ありえない。)
一見不足とも言えるヘラ2本が、交流を生み、山場を生み、愛を育み、お父さんの威厳を生み、家族の笑顔を生んでいるのである。
そういうことに気付いてしまうと、隣の家族連れなどに
「その一家団欒は、ヘラのおかげだかんな。」
と教えてやりたくなってしまう。
言わないけど。

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目の前の鉄板に、大体二つ出来る丸い領土は、
「オレのものだかんな(by東海林さだお先生)」
感が滲み出てしまう。

お好み焼きは、国づくりである。
己の腕と、一本の、時には2本のヘラで作り上げる国家なのだ。
鉄板の上に落とされた領民は、国ごとにさまざまな文化を創造し、彩らせ、熱気は風土を芳香に変えて、鼻腔をくすぐる。
生まれたての生地の中は、香り立つほどの民族の特性が花開き、活気に満ち溢れるのである。
しかし、その栄華は短く、やがてかげりを迎えることになる。
ソースや、カツオブシや、アオノリや、マヨネーズなどの、いわゆる「特権階級」が、強力な権力を背景にのしかかってくるのである。
あわれ、具材という名の民族文化は、ソースやマヨネーズなどの強烈な風味に取り込まれ、否応なく「搾取される側」に立たされることになるのだ。

そして、国家の生命は、まさに終焉を迎えることとなる。
強権を行使しつづけるソース族に対抗すべく、生地族は国家領土をおよそ八つに分けての徹底抗戦、内紛が勃発するのである。
全面戦争となれば旗色の悪い生地族も、八分割された局地戦ではゲリラ的な戦法でソース族を翻弄し、各地では凄惨かつ酸鼻極まる闘争が繰り広げられた。
生地族の起死回生の一計は功を奏し、戦力は均衡してこう着状態となり、やがて生地族とソース族は戦いの無意味さを悟り、互いを尊重し、共生する道を模索し始めるのである。
しかしその時、突然の悲劇が国家を襲う。
内紛を傍観していた近隣の強国が、
「お、食べごろだナ。」
という宣戦布告とともに侵攻を開始。
生地族の「八分割の計」が裏目に出てしまい、哀れ、お好み焼き公国は分割され、連絡もままならず各個撃破の対象となり、あえなく併呑されてしまうのである。

国家は消滅し、後にはそこに国があったということの証明がわずかに鉄板に残り、凄惨な戦の痕跡が小皿に残るのみなのであった・・。

お好み焼きには、こんなにも壮大な物語があるという事をお気付きだろうか。
気付かずとも、お好み焼きを食べ終わったあとに、独特の寂寥を感じた方は多いはずである。
それこそが、栄枯盛衰、盛者必衰の理こそが、お好み焼きの最大の持ち味なのだ。
 
 
 
余談ではあるが、一人で食べるお好み焼きは、実にさみしいそうだ。(相方談)

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方言はキモチイイ。

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歳を重ねるほどに、方言が気持ちよくなってゆくのをしみじみ感じてしまう。

喋る言葉の端々に、自然と方言が織り込まれてきてしまうのだ。
それは、長年暮らした土地の空気から、知らぬうちに己の血液の中に染み込んでくる何かが体の中で徐々に作用してきて、症状が言葉に出てくると言うことなのではないだろうかと考えている。

昔は、「カッコワルイもの、ダサいもの」として、会話の中でつい出てしまった日には、赤面してうつむかざるを得なかった方言。
そう、方言は、いわば「言葉の放屁」であり、突発的な事故であり、忌むべき存在であった。
しかし今はどうだ。
会話の中で、上手く方言を織り込み、そのリズムがバッチリ決まった時の気持ちよさは、「今のオレの方言、グッジョブ!」と誉めてやりたくなるほどである。

つまり、方言とは「リズム」でないかなと。
そのリズムは、「風土の鼓動」なんでねーかと。
方言の中には、その土地の風土にもっとも適した「韻」が存在するんでねーのと。
んで、歳を重ねるほどに、その「韻の妙」さ気付き始めて、その「韻」を踏む事に悦びとか、快感を感じ始めるんでねーがと思うんスけどね。
その辺どースか、奥さん!
 
 
 
方言はキモチイイ。
ぼくの言葉の中には、確実に「方言の波」が押し寄せている。
言葉の含有率は、現段階として
「標準語:7、宮城方言:3」
となってきている。
今はまだ方言の割合が少ないが、これが「6:4」になり始めると、いよいよオッサン言葉の影が濃くなってくるのである。
やがて、言葉が方言に取り込まれて、含有率が逆転を果たした時に、一体どういう世界が見えるのか、今からそれが楽しみで仕方が無い。
 
 
 
余談ではあるが、相方(彼女)にもその波は押し寄せているようである。
しかも彼女の場合、主に標準語、それに多めの名古屋弁が混入し、たまに広島弁、そして私の影響か仙台弁が垣間見え、いよいよ東西中部入り乱れて混沌の様相を呈している。
含有率としては
「標準語4:名古屋3:広島2:宮城1」
くらいで、大まかな方向性として、どうやら「名古屋のオバチャン」に向かっているらしい。

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間違ったモテ方。

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我が家の飼い犬である「まる(メス2歳)」は、異様なほどにネコにモテる。

「まる」が歩けば、まるで「ハーメルンの笛吹き」のように猫はゾロゾロと列をなしてついてまわり、「まる」が座ろうものなら、囲み込んでの激しいボディチェック(スリスリ)を展開する。

「まる」は、いつもかなり迷惑そうな顔をしているのだが、根が優しい犬なので
「もー・・仕方ないわねえ・・」
と言う感じでネコを舐めてやっている。
しかし、たまに機嫌が悪い時など、たまりかねて
「ちょっと!いい加減にしてよ!」
と、激しく吠え付き、ネコを蹴散らす事があるのだ。

猫は驚き庭駆け回り、クモの子が散るようにいなくなるのだが、数分後にはこうなっている。

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常に5~6匹のネコストーカーに悩まされる「まる」。
モテ方を間違ってしまった犬の、明日はどっちだ。

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オッサン度が言葉に表れる。

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歳を重ねるうちに、自分の中に驚くほどの変化を見つけることがある。
それはきっと、良い事も、悪い事もひっくるめて蓄積された何かが、財産として結晶化し、「変化」の誕生を呼び起こすのだろう。

コンビニに買い物をしに立ち寄った時の事。
県内の情報誌や、ゴミ袋、帰り道に食べようとアイスクリームをカゴに入れ、レジへ運んだ。
会計を担当する店員さんは、妙齢の女性で、顔の造形はさほどでもないが、笑顔が素敵ななかなか可愛い娘だった。

つい、ややニヤけた顔になりながら、レジを操るグッジョブな店員さんを眺めていると、ふと用事を頼まれていたのを思い出した。
姉がネットで注文した本が、コンビニに配達されているから受け取ってきて欲しいという。
「ああ、そうだそうだ、忘れるとこだった。」
注文の番号と名前の書かれた紙切れを懐から出し、レジのお姉さんにその旨を伝えた。

レジのお姉さんはニコニコと、タッチパネルのレジを操作して確認作業をしてくれる。
その様子をやはりニコニコと、嬉しそうに眺めている僕。

その時だった。

「ピーーーー」
という電子音。
何度か同じように確認しながら番号を入力しても、やはりレジからは
「ピーーーー」
という拒絶の声があがる。
お姉さんは、やや焦りを滲ませた顔色で、
「申し訳ありません。こちらの番号が一桁多いようで、コンピューターの方で受付けられないようなのですが。」
と言った。

私の脳内で、さまざまな可能性が浮かんだ。
しかし、それはすぐさま一本の道を残して掻き消えた。

「この可愛いお姉さんが間違えるはずがない。ウチの姉が間違えたんだな。間違いない。(キッパリ)」

お姉さんに、
「ありゃあ、んで、多分その番号が間違えてるんだわ。ちょっと確認しますね。」
と言い残して店を出る。
頭の片隅で、レジ台の上、袋に入れられたまま横たわるアイスクリームの安否が気遣われる。
携帯が壊れているので、公衆電話にテレフォンカードを滑り込ませた。

電話の向こうで姉が余所行きの声。
「姉ちゃんよ、コレ、番号間違えてっぞ!」
頭ごなしな僕。
さんざん押し殺した声で押し問答をしたのち「番号は合っている。」という姉の押しに負け押し黙る僕。

店の中に再び入り、番号は間違えていない事を伝えると、先輩店員と見られるオバチャンが一緒に確認作業をして、すんなりと機械はデータを照合した。
番号は合っていて、お姉さんの操作ミスだったのである。

なんということであろうか。
ロスした時間をどうしてくれる?
無駄にかかった電話代30円をどうしてくれる?
アイスが溶けていたらどうしてくれる?
実の姉をハナから疑ってしまった事実をどうしてくれ・・まあ、これは別にいいか。
お姉さんを責める怨嗟の叫びが心の中に渦巻いた。

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許す。

「や、いいッスよ~。合ってて良かったですう~。」
快く許す。
むしろ、こっちがごめんなさいと言いたい。
(なんでかは分からない。)

本の会計をしながら、お姉さんが話し掛けてくる。
「インターネットって、面白い本があるんですか~?」
そこでまた一瞬、悩んだ。
本の趣味は人それぞれだ。
別に、ネットでしか売ってない本というのはあんまし無い。
実に返答に困る質問である。
ちょっと前の僕なら、
「いや、どうでしょうねえ・・。」
と、つれない返事を返すところだっただろう。
「どうしたものか・・。」と悩むが早いか、脳が、いや、むしろ脊椎が

「はい~。面白い本いっぱいッスよお~(ハート)。」
という返事を返していた。
「あ、やっぱりそうなんですかあ?いいなあ~。」
「探す手間も省けますしね~。(ハート)」
「へえ~。便利ですね~。」
「はい~。本、買ったらまた来ますねえ~(ハート)。うふ~(ハート)。」
と言いつつ、伸びた鼻より下部分を引きずるように、軽い足取りで店を後にした。

若い頃は、つい構えてしまって結果的に人を遠ざけていたのだが、近頃は若いお姉さんと話すのが嬉しくて楽しくて仕方が無い。
エエなあ~。
女性はエエなあ~。
可愛いなあ~。
という気分になってしまう。
華やいでしまう。
ときめきを臆する事無くあらわにしてしまうのである。

なんという開放感であろうか。
なんという充実感であろうか。

果たしてそれが「交流能力の成長」なのか、はたまた「羞恥心の衰退」なのかは分からないが、ただ一つ言えるのは僕が着々とオッチャンになりつつあるということだろう。

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病室の中心で「お大事に!」を叫ぶ。

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「言戯」のライバルblogである「たろぐ」の管理人さん、たろーさんが、「おたふく風邪(耳下腺炎)」を患い入院した。

おたふく風邪は、大人になってからかかると非常に性質が悪いとは聞いていたのだが、本当に大変らしい。
その辺は「たろぐ」の「たろーの闘病日記(勝手に命名)」を見ていただきたい。
ちなみに、その闘病による体重の減少如何で、「病院で痩せるダイエット」として出版する意思もあるそうだ。
それがヒットしたら、是非「26歳からのおたふく風邪」という題名のCDもリリースして欲しいものである。

病気というものは、本当に気が滅入る。
その反面、色々なことに気付かされる貴重な機会でもある。
たろーさんは「家族と健康のありがたさ」をしみじみ感じたそうだ。
私も数年前胃炎をやって、ひと月で10kgの減量に成功(?)した時、日々健康の大切さに気付かずに生活する事の贅沢さを痛感させられたものである。

たろーさんの一日も早い快復と、一日も早い入浴を願ってやまない。

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コメントの削除はしたくないです。

おとといあたりから、突然アクセス数が異様に増えてしまったために、一部、いかにも宣伝と取れるような意味不明のコメントなどが入ってきています。
(ついはしゃいで、「一日一万超えた~」とかいう記事を書いた私にも責任があります。申し訳ありません。)

先ほど、誠に申し訳ないのですがそちらのコメントは削除させて頂きました。
(重複コメント以外で削除したのは初めてです。あまり気分のいいものではありませんね。)
ここは私の個人的なウェブログなので、コメント、トラックバックの削除は、すべて私の判断でさせていただきます。

本当に、余程のことが無ければしませんが・・。
 
 
 
私が今、一番懸念しているのは、はに~さんのコメントにも見られるように、良識を持った方々が「宣伝に取られてしまうかも・・」と思ってしまい、コメントやトラックバックやリンクを控えてしまうのではないかと言う事です。

ウェブログを管理していて一番嬉しいのは、アクセスが増える事はもちろんですが、コメントやトラックバックで意見をいただけること、リンクして頂いてblogや、ホームページ同士の輪を広げてゆく事。
もっと言うなら、良い言葉と良い言葉を繋ぎ合わせて、良い言霊の輪が広がる事だと考えております。
「言戯」と言う名前は、立ち上げ当初、そういう気持ちで命名しました。

細かい「自分ルール」を押し付けるつもりは毛頭ありませんが、出来ればコメントなどをする時には、一言二言でも意見や感想を書いていただければと思います。
よほどあからさまなものでない限り、「宣伝じゃねーの?」などとは思いませんし、削除もしませんので。


おそらく、アクセス数も程なく元のとおりに収束してゆくと思います。
そうしたら、また少しずつ、少しずつ、輪を広げてゆこうと考えております。

どうぞよろしくお願い致します。

「言戯」管理人:そんちょ

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もしも私が・・

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もしも、違う人生を歩むとしたら?

もしも、私が女性として生を受け、今日まで生きてきたとしたら一体どんな人生を送っていただろう?
と想像することがある。

多分、地味。
男性として存在する今現在でも、見た目は十分に地味(というか、なるべく目立ちたくない)なのだから、女性として生きていても派手になるわけがない。

そして、やはり性格的に勤めなどには出ないだろうから、社会的に女性のたしなみとされる化粧などとも無縁の生活だと思う。
服装は、ほとんどが汚れても構わないツナギを着用。
どちらにせよ、細かいことを趣味にするだろうから(やはりblogを書いてる気がする)、目は悪いだろう。
よってメガネも着用。
髪はクセッ毛。
ある程度伸びるに任せ、簡単に後ろで結わえている。
顔はもともとやや女顔なので、このまま移行する。

あまり大食でもなく、運動も割とコマメにするので、スタイルは割とイイという事にしておこう。
密かに筋トレをして、姿見の前で「あたしって、ナイスバディだわ・・」とか言っていると思う。
(男性である今でもしてるから。←ちょっとナル)
乳の大きさであるが、豆腐が好きだから、そこそこデカイのではないかしら。
まあ、Cカップくらいにしておくわね。
あら、こうしてみると結構イイ女じゃない。

恋人が出来るのは多分他人より遅いわね。
男性に声をかけられても、内心ビビって、外見はクールに、コソコソ逃げ出すにタイプに違いないわ。
もし、誰かと付き合ったとしても、あまりのヤキモチ焼きに辟易されて、長続きしないかも知れない。
スキを見て携帯電話の履歴を盗み見るくらいの事はしてのけるわね、きっと。
(誤解の無いように言っておきますが、男性であるワタクシは相方の携帯を見たりはしません。)
そして、知らない女の名前を見つけては
「ちょっと、この女誰よ!」
と泣き叫ぶんだわ。
そして、彼が使っている目覚し時計が前の彼女からの贈り物だと聞かされて、
「それ、捨ててよ!」
と言うわね。
なかなか捨てない彼に業を煮やして、羽枕をぶつけてアパートを飛び出すのよ。

道路に散らばる白い羽根は、
「本当は探して欲しい」というメッセージなのよ。

走る私の髪でシャツで揺れるたくさんの白い羽根
きっと私はどうしようもない貴方に降りてきた天使。

って、いつの間にかマキハラノリユキさんの歌になってしまったわ。
いけないいけない。
ってゆーか、せっかくの素晴らしい歌詞も逆の立場から書くと、単なる自信過剰でヤな女になるわ。
言葉って怖いわね・・。

ああ・・ともあれ、段々とアタシの「そんちょ♀像」が見えてきたわ。

料理は割と得意(以後、延々と妄想が続きます。)

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歌の記憶

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こないだ買ったCDは、相方(彼女)と私、二人ともが好きな歌手のものだった。
その日の帰り道、クルマのCDプレイヤーにさっそくセットして、少しだけ大き目のボリュームで聴きながら帰った。

その歌手が、ヒット曲を出し始めたのは丁度二人が歩く道を一度大きく離した頃だった。
それから約10年間、我々は、まったく違う土地で、まったく違う人たちと、まったく違う生活を送りながら、この歌手の歌を聴いたり、歌ったりしていたのだろう。

そして今現在、クルマの助手席でCDに合わせながら呟くように歌をなぞる彼女は、曲の間奏を縫って、
「懐かしいねえ。」
「あの頃はこんな事があってねえ。」
「あ、歌、邪魔だったら言ってね。」
と、ひとりごちるように話しかける。

その様子をクルマの運転席で、ハンドルを微調整しながら相槌を打つ。
もしかしたらこの人は、一緒に歌を聴いて、過去をポツポツと話すことで、過ぎ去った時間をなぞり、空白の時期を埋めようとしているのかも知れないなあ・・。

と、ぼんやり思っていた。

・・・

ああ、またノロケちゃった。

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一日10,000アクセスオーバー!?

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うーんと・・。
多分、アクセスカウンターの故障とかではないとは思うのですが(ニンジャツールズの解析でも15,000超えてるし)、どうも、こないだ書いた「二兎を追うものの結末」が、人気のあるニュースサイトに取り上げられたらしく、それが色々な所に伝播、拡散しているようです。

今まで600か、多くて1,200くらいだった一日のアクセス数が、一気に12,000を突破しました(20時現在)。
10倍以上です。

軽くビビってます。(いや、ホント。)

これは間違いなく異常事態です。
もともと一万人を超えるような読者を引き止める力は無いと思うので、あくまでも一時的なものだとは思いますが、こういう数字はいい記念になります。

何かの縁で当blogにきてくださった皆さん。
読んでくださってありがとうございました。
取り上げてくださったニュースサイトの管理者様、ありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

ありがとうございます。

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物欲の女神

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昨日の事。
かねてより欲しいと思っていたアルバムCDが頭から離れず、ついには神経まで及んだ虫歯のように、日常生活に支障をきたすところにまで至ってしまったため、やむなく購入を決意した。

なにしろ、CD屋さんに購入目的で足を踏み入れるのは約10年ぶりのこと。
私が知らない間に、CDの購入方法というか、作法が約10年前と現在でズレているかも知れないと一抹の不安を抱き、スペシャルアドバイザーとして相方を召集した。

相方は、普段、私が食事やお茶、ガソリンと本以外のモノにはほとんどお金を出さない、必要なものも、いよいよ必要に迫られるまで買わないという事を知っているので、非常に驚いた様子であった。

我々二人は連れ立って、よく立ち寄るショッピングモールのCD屋さんに踏み込む。
入り口は狭く、防犯用のセンサーが出迎えてくれた。
別に後ろ暗いところがあるわけではないのだが、何故か緊張の色を隠し切れず、それを紛らわすため、相方に
「コレさ、入る時にピヨピヨピヨ!って鳴ったらどーする?」
と聞いたところ、
「他人のフリして先に行く。」
という非常にクールな返事を頂いた。
少しさみしい気分になりながらも、無事入店を果たしたのである。

店内は、CDが所狭しと置かれていた。
(そりゃあ、CD屋さんだかんね。)
約10年前と違うのは、DVDコーナーがかなりの面積を占めているという事。
ビデオコーナーは昔もあったが、CDの棚の隅っこにほんのチョッピリあるだけだったと思う。
恐らく、価格がお手頃になったのと、陳列スペースが少なくて済むというのが要因の一つなのだろうと結論付け、目的のブツを探し始める。

普段、買うつもり無くこう言ったお店をウロついているとまったく感じないのだが、「買う!」という意思を持って店内を歩くというのは、なんとも言えない高揚感がある。
オレ様、これからお前らの誰かを買うゾ。」
という気分になる。
「オレ様」という、己の性格から対極に位置する一人称も、ついつい自然に出てきてしまうというものだ。
何か、自分が偉くなったかのような「全能感」がそこにある気がしてくるのだが、すぐにそれは自分自身ではなく、お金の力なのだと気付き、平静を取り戻すに至るのである。

目的のCDを見つけ、それを相方と検討したあとレジへ運ぶ。
レジには黒いTシャツにジーンズ、首から店員の名札を付けたストラップを下げたにーちゃん店員がいた。
いつも思うのだが、こういうCD屋さんとラーメン屋さんのユニフォームは、何故か黒のTシャツが多い。
黒というのは、人に言い知れぬ不安感や威圧感を与える色だと思うのだが、どうしてわざわざそんな色を選ぶのだろうか。

などとぼんやり考えながら三千円ちょっとの会計を済ませた。
防犯用のチップを外され、袋に入れられて手渡される瞬間というのは、「これは、オレのものだかんな。」という、征服感と、安心感が感じられる。
普段、あまりにモノを買わない生活を送っていると、そのあまりの快感に心臓は高鳴り、脳はドーパミンで満たされ、目眩すら覚えてしまうのである。

同じ歌手のCDを購入した相方の会計を待ちながらその辺をウロウロしていると、こないだ観た映画「スウィングガールズ」のサントラが出ているのを発見した。
別にそのサントラには食指は動かなかったのだが、その横に置いてあった「スウィングコレクション」だとかいうCDに目が釘付けになる。
ジャズの有名どころの曲を(イン・ザ・ムードとか、A列車で行こうとか、シング・シング・シングとか、ムーンライトセレナーデとか)、これまた有名どころ(グレン・ミラー楽団とか)が演奏したものを集めたCDが売られていたのである。
これは欲しいと思った。
まさに、一度解き放たれた物欲が連鎖反応を起こしている。
それが自分でも分かった。

そこに持ってきて、相方が
「あ、これはいいなあ。」とか、
「2,000円だってよ。おトクだよ。」とか、
「コレを逃すと次は無いかもね。」とか、ラジオショッピングのような言い回しで私の購買意欲を刺激し、しまいにはCDをつまんでヒラヒラさせ、風を送ってくるのである。
(この行動に何の意味があったのかは今だもって不明ではある。)
久しぶりに芽生えた物欲にすっかり酩酊し、頭はクラクラ、目はチカチカ、耳はキンキン、鼻はピクピクであった。

まさに、相方が「物欲の女神」に見えた。

財布には、十分お金は入っている。
しかし、一度に2枚もCDを買うのはあまりいいことではない気がする。
大体、こないだ壊した携帯電話を買い換えなきゃならない。
それに、靴下も穴だらけだから、新しいのを買わなきゃならない・・
なにより、今は気分が高揚している。
異常事態である。
こういう時の軽挙妄動はロクなことがない。

私の自制心は土俵際、しかも徳俵にまで追い詰められながらも、見事、物欲をうっちゃった。
後ろ髪を断ち切りながら、店外への脱出に成功したのである。

先ほど、さんざん私をそそのかした相方は、私につられて自分もCDを一枚買ってしまったため、
「わあ。私、2年ぶりにCD買っちゃったよ。いいのかなあ・・ドキドキする。」
と、興奮気味であった。
普段、やはり本くらいしか買わない人なので、私と同じような気分だったのだろう。

今回の内なる戦いを通じて、物欲と言うのは、甘美極まりないものであり、同時に危険極まりないものであると再認識した事は言うまでも無い。

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地面が大きく揺れた日に

昨夜の事。
夕餉の食卓で、姉(家具職人)が
「あ!地震が来るんじゃない?」
と言い出した。
揺れている気配はしない。
それぞれが半信半疑ながらも地面の揺れを感じるのに集中し、それぞれが視覚で確認しようと天井から吊り下がった電灯や、汁物の中の味噌汁の水面を見ていたとき、その音に気付いた。

「ごごごごごごご・・」

地面の奥底から聞こえてくるような、耳ではなく足元から聞こえてくるような、無気味な音。
それがだんだんと南を背にしていた私の背後から殺到してくるのが分かった。
その音が、足の裏を通過した途端、大きな横揺れが来たのである。
いつもの「カタカタカタ・・」という揺れ方ではなくて、大きくうねるように揺れている。
こういう揺れ方は珍しい。
地震に慣れているともいえる東北人でも、この揺れ方は実に不気味で、大地震を予感させるには十分であった。
家族の顔をそれぞれ見ながら、今、火の気のある場所を思い浮かべつつ、「これ以上大きくなったら動く」のボーダーラインを計っていた。
見ていたテレビには、揺れが収まらないうちからニュース速報が流れた。
「新潟で震度6強の地震」。
地面の波紋よりも、一歩遅れて電波による情報がもたらされる。
程なくして揺れは収まり、一同、一応の安堵を感じながら、
「なんだや、新潟。台風のすぐ後にそんな大きな地震では、ものすごい被害になるぞ。」
「ねえ。地盤が緩まっている所を揺らされたら、崖崩れだって・・」
と口々に新潟県への心配を募らせていた。

そして、2度目の大きな揺れ。

3度目の揺れでは、新潟のキャスターが生放送をしながら揺れが起きていることを伝えた。
それから10秒ほどして、現在地にも揺れが到達する。
新潟で発生した揺れが、約10秒で宮城県まで到達するのである。
その凄まじいまでの速さに慄然とした。

結局、本震は三回起きた。
三回とも震度6クラスの大地震である。

それがどれほど怖いものか、よく分かる。
去年、宮城県でも立て続けに三回、震度6の地震に襲われるというよく似た事があったからだ。
私の住む地域は震度5くらいで深刻な被害は無かったが、知り合いの住む町がもっとも被害の大きかったところにあり、堤防の決壊、家屋の倒壊、道路の破損などの地震の痕跡を目の当たりにしているのである。

地震は、予測が出来ない上に今回のように大きい揺れの場合は対処法が無い。
なにしろ、重力の影響を受けている立場の者としては、地面が動いている限り身動きが取れないのだから。
揺れが収まるまではとにかく運任せなのである。
(もちろん、収まってからの賢い動き方はあるが)

新潟では、いまだ余震が続き、次々に深刻な被害が報告されている。
少しでも早い地震の収束と、被災者の救助を願ってやまない。

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二兎を追うものの結末

我が家の外に住み着いている猫に、「カゲヨシ」という名前のネコがいる。
非常に人懐っこいネコで、警戒心がまったく無く、人に撫でられ、可愛がられる事を無上の喜びとしている。

そのカゲヨシが、昨日、鳥を咥えて戻ってきた。

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そう、見事、鳥の捕獲に成功したのである。
普段はトロく、緩慢な仕草しか見せないカゲヨシも、やはり野生に生きる者。
やるべき時はやるものだと感心しきりであった。

カゲヨシの咥えている鳥を良く見ると、まだそんなに深手は負っていないらしく、必死にもがいている。
可哀相だが、弱肉強食は自然の掟である。
また、カゲヨシは自らの力で食料を確保したのだから、それを取り上げるのは筋違いというものだろう。
と言うワケで放っておく事にしたのだが、その様子を見ていた母が、

「ホレ、カゲ!コレけっから(あげるから)鳥放してやれ!」
と、自分の食べていたピザの切れ端をカゲヨシのそばに置いたのである。

内心、私は思った。
カゲヨシには、野生の血が脈々と流れている。
しかも、今は獲物を捕らえ、気分が高揚しているはずだ。
今まで、同じような状況は何度も見て来たが、全ての猫は自分の獲ったものの方を選び、口の周りを朱に染め、恍惚の表情を浮かべてきたのだ。
今回も、母の救いの手が鳥まで届く事はないだろう・・・

って、

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迷っちゃってるよ!

ええ~~??
カゲちゃん、メチャメチャ迷ってるよ!
スゲエ葛藤が、ここまで感じられるよ!
そこまで悩む猫は初めて見るよ!

カゲヨシは、今、己の口腔内でトドメを待つばかりの鳥と、焼きたての湯気をモウモウと立てるピザ(石窯焼き)のはざまで激しく揺れていた。
思考の荒波の中、選択の舵を必死に取っていたのである。

約3分ほど、カゲヨシの内なる戦いが続いたその時。
突如として展開は急を迎えた。

囮に置かれたピザを発見した他のネコが、それに殺到したのである。
驚き、慌てて所有権を主張しようとしたカゲヨシは、思わずクチの力を抜いてしまい、その瞬間、捕らわれの身であった鳥は、一瞬の自由を無駄にする事無く、カゲヨシの爪と牙の届かない中空へと舞い上がっていった。

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まさに右往左往、選択を誤るどころか、決めかねたがために両方を逃してしまったカゲヨシ。
周囲のギャラリー(人間)からは落胆のため息と、少しの失笑が漏れ聞こえた。
カゲヨシは、「全然気にしてませんよ。ボカア。」といわんばかりに、必死で毛づくろいをしていたが、その動揺は隠し切れないものがあった。

まさに、
二兎を追うもの一兎をも得ず。
カゲヨシよ、お前は野生云々の前に、絶対的に判断力に欠けている。

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う~ん・・失敗した・・。

記事を書いた後、推敲のほかに、UPしてからも一度、客観的に自分の文章を読むようにしているのですが、つい昨日書いた「記事数、ちょうど300」は良くなかった。
ず~っと気になっていたのだが、やはりダメ。

なんだか、「お金がないんだよ~、誰かなんとかして~」と言っているような匂いのする文章になってしまった・・。
イヤな流れの文章。
明らかに失敗です。

「ビンボーだけど、文章を書くのは楽しい。」
「そんなことより、人が集まってくれることが嬉しい。」
「本当に皆さん、ありがとうございます」

と書きたかったのに、どうも違う方向に行ってしまったみたいです。
ひとえに私の文章力の無さ。

気分を害された方はごめんなさい。
 
 
 
こうやって、失敗する事っていいことだなと思います。
失敗って大切。
失敗しないで生きていく方法って、ある。

自分の間違いや、失敗を絶対に認めない事。
自分は何もしないで、他人のやった事に対してとやかく言うだけ。
それで、常に自分は正しいと思いこめる。

自分もそういうところがあって、それでずいぶん周りの大事な人を傷つけた。

もちろん、そういう人も必要だとは思う。
でも不自由だとも思う。
失敗は自由であり、推進力であると思う。
失敗を積み重ねて、それらを踏み台にして何かをつかめたらいいな・・と思います。

そして出来れば、他人の失敗も責めてばかりでなく、何故、失敗したのか、これからどうすればそれは起きないのか、その失敗は何を生んだのか、ということを一緒に考えていければいいな、そういう人間になりたいなと思うようになった。

ここ数年、悩んで、悩んで、こういう結論(まあ、当たり前のことなんだけど)に落ち着けたというのは収穫だったな~とも思います。

いや、だからと言って、それを前の記事の言い訳にするつもりは無いんですけどね。
文章を書く時は、もう少し考えて書くようにしたいと思います。

反省・・。

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危険の中に輝くもの。

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お肉屋さんで働くお姉さんから目が離せなくなる。

お肉を注文し、それを支度してもらっている間に、どうして目が離せなくなるのかについてぼんやりと考えてみた。

まず、ユニフォームが良い。
華奢な体に少し大きめの厨房着を肘の下あたりまで軽くまくり、その上に花屋さんのような小さい前掛けを着け、化粧はごく薄く、髪は出来得る限り後ろに引き絞って緊張感を醸し出している。

オバチャンの店員になると、やや開き直りとも取れるマイペースさを発揮して、トレーナーにエプロンというのも多いが、妙齢の女性は規律を守り、白くて細いシルエットを厨房に踊らせているのである。
そこに滲み出る、凛とした雰囲気、油断の無さがまたイイ。
 
 
お肉屋さんのお姉さんは、揚げ物もする。
業務用フライヤーの前で、菜箸、アミを構えながら、目の前に浮き上がりつつあるメンチカツのもっともベストな引き上げタイミングを計っている。
腰に手を当て、構えるその姿は実に思慮深そうである。
火加減を微妙に調整する仕草が甲斐甲斐しい。
油煙にさらされながらも顔にテカりが見られないのは、それ用の対処をしているからだろうか?
そこに女性的な部分を発見する。

お肉屋さんの厨房内は、大型の刃物、機械、高熱の油などに囲まれた、非常にリスキーな領域である。
客として、安全な場所から見ていても、「どうか無事で・・!」と、思わず手に汗を握ってしまう。
手に汗を握りつつ動向を見守っているうちに、その女性店員が先ほど注文した品物を運んできてくれる。
心配の対象が安全地帯に近づいてきてくれて、少し安堵する。

大抵のお肉屋さんは、カウンター代わりに置かれたショーケースの上に量りやレジがある。
ショーケースは女性からするとちょっと高めで、自然と女性の店員さんは顎を上にあげて作業をしなければならない。
すると、自然にお客に向けて顔の無防備な角度をさらす事になるのである。
普段、女性というのは顔を下から見られるのは嫌がるハズであり、親しくも無い女性の顔を下から見る機会というのは、実に少ないはずである。

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今まで、危険地帯で油断無く働いていた女性が、ふと自分の前で無防備な面を晒すと、こちらは
「ああ、よくぞ無事で・・。」とか、
「これは、俺にだけ見せてくれる顔なんだな・・」などと、勘違い甚だしい労いを捧げたくなるのである。
 
 
つまり、お肉屋さんの女性店員がグッジョブなのは、精悍ともいえる雰囲気の中に垣間見える女性的な部分と、油断ならない状況下での無防備さの対照が、その魅力を際立たせていると考えられるのである。

お肉屋さんにお勤めの妙齢の女性店員さん(条件がキビシイな。)、グッジョブ・・!

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記事数ちょうど300。

記事数も丁度300ということで、たまには毛色の違う話を。

当blogでは、アクセス解析をつけております。
といっても、別にそのデータを使って何かをしようとかそういうのではなく、たまに見て「おお、増えたのう。」と嬉しさを噛み締めるだけなのですが、月の通算アクセス数が、数万になっているというのは、ちょっと我ながらビビリます。
だって、1ヶ月に数万回マウスがカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチと、このblogを見るために押されているわけですから。
それは、スゴイエネルギーです。
感動してしまいます。

これを、何かしらの方法でお金に出来たら・・と考えないでもないですが(そりゃあ、ねえ。)、広告などを入れるのはどうにも好かないのでやめておきます。
なんというか、今現在の、自分の好きなblogの雰囲気を壊したくないので。
そのせいか、いつまでたってもビンボーですが、まあ、それはいいです。

こないだ、知り合いの整体士のスギヤマさんにも、
「あなたの一番の財産は、その『感性』なの。お金なんて追っちゃダメ。」
と言われてしまいました。

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「感性」があるかどうかは分かりませんが、お金が無いのは身に染みてわかっております。
・・まあ、最低限、食っていけるだけのお金があればいいのですが・・。 
 
 
 
話が逸れました。 
 
ウチの場合、検索などで引っかかる人はあんましいません。
まあ、いわゆる「旬」のネタはほとんど使わず、日常の本当に細か~~~~い事を、重箱の隅をつつくかのようにネタにしているので、仕方ないと言えば仕方ないのですが。
あとはノロケネタですね。(笑)
 
検索で引っかかる方の、「検索ワード」というものも見られるのですが、首位にあるのが大体「ローライズ」なのです。
皆さん、ローライズがお好きなのですね。(違うか)
ええ、もちろん私も好きですが。

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今は、リピーター率が大体6~70%くらいを占めていて、「お得意様」が、本当に少しずつ少しずつクチコミ(というのか?)で増えている状況です。

もともと、「新聞の四コママンガ」みたいに見てもらえればいいな~。
と始めたblogなので、その点は成功しているような気がします。

あ、あと、今さらですが、ウチはコメントもトラックバックも大歓迎です。
どちらもとっても嬉しいです。

リンクもフリーというか、むしろ熱烈歓迎です。
おかげさまで、「ひろがるブログ」の方でもどんどん被リンク先が増えています。
これも、大変ありがたい事です。

記事を書くのが忙しくて(あとついでに仕事も忙しくて)、なかなか巡回先以外を見に行けませんが、ゆっくりでも関わりのあるblogは拝見させていただいております。

これからも、日常の隅っこをホジホジしていきますので、お時間があるときに見ていただければ幸いです。

ありがとうございます。

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リモコン探訪

リモコンは非常に困る。

テレビのリモコンというものは、その存在感の希薄さからか、日常においてしょっちゅう遭難する。
必要になった時、大体4割くらいの確率で「どこだどこだ」と探す事になる。

見つからなければ、テレビの下のほうについているチマチマしたボタンで操作すればいいのだが、リモコンが無いという状況は、非常に居心地が悪い。
以後、何をしていても常に「リモコン不在」の意識が離れなくなる。
本来「テレビを見る」という目的だったものが、一瞬で「リモコンを探す」という使命に変わる。
リモコンを探すにしろ、まずテレビをつけてからゆっくり探せばいいはずなのだが、それは何となく悔しい。
敗北感に打ちひしがれる。
なんとしても、「リモコンのスイッチでつけなければ」と思い込んでしまう。

リモコンというのは、実に不心得な代物である。
しょっちゅう遭難するのに、遭難者としての心得がなっていない。
遭難した場合、一番正しい選択肢は「その場を動かない事」であるはずなのに、リモコンはあっちにフラフラ、こっちにフラフラと落ち着きなく、絶え間なく動く。
所在が常に定まらない。
住所が不定である。
(まあ、自分が色々なところで使うからなんだけどね。)

かといって、こちらからコンタクトを取る方法が無い。
常にリモコンからテレビへの一方通行である。
使用者に対しては、一切関知しませんので悪しからず・・という態度がありありと窺える。

捜索が難航してくると、だんだんと気が滅入ってきて、
「なんで、テレビを見るのにこんな苦労せにゃならんのだ。」とか、
「なんだか、俺の人生って、1/10くらい探し物だよな・・。」などと思えてきてしまい、最初は、恋焦がれていたリモコンに対して、今度は憎悪の念が沸きあがり、
「こんなにも求めているのに、何故応えてくれないんだ・・!」
と、逆恨みを始め、ストーカーチックな気分になってくる。

部屋中をひっくり返し、シェイクにシェイクを重ね、まるで局地的な台風が過ぎ去った後のごとき様相を呈し始めて、ついには心が折れ、捜索を断念するという事態に至るのである。
「もう、絶対テレビなんか見ねえ!」
と言い捨てて、ベッドに突っ伏した瞬間、何故か布団の間に包まったリモコンを発見するのだ。

先ほどまでの憎悪は消え失せ、再会の喜びと、目的成就の安堵と、発見場所への疑問がない交ぜとなり、脱力感に変化し、ほんの数秒前「もう見ない!」と決めたテレビをアッサリとつけ、チャンネルを一通りチェックして、

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と納得し、すぐに消すのだ。
こうして事件は一応の決着を見るのである。

まったくもって、リモコンというものは困ったものである。

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後ろめたい!

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中古品屋さんというのは、いちいちもって後ろめたい。

あれほど、「客」と言う立場から後ろめたさを感じる店というのはなかなか無いのではないかと思われるほどである。
一体、どこに、どうしてそんなにまで後ろめたさを感じてしまうのか考えてみた。

中古品屋さんというのは、まず入店するところからして後ろめたい。
モノを買うとしたら、本来の作り手が介さない流通システムに対し後ろめたさを感じ、
モノを売るとしたら、自分の使ったものに対してお金をもらうということに対する申し訳なさと、果たして買ってもらえるのだろうか?という緊張感を強いられる。

そして、店内を物色していても後ろめたい。
店内にあるものは、そのほとんどが元の持ち主に「不要」の烙印を押されたものばかりなのである。
いくら新品同様に磨かれ、陳列されていても、どことなく一度「要らない」と言われた者の「どうせ、俺なんて・・」と言った感じの悲哀や怨嗟のうめきが聞こえてくるような気がしてならない上に、それを求めるという行動にも、「足元見てんな・・。」感が拭えない。

DVDコーナーなどをウロついていても、後ろめたさはついて回る。
何故か、ああいう中古DVDのコーナーというのは、エロ系のDVD、目のやたらデッカイ、鼻のやたらちっちゃい女の子のアニメDVDが多い。

何となく見ていて、そういったDVDの前にいつの間にか立っていてしまい、すぐそばのレジの女子店員の視線を感じて(多分、見てはいないだろうけど)、
「いえいえ、自分はコレが目当てではありません!」
と、そそくさと離れなければならなくなるのである。

衣服のコーナーでもやはり後ろめたい。
女性の服のコーナーを通りかかった時に、キャミソールなどの下着なんだかなんだか分からないものの裏地を見てしまうと、途端に居たたまれなくなる。
間違いなく「使用済み」の衣服の裏地を見るというのは、何故か
「見てはいけないもの」を見てしまったような気がしてならない。

そんな感じで、腕を前に組み、後ろに組みして、やや大袈裟に感心しながら後ろめたさと居たたまれなさに右往左往しつつ店内を徘徊していると、その様子が余程挙動不審に見えるのか、警備員、または私腹巡回員の猛烈かつ熱烈なマンマークを受けてしまうのである。

それが余計に後ろめたさと居たたまれなさを増大させ、ついには店の外への脱出を余儀なくされるのであるが、出ようと思って立った自動ドアが何故か開かないのだ。
「なんだ?閉じ込められた??」
と焦りを感じつつよく見てみると、
「防犯のため、入り口専用」
と書かれているのである。

ここで、後ろめたさと居たたまれなさに、己の粗忽さから来る恥かしさも加わって、いよいよ所在がなくなる。
うつむき加減に「出口専用ドア」に小走りする羽目に陥るのである。

それで分かったのだが、店の中に充満する後ろめたさや居たたまれなさ感は、店員の人数の多い、大型店舗の中古品屋さんほど顕著に表れる。
それは、店員による有形無形の「監視的空気」も大きな要因の一つであり、誰かが入店した時に発生する、店員の一斉「イラッシャイマセー!」は、「店員はそこかしこにいるぞ、おかしなマネすんなよ。」と言われている気がしてならず、常に「痛くも無い腹を探られている感」が醸しだされてしまうのではないかと思う。

考え過ぎかも知れないが。
 
 
 
そういうわけで、中古品屋さんがニガテでしかたがないのだが、反面、中古品屋さんなどで、小学生の頃遊んだゲームや、どこで入手するのか分からない代物、一体、いくらで買い取ったのか分からないようなものを見て回るのは楽しくて仕方なかったりする。

後ろめたくても楽しい。

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川はスバラシイ。

川はいい。

川というものは、恐らく一日いても飽きないのではないかと思われる。
川は、ただ見ていても楽しい。
まず、空気が清々としている。
そして、音は常にサラサラと心地よく耳をくすぐり、目の前を幾分早めの水の流れがところどころヒダを作っている。
石はひとつ残らず丸くて、歩くのに一苦労するが、ひとつひとつ個性があり、思わず顔を描いてやりたくなる。
(相方は「顔描いて、文鎮にしよう。」と、2~3個持ち帰っていた。スゴイ嬉しそう。)

水の流れはよく似ているが、よく観察すると微妙に個性がある。
とめどなく、微妙な緩急をつけて流れる様につい見とれてしまう。

川は、少しだけちょっかいを出しても面白い。

目の前に川があって、足元に石があると、人はそれを投げずにいられなくなる。
まず、座りながら2~3個水面に投げ入れる。
河原の石は良く弾む事に感心する。
着水した地点の飛沫が、ナナメに立つのが楽しい。
よく聞くと、石はそれぞれに水に入った時の音が違う。
「ボチョン」だったり、「タポン」だったり、「チャパ」だったり、「チョポン」だったりする。
自分の投げた石の音が予想を越えていい音だったりすると、たまらなく嬉しくなる。

音を楽しんでいるうち、何かの拍子に「ピッピ」と跳ねたのを見ると、
「ああ、そうだ。これをやらなきゃ。」
と立ち上がる。
何故かそこには義務感というか、やらずにはいられない感が生まれる。

そして、本来の自分の投球フォームに関係なく、全ての人がサイドスローになる。
投げているうちに、自分のイメージよりも水面を跳ねる回数が少ない事に不満を感じ、切磋琢磨を始める。

まず、石を探す。
平べったくて、軽めの石を探す。
指のかかりも重要な要素である。
そして、射角を検討する。
アンダースローの方がスムーズに跳ねるかも知れないと試すが、ある程度高さがある方が良いのではないかと思い直し、再びサイドスローに戻す。
「水面が乱れている所は上手く跳ねないナ。」
と、静かな流れのところを探す。

たまに、5回以上跳ねた石を見て、「よしよし、肩があったまってきたナ。」
と、ますます投石に力が入り始める。
試行錯誤を繰り返し、気付かぬ間に数十分間投げつづける。
何かにとり憑かれたかのように投げまくる。

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やがて、肩にニブイ痛みを感じて、ようやく我に返り、大きい石に座り込み、呼吸を整える。
整えながらも、「より跳ねさせるにはどうしたらいいか・・」という事を考えている。

28にもなって、石の跳ねた回数がどうのなんて言っているのはどうかと思われるかもしれないが、どっこいそんな事は無い。
河原においては、人間の身分に貴賎は無く、ただ「石が何回跳ねるか」ということが人間の価値を決めるといっても過言ではない。
(過言かも知れない。)

私はそういった、比較的アクティブな楽しみ方をするが、相方は、石の着水音を楽しみ、石の形を楽しみ、川の流れを、ただゆったりと楽しんでいる。

川は、人それぞれ楽しめる所も、いい。

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グッジョブだったらしい。

こないだ、相方(彼女)とハンバーガーを食べた時の事。
対面の席で食べていた相方が、私の顔を見つめているのに気づいた。

「どした?」

と聞いたところ、

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と言うのである。
何の事か分からず、しばらく考えていたのだが、「はっ!」と気付き、慌てて頬を拭った。
そう。
私は、ハンバーガーを食べる時につい油断してしまい、ソースが横から漏れ出して頬に付着していたのである。

「あ、取っちゃだめだよ。今、等間隔についてて可愛かったのに。」
と、何故かウットリする相方。

「指ですくって取ってあげたかったのに。」
悔しがる相方。

相方の、「女の浪漫」を垣間見た夕暮れのバーガー屋。

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素敵な油断

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携帯電話の普及で利用者も激減し、公衆電話はどんどん減少の一途を辿っていて、当然、電話ボックスなども、どんどん姿を消している。

ほんのひと昔、どこにでもあった電話ボックスは、急激に「懐かしいもの」、「珍しいもの」に姿を変えてきている。


よく通る道に、電話ボックスがある。
そこの電話ボックスは、いつでも誰かしら利用している。
住宅地のそばの、割と幅の広い道路。
坂道の途中という立地で、携帯電話はもちろん電波が届く。
しかし、多くの人が電話ボックスを利用して、電話をかけているのである。

考えてみると、電話ボックスというものは実に良いものである。
少し重い引き戸を開けて中に滑り込むと、途端に街の喧騒が遮断されて、目の前には会話するための機械がただ鎮座している。
「よし、電話をかけるぞ。」
という決意というか、覚悟というか、緊張感がいや増す。
電話帳の紙のニオイが箱の中に充満していて、少し重い受話器を取り上げ、アドレス帳から電話番号を確認し、または記憶の中から取り出して、硬貨を入れる。
呼び出し音が鳴り、相手が出た時には、「プーーーーー」という音がなり、相手の「ハイ、〇〇〇です。」というのが聞き取れなくて、ある程度、声色で予測する必要もある。
たまに、普通に話していたら実は間違い電話だったということもある。

公衆電話は、携帯電話に比べればはるかに手続きや間違いの多いものである。
しかし、その分、会話というものが重視され、濃縮されるような気がする。

携帯電話の便利さと同じくらい、公衆電話の不便さは、良いものなのかもしれない。

電話ボックスの中、シヤワセそうな油断顔を見せるあの人は、もしかしたら携帯電話を持っていて、それでもわざわざ電話ボックスを使っているのかもなあ・・。と思った。

電話ボックス、グッジョブ・・!

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シオリについて。

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シオリが好きだ。

シオリはいい。

シオリは、「キチッとしてる感」が滲み出ている。
読みかけの本の、読みかけのページをしっかりと守り、知らせてくれる。
「ハの字起き」や、

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「異物挿入」
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などの安易な手段ではなく、本の読みかけを守るために生まれ、ただ粛々とその天職をまっとうする様を見ていると、
「お疲れさん。頼むぞ・・!」
と、声の一つもかけ、肩の二つも叩いてやりたくなってしまう。
それほど勤勉で、寡黙。
愛らしいヤツなのである。

シオリというものは、その種類によって、付き合い方に若干の差異があるような気がする。
文庫などに付属している、厚紙を長方形に切り、そこに出版社の広告などが載っているシオリなどは、割かしぞんざいに扱われがちである。
何しろ糸の切れた凧のように、繋ぐものが何一つ無いがゆえにいつの間にか紛失という事も珍しくない。
紛失に紛失を重ね、いつしか部屋の掃除をした時に、あっちからもこっちからもシオリが出てきて困るという状況に陥ってしまう事も珍しくない。
(珍しいかもしれない。)
しかも、存在感に乏しいため、ある程度読み進めるまでその存在を失念していたなんてこともあるくらいである。
シオリが挟まっているのに、「ハの字置き」されているという異常事態まで招いてしまうのだ。

一方、立派な装丁の本に見られる、いわゆる「花ぎれ」あたりから伸びる紐状のシオリなどは、付き合うのに覚悟を要する。
何か、「読むからには最後まで責任を持ちます!」といった、「結婚前提のお付き合い」を強いられる雰囲気がある。
やはり、高級感が「良家感」を連想させるのかも知れない。
 
 
 
今、読んでいる本に、シオリが挟まっている様子を見ていると、その本と自分の絆がそこにあるのがよく分かる。
「ボクたち、交際しています!」
という雰囲気が醸し出される。
もし、本を読む時に、いかにも他の誰かが挟み込んだようなシオリがあった場合、読むのをためらう人も多いのではないだろうか。
「ああ、今、この本には交際中の誰かがいるのだな。」
と、遠慮してしまうのではないだろうか。
横恋慕した自分を恥じてしまうのではないだろうか。
まあ、中には「人が読みかけているからこそ読みたい!」と思ってしまう、魔性の持ち主の方もいるにはいるでしょうが・・。

シオリというのは、その位置により、自分と、その本との親密ささえも視覚で認識できる。
前半だったら、まだ知り合って間もない頃の初々しさと、少しの緊張があり、
中盤に来ると、だんだんと馴染んできて、お互いを尊重し、気の置けない雰囲気が嬉しくも楽しく、
後半には、やや倦怠感も伴い、近いうちに訪れるであろう別れの時を予感して切ない気分になる。

そういった意味では、シオリというものは、隔壁であり、段取りの確認であるような気がする。
自分にとって最高の本と出逢った時には、何度読んでも飽きず、どこから読んでも面白い。
シオリが必要なくなるというところもまた、いい。

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知識の泉にて

図書館は、「知識の園」である。
ここに集う者は知識の探求者であり、知識を積み重ねる事を無上の悦びとする。
静寂の中、紙の擦れる音だけが粛々と聞こえる館内の雰囲気は、身も引き締まり、心地のよい緊張感が全身を包むむ。

何を隠そう、ワタクシも図書館が大好きな「知識の探求者」の一人である。
図書館はいい。
何と言っても無料で本が借りられ、読めると言うのがスバラシイ。
ワタクシのように、「赤貧」がノーマル状態の人間には、欠かすことの出来ない施設なのである。

さて、その日も「知識の探求者」たるワタクシは、図書館に赴いた。
ヘミングウェイとか、ドストエフスキーとか、与謝野晶子とかの著書を読み、それらについて深く思索を巡らせるのが昔からワタクシの楽しみの一つとなっている。

・・嘘ですが。
 


余談ではありますが、図書館で働いている「司書」のお姉さんというのは、何故にあんなにも可愛く見えるのだろうか。
という事を、ヘミングウェイとか、ドストエフスキーとか、与謝野晶子とかの本を探しながらぼんやりと考えていた。

他の図書館は知らないが、近所の図書館の司書の方には制服というものが無い。
トレーナーにジーンズ、それにエプロンという限りなく普段着チックな出で立ちなのである。

女性にエプロンというのは、それだけでも胸ときめくものである。
家庭的な雰囲気が醸し出される。
しかも、知識の泉たる図書館の知的な空気も加味され、清楚な雰囲気まで纏ってしまうのである。

そのエプロン女性が、返却された書籍を満載したカートを一生懸命押しながら健気に本を戻している様を見ていると、

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と思ってしまう。

「家庭的」で、「知的」で、「清楚」で「健気」なイメージを勝手に抱いてしまうのである。


まったくもって、「司書」さんというのはグッジョブ極まりない存在である。
図書館での司書さん鑑賞というのは、私のライフワークと言っても過言ではない。

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タコヤキ愛憎劇

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タコヤキには、いつも頭を痛める。
悩まなくていいところで悩まなくてはならなくなる。
いっそ、タコヤキがこの世に無ければ、どれほど安堵できるかと思うことさえある。
しかし、すぐに「タコヤキのいない世界なんて考えられない・・」と、切なくもさみしくもなり、枕を涙で濡らす事になるのだ。
それほどタコヤキというものは、悩みの尽きない食べ物である。

何故、タコヤキは悩みが尽きないのだろうか。
タコヤキの本場である関西から遠く離れた東北の地に住む私が、タコヤキについて考察し、それを発表までするのはおこがましいのではないか?という不安も一瞬よぎるにはよぎったが、敢えて、「東北の一タコヤキ好き」としての見解を、書いておきたいと思ったのである。

まず、「食品」という観点から、タコヤキについて述べたいと思う。
タコヤキは、「オヤツ」ではない。
トレイの上に同種連帯のコミュニティを形成する彼らからは、
「俺らをヨ、そこらのスナック菓子風情と一緒にされちゃあ困んのヨ。」
という主張がありありとうかがえる。
味も、タコヤキ用ソースに、カツオブシはもちろん、マヨネーズにカラシに青ノリ、果てはケチャップまで受け入れてしまう度量の大きさを見せる。

度量の大きさは見えるのだがしかし、タコヤキが「食事」になるか?と問われれば、「否。」と答えざるを得ない。
「オヤツとしてはハンパじゃねーが、食事としては一歩及ばず。」
という感じが拭えない。
つまり、
「帯に短し襷に長し感」が常に付きまとう気がする。

やはり、ご飯のオカズにならない。
というのが、もっとも大きな要因となっている。
タコヤキには、ご飯は合わない。
パンなどもってのほかである。

それは、タコヤキソースと、タコヤキの生地(タコ含む)のバランスが絶妙にマッチしているからであり、もし、タコヤキとご飯を同時に食べれば、ご飯は明らかに口腔内で疎外感を味わう事となる。
つまり、タコヤキはそれそのものがある種の完結を見てしまっているのだ

しかし、その完成はオヤツ界では孤高に過ぎ、食事界では方向性の差が埋められないという事態を招いている。

その微妙な立場は、食べるタイミングにも深刻な影響を及ぼしている。
タコヤキを食べるタイミングというものは、存外に難しい。
食事前に食べれば、次のお三度には苦戦必至であるし、食事後には「これ以上、タコヤキまでは入らんヨ。」と言うことになる。
日常において、タコヤキの入る隙間というのは以外に少ないのが実情であり、それは同時に、多くの人間にとって、タコヤキは日常の中に潜む非日常であり、「イレギュラー的存在」であるとも言えるのだ。
 
 
 
タコヤキは、頑ななまでに不器用である。
他の誰とも合わせようとしない。
例えば、趣を同じくするお好み焼きなどはどうだろう。
お好み焼きは器用である。
そして、柔軟であり、やや節操に欠ける。
ご飯のオカズになれと言われれば「ハイハイ。」の二つ返事であり、自助努力として、主食感を高めるために体内にソバを内包する事さえ厭わない。
具はバラエティに富み、食い手が自ずから焼けるというエンターテイメント性まで手に入れている。

まさに、「お好み」の冠名に恥じない自由奔放さを欲しいまま発揮している。
その点、タコヤキはやはり不器用である。
「タコ」を「ヤキ」しました。という名前が、己をがんじがらめにしている。
いや、考えようによっては、「タコ」を「ヤキ」したのは俺だけだかんな。
という断りというか、前提を掲げて、不可侵の聖域を形成しているとも取れる。
そういう自閉的、閉鎖的な雰囲気も感じられてしまう。

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つまり、タコヤキはあらゆる面において、不器用で頑なで、ちょっと排他的な、抜き差しならない食べ物であると考えられるのだ。
そして、その抜き差しならなさがたまらない魅力を発し、同時に苦悩を呼び、心の中に葛藤の「タコヤキ低気圧」を発生させるのである。

ちなみに、この「タコヤキ低気圧」の中心気圧は、日本の場合940オクトパスカル(oPa)と言われている。

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グッジョブ・ピープル発足のご挨拶。

じゅじゅさんの発案をキッカケに、ホントに作っちゃいました。

グッジョブ・ピープル。

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「グッジョブ(good job)」というのは、直訳すると「良い仕事!」ということです。
つまり、
「ようやった!」とか、「やるね!」とか、とにかく「誉める」意味の言葉だと思うわけです。
ただ、「素晴らしい!」とか、「最高だ!」までは行かない、「ちょっとだけ誉め」です。

ちょっとだけだから、ケチケチしないで誉められます。
ちょっとだけと言っても、そう馬鹿にしたものではありません。
ちょっとだけでも、誉められて嫌な気持ちになる人はあんましいないし、誉めると自分もキモチイイものです。

何故かというと、多分それは、人や、モノを誉めるということが、その対象と価値基準を分かち合っていると言う事だから。

「誉めるもの」を日々探しながら歩いていれば、いつもの風景が、いつものモノが、いつもの自分が、ちょっとだけ違って見えるのではないかと、ちょっとだけ豊かなキモチになれるのではないかと、ちょっとだけ大それた事を考えているのです。

皆様の、いつもの日常の中の、ちょっとだけ誉めたい事、「グッジョブ!」を見つけたら、こちらまでトラックバックしてください。

http://member.blogpeople.net/TB_People/tback.jsp?id=00858

それでは、

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ミラクルアンラッキーに死す。

何気ない日常の中に、信じられないような不幸というものが突如として現出することがある。
私は今日、その「ミラクルアンラッキー」に見舞われた。

買出しに出かけた時の事。
何気なくコンビニに立ち寄り、お茶でも買おうとクルマを降りた。
助手席に置いてあった携帯電話を右手に持ち、その右手でドアを閉めようとしたその時だった。

手に持っていた携帯電話が、突然ひったくられたように手からちぎり取られ、締まったクルマのドアに勢いよく挟まれてしまったのだ。

一瞬、何が起きたのか自分でも分からず、
「え?ええ??」
と呟くばかりであった。

ひったくられた携帯電話をよく見てみると、何故、突然手から飛び出したのかが分かった。
事故の詳細は以下のとおりである。

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右手に携帯電話を持ったまま、ドアを閉めようとした時に、

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ストラップがドアロックの出っ張りに引っかかり・・

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気付かずに締めたために手からちぎり取られ、

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板ばさみに。

原因は、ひとえに自分の不注意なのではあるが、どうしてこうも見事に引っかかるものだろうかと、なんとも言いようの無い脱力感に見舞われた。

ドアに強く挟まれた携帯電話は、あわれ液晶画面が二つとも大破し、完全に機能しなくなってしまった。
携帯電話が壊れてしまったのは、まあ仕方が無いとして、なかに入っていた写真がダメになったのは痛い。

こういうバカップル写真が入っていたのに・・。

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号泣レストラン

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いい話、素敵な言葉がたくさん書かれているblog、「なころぐ」さんにて、「お子様ランチにまつわるお話」を読んだ。

何を隠そう、私はこういう話がニガテである。
なぜならば、必ず泣いてしまうからだ。

今回のこのお話も、パソコンの前でつい涙腺が緩み、鼻汁腺まで弛緩してしまい、瞑目し、ティッシュを寄せて鼻をかみ、そのティッシュの鼻汁が付着していない部分で目を拭った事からも(今思うと、逆にすれば良かったかな・・)ちょっと鼻声で「・・エエ話やなあ・・。」とひとりごちたことからもどれだけニガテかがお判りいただけると思う。
 
 
 
このお話に出てくる店員さんは、確かに職務規定には違反しているが、本当の意味でのプロフェッショナルなのだろう。
従業員に、そのプロフェッショナル意識を自覚させるディズニーランドもまた、素晴らしいエンターテイメント施設なのだろうと思ってしまうことからも分かるとおり、そういった粋なはからいはとてつもない相乗効果を生み、多くの人間に優しいこころとか、思いやりとか、誇りとか、美しいものを思い出させるのではないかと思う。
 
 
 
余談ではあるが、「なころぐ」というネーミングと、表紙のイラストから、まやさんばりのネコ好きな人かと思いきや、実はネコアレルギーというオチに私はズッコケを禁じ得ませんでした。

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親しさゆえの恐怖

どーーーして男って、そう言ったくせに守るべき対象である妻にビクついているのでせふかっ!?
…と、まだLOVE×2のそんちょさんに問いかけてもナニでありますが。

じゅじゅさんのコメントより
 
 
 
はっはっは。
そんな、じゅじゅさん。
怖いに決まってるじゃないですか。
いかにラヴラヴとは言え、相方の怒った時は、私も逃げ出したくなりますよ。

なにしろ、彼女は黙りこくって全身から殺気をみなぎらせますからね。
もし、私に犬のシッポがあったなら、股ぐらに巻き込んでお腹見せますよ。
降参ですよ。
代わりに、タマタマが縮み上がりますよ。
つまり、子種の工房が店じまいするということです。

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何故、身近な女性ほど怖いのだろうかと考えてみたのですが、愛情を感じる女性に対して、男は無上の尊敬の念を抱きます。
その尊敬の対象が怒るということは、「尊敬+恐怖=畏怖」となり、これ以上無い恐怖となるのではないかと思うのです。

どうしたって、男よりも女の方がエライなんてこと、みんな分かっているからだと思いますです。
どうでしょうか。

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可憐に戦うグッジョブ・・!

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花屋さんで働くうら若き女性というのは、何故、あんなにも可愛く見えるのであろうか。
ショッピングモールの中、私は遠目に花屋さんを眺めながらぼんやりと考えていた。

おそらく、花屋というものには、女性を引き立たせる要素が豊富に取り揃えられている事が要因として大きいと思われる。

まず、何と言っても「花」である。
「花」は、女性と相性がいいことは間違いない。
美しい草花は、女性の器量、容姿、雰囲気を間違いなく3割は底上げする。
背景との相乗効果が発揮される。

そして、女性の「たおやかさ」を強調する。
風に揺れる花のように、ゆらゆらと可憐に咲き、男に思わず
「オレが守ってやんねーと。」
という気にさせる。
(たとえ、それが勘違いであったとしてもだ。)

しかし、そんな華やかな雰囲気の中で、花屋の店員さんは対称的な存在となる。
動きやすい服装、腰のあたりだけをカバーする前掛け、そして、腰に帯びた剪定ハサミやカッターなどの物騒とも言える装備品が、見事に「働く女性」、ひいては「戦う女性」を彷彿とさせるのだ。

「たおやか」、「可憐」に、「武装」、「強さ」という対照的な魅力がぶつかり、化学反応を起こして「可憐な戦う女性」というフェロモンを分泌し、「ああ、ああ、そんな細腕で懸命に働いているのね。」という甲斐甲斐しさや、いじらしさまでも感じさせ、世の男性の脳髄を溶かすのである。

まったくもって素晴らしい。
これをグッドジョブと言わずにいられようか。

(若い女性の)花屋さん、グッジョブ・・!

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ままならぬお菓子

シュークリームは、媚びない。
きっと、そのプライドの高さ、強情さ加減が人気の大きな要因ではないかと思われる。

世の菓子は、媚びすぎている。
子供に媚びている所為からか、大人にとっては「赤子の手をひねる」ような存在になってしまっている気がする。
(「赤子の手をひねる」と言う行為が、人道的観点から容易かどうかはこの際置いておく。)
与し易しと思われている感が拭えない。
つまり、侮られてしまっているのだ。

だから、幾多の困難を乗り越える事に喜びを感じる大人には物足りず、幾多の困難をあまり好まない大人には依存されてしまうのだと思う。

シュークリームは媚びない。
決して自分のフォームを崩さず、自分の等身大を受け手に問い掛けてくる。
シュークリームを食べる事を決意した時を思い出して欲しい。
誰もが、「よっしゃ、行くか。」と構えるはずである。
シュークリームは、こちらの食べやすい大きさには歩み寄ってこない。
一口ではとても頬張れず、かといって刃物を用いて切り分けるわけにもいかない。
「小細工しないでかかってきなさい!」
という気迫が感じられる。
そこでやや気圧されながらも、人は仕方なく、クチビルを剥き、歯を剥き出しにして迎えに行かねばならない。

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「菓子のくせに食えぬヤツ・・」と、食いながら思うことになる。
どうにも第一印象は良くない。
第一印象は良くないというのに、何故か人は魅入られたようにシュークリームにかじりつく。
何故だろうか。

恐らくそれは、シュークリームの持つ「色気」がそうさせるのではないかと思う。
シュークリームは色っぽい。
硬い皮の中に、柔らかいクリームを満たしているところ、
クチを半開きにしているところなどが妙に艶かしい。
吸い付かざるを得なくなる。

しかし、シュークリームは甘くない。
もちろん味覚的には甘いのだが、一筋縄ではいかないところにまたも困惑する。
吸い付いて中のクリームを吸い出して、
「もう、オレのモンだかんな。」
と思い込んだ途端、シュークリームはまたも手のひらを返し、突き放す。
クチビルの横や、脇のあたりからクリームがハミ出し、頬や指に粘りつくという抵抗を見せる。
普段ならば、「生意気な菓子め!」などと怒り出してもおかしくないところではあるが、苦労して距離を詰めた経緯がある相手に対しては、人は必要以上に寛大になってしまうものである。
「しょうがないな。」
と、苦笑しながらも頬を拭い、指を舐める。
「ままならないところも、魅力なのさ。」
さらに転じて「オレがついててやらねーと。」
と、肯定してしまうのである。

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そうして「ままならぬ」と「しょうがないな」を繰り返し、やがて両者の間に信頼関係が生まれ、分かり合えたところでシュークリームは姿を消すのである。
「オレ色に染めたナ。」
という征服感を感じた時には、もうどこにも姿は見当たらないのだ。
この引き際の巧みさも、シュークリームの手口の一つである。

そうして人は新たなシュークリームを求め、シュークリームに溺れてゆくのである。
恐るべきはシュークリーム。
ままならぬ事で、その存在価値を高める稀有な存在なのだ。


余談ではあるが、「プチシュー」は、「媚びてしまったシュークリーム」と言った感じが拭えず、非常に残念な気がしてならない。

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嬉しいあたたかさ。

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相方(彼女)が、帽子を編んでくれた。
カタチはお揃いの色違いである。
(まあ、当然サイズも違う。)

手づくりの品は、何故こうも嬉しいのだろうか。

それはきっと、作っている間、こちらの事を色々考え、想って作ってくれているということが嬉しいのだろう。

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そして、時間の消費割合が多いからだと思う。
お金は稼げばまた手に入るが、時間は取り返しがつかない。
そんな貴重なものをたくさん消費して、作ってくれたというのが嬉しい。

私の頭のサイズにピッタリ合った帽子を被るたびに、あったかくて、嬉しくなる。

ええ、ノロケですが何か?

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独り食いが出来ますか?

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「独り食い」が出来ない。

出先でお昼時や夕飯時になった時、一人でどこかのお店にブラッと立ち寄って、「オバチャン、とんかつ定食ね。」とか言う行為が出来ない性質なのだ。

一人で外出時に、どうしてもお腹が減った時は、コンビニやスーパーで食べ物を買ったり、某有名道化師軽食店の「運転通り抜け」を利用して、人気の無い公園や、海辺でモソモソ食べる機会が多い。

何故、店屋での独り食いがこんなにもニガテなのだろうか?
・・について考えてみた。

まず、スペースの問題である。
ファミリーレストランを始め、ほとんどの飲食店は、複数人数で入る事を前提に作られている。
二人ないし四人が会食するべく用意されている空間を一人で占領しての食事は、考えようによっては贅沢ではあるが、やはり居心地の悪さが否めない。
「いや、なんかもう、ごめんなさいね。一人でこんな・・」
という気分になってしまう。
席の向こうに出来る、「空のイス」のポッカリ感が、寂寥感を増大させる要因の一つであると思われる。
しかも、混雑時における独り客は、高確率で「相席」という事態をも招いてしまうのである。
「相席」によりポッカリ感は解消されるが、あの微妙な「気まずさ」が(東北人の場合、余計にそういうのがある気がする)、せっかくの料理をも「不味く」してしまう気がしてならない。
 

 
次に、タイムの問題である。
どちらかというと食べるのが遅い「スローフード実践者(無意識に)」の私は、外食の場合常にこの問題に直面する。
目一杯早く食べているつもりなのだが、傍から見ると「本当によく噛んで食べるねえ・・」ということになるのだ。
個人的に店屋では、パッと食べて、パッと立ち去るのがいいお客さんだと思っているので、「早く、はやく!」と急きたてられる(と思い込んでいる)雰囲気が孤独感とあいまって居心地の悪さを助長する。
たまに、食事が終わった後、スポーツ新聞をじっくりと眺めながら、楊枝でシーハーしつつあまつさえタバコまでくゆらせてしまう「達人」を見かけるが、きっと私は一生かけてもあの境地には達する事は出来ないだろう。
「ああ、早く立ち去らないと、このお店の回転率を落とす事になっちゃうな・・。」
と、冗談抜きで思ってしまうからである。
これを真性貧乏性という。
 
 
 
そして、やはり最大の理由は「さみしい」ということだろう。
店内での独り食いは、四面楚歌にも似て孤立無援である。
いや、別に自分以外は「敵だ!」とかは思っていないのだが、なんとなく。
ただ黙々と、これから制覇すべき食べ物を眺め、メニューを眺め、店内のポスターを眺めして食べ進めなければならない。
かといって普段食事時に誰かとずっと喋りつづけているわけではないのだが、やはりアウェイでの黙々は、ハナから敗色濃厚の旗色が否めない。
そのアウェイの状況を打破すべく、マンガなどを読みながら器用に食事を片付けてゆく「達人」も見かける。
非常に合理的で羨ましいが、独りの時にコッソリとならいざ知らず、人前でアレをする度胸は無い。

やはり、食事は身近な人と一緒に行くのが一番楽しい。
特に相方(彼女)と連れ立って食事にゆくのは嬉しいものであるが、食事が始まる前、終わった後などに、「ちょっとゴメンね。」と言い残して相方が席を外した時の手持ち無沙汰感は特筆モノである。

メニューを見、店内のポスターを見、視線を泳がせる対象が尽きると、水を一杯口に含んで嚥下し、こうなる。

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黒色鼻紙モニター報告

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fanshenさんは、「ブラックティシュー」で一山当てる腹積もりらしい。

なるほど、「ブラックティシュー」とは、詳細を聞けば聞くほど納得させられる部分の多い商品である。
私も以前から、女性の生理用品には詰めるものや当てるものがあるのに、なぜ鼻炎や花粉症などの、いわゆる鼻の「おりもの」、「経汁」には詰めるものや当てるものが存在しないのだろうかと不思議に感じていたのである。
(なんだか生々しい話でごめんなさいね。)

「不思議だナ。」
と思いつつ、原因を究明することもなく、対処法を考案するでもなく捨て置いたのは、私が鼻炎でも花粉症でもないからであり、本当の意味で鼻炎、花粉症キャリアの人々のことを分かってやれていなかったと言う事の表れであることは明白なのである。

そこで、せめてもの罪滅ぼしに、「ブラックティシュー」の研究開発の一助を担うべく、自身を検体として装着テストおよび問題点の提起を図る事にした。

なお、実験にはマジックで黒く着色したティシューを使用し、「装着実験」、「呼吸実験」、「発音実験」、「外見実験」などを試みた。

~結果報告~
(2005年度村立そんちょ研究所調べ)

■ 装着感について ■
鼻の穴に異物を挿入する違和感は、時間とともに薄らぐ。
しかし、鼻と密接な関係にある目周りは時間とともに少なからず影響を受け、涙目になるケースが認められた。
「渇き目」にも追加効果が期待できる可能性あり。

■ 呼吸について ■
鼻からの呼吸は諦めざるを得ず、口主体の呼吸法になる。
鼻汁の塞き止めのメリットが上回る。

■ 発音について ■
「ハ行」の発音がわざとらしくなり、「ナ行、マ行、ン」の発音時には鼻栓が鼻腔内で反響し、クシャミが誘発される危険性が認められた。
クシャミ暴発時には、鼻栓の露見、同時に鼻栓ダムの決壊による鼻汁の氾濫の可能性も否めず、早急な対処・対応が必要と思われる。

■ ビジュアルについて ■
小鼻の膨張は不可避。
小鼻の膨張を抑制する詰め方にはある程度の熟練が必要とされ、結果、敷居の高さが問題となる可能性もある。
鼻栓成形の小型化は、塞き止め効果とのバランスが難しい。
さらなるモニターの実験を繰り返し、年代ごと、鼻の形ごとの大きさを細分化して明記し、おおよその目安をマニュアル化することが必要だと思われる。
マスクとの併用も手段の一つではあるが、既成の白色ティシューとの差別化が難しくなる。
 

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以上が「ブラックティシュー」に関する商品モニター報告の一部である。
特許取得、商品化には幾多の困難が待ち受けていると思われるが、それらを踏み越え、「県内兎年の成人女性でNO.1を誇る貧乏人」を公称するfanshenさんの億万長者への「成り上がり」を見る日が楽しみであり、「ブラックティシュー」が大ブレイクし、巨万の富を築いた暁には、ラーメンの一杯もおごっていただければ幸いである。

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母性と情熱の間。

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今、宮城といえば「保育士」がアツイ。

「保育士」と言えば、つい最近まで宮城県が舞台となったNHKの連続テレビ小説「天花」が有名だが、個人的に最初の1~2回を見て、あとはマトモに観なかったので何とも言いようがない。
(じゃあ、引き合いに出すなよ)
しかしながら新聞には歴代連続テレビ小説の視聴率ワースト1を記録したとの事でデカデカと掲載されており、「ああ、観なくて正解だったか。」と不思議と安堵している次第であります。

さて、話は逸れましたが、「保育士」さん。
昔は女性の保育士さんを「保母さん」と呼んでいた。
「保育士さん」というのは、ちょっと堅苦しい雰囲気がどうも好きになれない。
なぜ、「保母さん」ではダメなのだろうか。
つらつらとその理由を考えてみるに、どうも「保母さん」という職業名がよろしくないような気がしてきた。
いくらプロ意識を持って、職業に従事したとしても「ほぼ」と呼ばれるということであり、なんだかいつまでたっても半人前のような気がしてしまうから、「保育士」といういかにもプロっぽいネーミングになったのではないかと思われる。
(もしかしたら違うかもしれない。)

ああ、また話が逸れた。
実は本日、保育士のお姉さんが我が家に来訪し、お会いする機会に恵まれたのだ。
姪っ子が通っている保育園の園長先生が、遠足の帰りにわざわざ送り届けてくださった際に、そのお姉さんも同行して来たというわけなのだ。

若いお姉さんの保育士さんというのは、その存在自体が胸ときめくものがある。
だからといって「どうこうしたいナ。」とかいう気は起きないのだが、なんというか、えもいわれぬ温かさと、一種独特の色気を感じる。
何故だろうか。
ぼんやりとそのお姉さんの顔を眺めながら考えてみた。

昔で言うところの保母さんの売りは、なんと言っても「母性」である。
「母性」というものには、もちろん子供も弱いが、当然男も弱い。
しかも、若い女性(未婚だとさらに)のふと見せる母性などには、脳天を打ち抜かれるほどの魅力を感じてしまうものだ。
(まあ、男全員が全員とは言わないが。)
保母さんは、常にその「母性フェロモン」を全身から噴出、纏いながら行動しているのである。

なので、Tシャツにジーンズという出で立ちにも、
「ああ、動きやすい格好なのね。子供たちの相手は大変なのね。」
とか、
長いストレートヘアにも
「ああ、そんなに長くて、子供たちに引っ張られたりしないのかしら。」
とか、
首から下げている可愛いペンにも
「ああ、それで書類とかを処理するのね。しかも、子供にウケのいいように可愛いのを選んでいるのね。」
とか、
Tシャツをズボンにインしているのは、
「ああ、子供たちに引っ張られるのを防ぐためなのね。」
とか、全てに肯定的になり、温かいキモチになってしまうのである。
これは、尋常な精神状態ではない。

「母性フェロモン」に脳を侵食され、ついつい精神が退行し、
「優しく叱って欲しいナ。」とか、
「っつーか、ヤンチャな俺を見てくれ!」みたいな欲求が沸々とたぎるのである。

母性と情熱の間にたゆたう快感に酔いしれてしまうのだ。
これは、一種の酩酊状態である。
それほどに、「若い女性の保育士」と言うものは男を狂わせる、危険な存在だと言える。

まあ、私には相方(彼女)という最高の女性が存在するので(ここは特に太字にして表記したい。)、そこまで深刻な影響は無いのだが、やはり「保母さん」と聞くと、心のどこかがとろけずにいられないのはいかんともし難い男の性である。

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赤裸々コンビニ

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背丈による入場規制があるのはジェットコースターだけだとばかり思っていたが、どうもコンビニエンスストアにもその規制があるようだ。

しかも、遊園地にあるウサギさんのキャラクターの描かれた可愛いポップで、
「ボクより小さい子は乗れないよ♪」
などと書いてあるものではない。
入店時には、お客から到底見えぬ出入り口の内側にひっそりと、しかもやや陰湿に「地表からの高度表示」が貼付されており、購買客である我々は、店から出る時に初めて自分の背丈が計られ、審査されていた事を知り、うろたえ、歯噛みして悔しがり、反面、審査を図らずも見事突破し、無事買い物をし終えたことに安堵するのである。

しかし、何故コンビニに「背丈の規制」があるのだろうか。
ジェットコースターならば安全ベルト(バー?)が機能しないというまっとうな理由があるのに、コンビニにはそれが見当たらない。
せいぜい、タバコを買う時、お酒を買う時に身分証の提示を求められるくらいなものである。

幸か不幸か、今までコンビニの「背丈規制」で引っかかった事が無いので、その辺の理由が皆目見当もつかない。
果たして、背が低いとアウトなのか、高いとアウトなのかさえ判然としていないのだ。

ということは、「背丈規制」ではないのかもしれない・・という結論に至る。

 
そこで、もう一つの仮説を立てた。
実は、「コンビニ強盗があった際の、犯人の特徴を特定するための基準なのでは?」
ということである。

しかし、これはすぐに却下される事になる。
何故か。

それは、実際に自分が犯人になった気分でコンビニに立ち入ればすぐに分かろうというものである。

自分が、コンビニに押し入り、首尾よく小銭を掴んで逃走を試みようとした時。
目の前のドアに「高度表示」が貼付されているのが当然目に入る。
イカン。このままでは背丈が特定される。

ここで、犯人側にはいくつもの選択肢が生まれるのである。

①飛ぶ。
②かがんで通る。
③剥がす。

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③の「剥がす」は下策。
剥がしている間に、じっくりと背丈を判定されてしまう。
しかも、カラーボールの絶好の標的となる事は間違いない。
①と②のアクティブ系は、カラーボールによる追撃をかわす効果もあり、かなりの上策と思われる。
ただし、天井に脳天を痛打したり、かがんだ時にアキレス腱断裂などの不慮の事故も考えられるので、普段からの訓練が必要となるのだが。

つまり、防犯の見地からは、あまり意味が無いのだ。
よって、防犯のためでもない・・という結論に達した。
 
 
 
では、何のためなのだろうか?
それはきっと、「より詳細なデータを、本部のコンピュータに送っている」ものと思われる。
コンビニでは、会計時に店員さんの独断と偏見で購買客の年代をレジに打ち込み、商品の購買データを取っているという話を聞いたことがある。
近頃ではさらに詳細なデータを必要とされるようになり、背丈を始めとした個人の趣味趣向を克明に記録し、本部に送っていると思われるのである。

つまり、28歳男性をモデルケースにすると、
「20代男性、身長180cm、痩せ型、メガネ、板前のような髪型、マンガ好き、大人の本コーナーをチラチラ見ている(ややエロ・消極的)、チョコレート好き、紅茶好き・・」
などと、コンビニ業界のデータバンクに保存されているに違いないのだ。

購買客が買い物に夢中になっているスキに、コンビニの店員は鵜の目鷹の目でこちらのプライバシーを着々と暴き出し、克明に記録し、本部に送っているのである。

なんという恐ろしい事であろうか。
データ流出などという生ぬるいものではない。
コンビニという箱の中で、まるでモルモットのように被験されているのである。

このことに気付いてからこっち、私はなるべく大人の本コーナーでは努めて目をそらすように心がけている。
(「ムッツリすけべ」と打たれるのがオチなのだが。)

その気になれば、コンビニはいつでも購買客を丸裸に出来るのである。
日常、何気なく利用しているコンビニにも、いまだ解明されていない謎がいくつも残されている。
なんと恐ろしいことであろうか。

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成長して困る。

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人間は、日々変化を遂げてゆく。
それは、成長であったり、衰えであったりするものであるが、常に上下いずれかの方向に向けてゆっくりと動きつづけているのだ。

近頃、己の変化に少々の戸惑いを感じている。
「上?下?」
どちらへの変化か問われれば、こう言わざるを得ない。

「上。上です。成長しちゃってるんです。」
これは、あんまし言いたくないなあ。
どう書いたって自慢になっちゃうから。

でも、書いちゃお。
 
 
 
第一の変化に、しょっちゅう頭をぶつけるのである。
厨房の入り口など、以前はちょっと背をすぼめるように通っていたところなんかで、必ず頭の上辺を「ゴジョリッ」と擦ってしまうのだ。
その事を周囲に相談したところ、
「あー、あるある。それね、自分では頭をすぼめているつもりでも、体が硬くなってて案外すぼまってないんだよ。老化、老化。」
と言われたのだが、私はまだピチピチ(ナウいワード)の20代(の終盤戦)なのだ。
老化などありえないのである。

つまり、これは「第三次成長」であり、背丈がもう一段階伸びているということに違いない。
今、思春期真っ只中というのもその表れであろう。


その現象を裏付けることがもう一つある。
それは、足のサイズがデカくなっているということだ。
とにかくよく家具のカドに小指をヒットする。
ヒットして、悶絶し、ラマーズ呼吸法のお世話になる。
この様を見ていた周囲の人間は、
「お前、本当に注意力がないねえ。あと、学習能力も無い。泣くな、男が。みっともない。」
と、理不尽な罵声を浴びせてくるのであるが、それは違う。
自分でも知らず知らずのうちに足のサイズが大きくなっているため、感覚のズレが生じて起こる現象なのだ。

背が伸びているもの、足も大きくならなければおかしいというものである。
その割にはクツのサイズが変わらないのが不思議で仕方が無いのだが・・。

そして、「成長」は脳内にも及んでいる。
「データの削除能力の向上、迅速化」である。
脳内に刻まれた余分なデータを、次々に削除し、脳を軽量化、ひいては読み込みを円滑にし、演算速度の向上を成功させているのである。

ただし、必要、不必要の判断は、脳内の妖精さんが自らの判断で行うため、たまに重要なデータも削除してしまう事故も確認されているが、それは「進化」の過程における小さな犠牲である。

ちなみに、かの南方熊楠(細菌とかの学者さん)は、脳内の余分なデータを、奥歯を噛み締めて舌打ちすることで自在に削除できたらしい。
しかし、私にいたっては、そのような過程を踏襲せずとも、無作為、あるいは無意識にデータ削除を果たしていることからも、天才の、次の領域に足を踏み入れているような気がしてならないのである。
 
 
 
私の成長は、今もって進行しており、このままでいけば身長2メートル、10頭身、足のサイズ30センチ、頭脳明晰(ただし、記憶能力にやや欠ける)という超人に生まれ変わる可能性が高い。

それが、楽しみでしかたがない。

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シッポが肝要。

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我が家に住み着いている数十匹のネコの中に、「むにょ一郎」という名のネコがいる。

「むにょ一郎」という名前は、このネコが大変大きな体躯の持ち主であり、なおかつお腹のお肉が「むにょむにょ」している事から、そう命名された。

「むにょ一郎」は、そのとぼけた名前にも関わらず、ケンカが滅法強い。
近隣の外ネコという外ネコを蹴散らし、外ネコ界のボス的存在として君臨していたのである。

しかし、栄枯盛衰、盛者必衰の理か、はたまた諸行無常の響きありか(?)、「むにょ一郎」はある日突然姿を消した。
突然のボス的存在の失踪に、外猫たちは狼狽し、色めきたった。
そこで、当時の№2であった「カゲヨシ」は、この機を逃さずいち早くボスの座に座り、「第一次カゲヨシ期」の栄光を勝ち取ったのである。
 
 
 

それから数週間が過ぎた頃、過去の王者は戻ってきた。
そう、「むにょ一郎」が帰ってきたのである。
まさに、「王の帰還」であった。

しかし、「むにょ一郎」は以前の「むにょ一郎」ではなかった。
何らかのトラブルに巻き込まれ、無残にもシッポの自由が利かない体になってしまってたのである。
シッポ以外はいたって健康なのだが、シッポだけが動かない。
ネコにとってシッポというものは存外に重要なモノであるらしく、シッポの機能を失った「むにょ一郎」はめっきりケンカにも弱くなり、以前のような覇気もスッカリ失せてしまっていた。

「王の転落」である。

以前は力の差をまざまざと見せ、追い掛け回していた「カゲヨシ」に、逆に追われる身となってしまったのだった。
「カゲヨシ」は、我が身の栄華をほしいままに振舞っていた。

来る日も来る日も「むにょ一郎」を追い掛け回した。 
 

しかし、かつて「むにょ一郎」がそうであったように、「カゲヨシ」もまた転落の憂き身を見ることになる。 
「むにょ一郎」のシッポが、時間とともに癒え、復活を果たしたのである。
シッポの屹立とともに、「むにょ一郎」自身もまた力を、覇気を取り戻したのだ。
もともと力の差は歴然としている両雄は、たちまち立場が逆転し、「カゲヨシ」は№2に転落することとなった。

王は再び帰還したのだ。

私は、その様を目の当たりにし、一つの真実を見せ付けられた気がした。
その真実とは、

「ネコも人間も、オスはシッポが肝要。」

ということである。

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「Un Jour」移転!

じゅじゅさんに二つの変化があったらしい。

一つはかねてからの懸案であったblogの移転をついに果たしたということ。
新しいblogは、以前よりも表示が速くて見る方といたしましても非常に快適である。
「Un Jour」は大好きなblogなので、大変嬉しゅうございます。

移転作業、お疲れ様でした。
 
 
そして、もう一つが・・

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デカくなったらしい。

デカく・・デカくなれるものなのか・・。
人体の神秘に私は瞠目し、思考の海に沈みこんでしまったのである。

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・・・なにか、相方の誤解を招いてしまったようだ・・。
ぐふっ(ガクリ)

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ついに断髪。

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かねてからの懸案でありながら、「メンドくさい。」という、やむをえない理由からなかなか行かずにいた散髪にとうとう行ってきた。

頭が寒いよう・・。

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食品売り場に咲く憂鬱。

スーパーマーケットなどの中にて、生鮮食料品売り場などを歩いていると、食材が「これでもか!」と言わんばかりに並んでいて、見ているだけでも豊かな気持ちになれるものである。

しかし、その豊かさの中にも、「やはり」というか「ほらね」と言わんばかりに悩みの種は転がっていて、むくむくと萌芽したかと思う間に、憂鬱という名の花を咲かせるのだ。

その憂鬱の名は、世間一般に「試食」と呼ばれている。

試食は困る。
誰もいないワゴントレイの上に、いつ調理したか分からないようなしなびた野菜炒めや、半分渇いたようなトマトの断片が無慈悲の様相で爪楊枝に貫かれ、死屍累々をさらしているだけならば寂寥感こそあれ、それほど深刻ではない。

「兵どもが夢の跡・・か。」

などと、利いた風な上に微妙に意味の通らない呟きを残して素通りすれば良いだけの話なのだが、問題は活気のある試食スペースにあるのだ。

そう。
試食のオバチャンが、その場で簡単に調理し、店内を物色して回る購買客に手当たり次第勧めてゆくアレである。

ショッピングカートを押しながら、狭い通路を進んでいる先に、チェックポイントのように設置された試食コーナーを発見すると、私は迷わず道を変える。
迂回し、視線を落とし、まるで空気と同化する事を願いながら気配や呼吸を押し殺して通過する。

試食オバチャンの行動範囲はそれほど広くは無い。
良くて半径1メートル。
フットワークの軽い手練でも2メートルが限界だろう。
その「試食ゾーン」にさえ足を踏み入れなければ、まず事なきを得る。

しかし、通路が空いていない、または流れに逆らえない事態に陥り、やむなく「試食ゾーン」を通過しなければならなくなった時、漏れなく正確かつ素早いプレスに見舞われるのである。

あのプレスは、レアル・●ドリードのサイドバックとしても通用するのではないかと言うくらい的確にこちらのドリブル(カートを押すこと)の進行を阻んでくる。

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と、勢い良く突き出される試食の荒挽きウィンナーの断片は、

「買わなくてもいいですよ。売るつもりなんて無いんです。ただ、一つ食べてみて、このウィンナーの美味しさを知って欲しいな。そして、もし気に入ったなら買って欲しいな。」

と訴えかけてくる。
その声が聞こえる。(気のせいかも知れませんが)
それがニガテなんです。
試したら、買わなきゃならないじゃないですか。
食べてみて、そりゃあ美味しいでしょうよ。
でも、今は要らない。
食べるかどうかも分からない食材は買えない。
かといって「君は美味しいけど、今は要らないな。」
が非常に言いづらい。

「味見してみて~。」
と言われても、
「いや、もし味見してダメだったら悪いから、最初からやめておくよ。」
と言ってしまうのだ。
それで今までどれほど損した事か・・!

・・・とにかく、その「だから、試食はしません。」というアクションをするのに、膨大なエネルギーを必要とするのだ。
そのエネルギー量は、のちの買い物をすることさえ億劫になるほどであり、「もう、なんでもいいから早く帰りたい。」
と思ってしまうほど消耗するのである。
 
 
 
さらに、その上試食を作り、配る人物がうら若き女性だったとすると、事態は混迷の度合いを深める。
私などは、この期に及んでもまだ女性に対する幻想を捨てきれないため「女性の手作り料理」には特別な思いを抱いてしまうのである。

たとえ試食と言えど、たとえ焼いただけのウィンナーであったとしても、それは「手作り料理」には違いなく、それを仕事とは言え無造作に、無作為に人に配る妙齢の女性を見ると、思わず

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と、止めに入り、着ている上着の一つも掛けたくなるのだ。
それほどまでに、試食というものは私の心を掻き乱し、紛糾させるのである。


それゆえに、レジのところにある「レジ袋不要」のカードのように、「試食不要」のカードを入り口付近に用意して欲しいと願わずにいられない。
もし、それがあったなら、私は喜んで首から下げ、店内を闊歩することだろう。

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見方によっては主従関係。

日常の何気ない行動や仕草の中に、関係性や優位性はハッキリと現れるものである。
人間も、他の多くの群れを作って生存する動物と同じく、「主」と「従」によって成り立っているのだ。
私は、普段からそれを強く意識せずにはいられない。

相方(彼女)と歩いていると、よく私の服やリュックからプラプラと出ているヒモを「しっか」と握られる事がある。
それを持ったまま歩くのである。

一見、仲睦まじくも見えるこの様子だが、見方をちょっと変えると・・

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と、見えなくも無い。

私の考え過ぎだろうか・・?

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その態度は「ステキ」ということか!

人間というものは、己の中の何を基準に人間を選択するのだろうか。
選ばれる人間と、そうでない人間の不思議について深く考えさせられた。

それは、近所の店屋に買い物に行った時のこと。
入店し、目的のものを探していると、一人の女性と目が合った。
その女性は、男性用化粧品を手に持ち、商品を紹介し、売る事を目的にそこに立っているのである。
目が合ったのは私と同年代の男性に説明が終わり、こちらへ向き直った丁度その時であった。

相手は売る気に満ち満ちている。
そこでこれだけバチリと目が合ってしまったということは、必ずや近づいてきて、売込みを開始されるに違いない・・と、こちらも覚悟を決めたその時。

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あまりの自然かつ無慈悲な上に無関心極まりないスルーっぷりに、少なからずショックを受けてしまった。
一体、彼女はどういう基準で私を「購買層」から外したのであろうか。
思わず肩を掴んで

「どうしてなんだ!?ヒデ子!?」

と、問いただしてやろうかという衝動に駆られたほどである。
ちなみに、「ヒデ子」と言う名前はなんとなく思いついたものであり、なんら深い意味は無い。

憔悴しきった表情で、ヨロヨロと虚ろな歩幅をペットフードコーナーに進めながら、私は考えた。
考えに考えた。

そもそも、彼女が売っているのは男性化粧品である。
化粧品というのは、容姿を小綺麗にし、魅力の底上げを図るものである。
ということは、ヒデ子(仮名)は売る対象を
「化粧品の必要な男性」
に設定していたはずなのだ。

ということは、つまり、ああ、そうか!そういうことか!

「私には化粧品は必要無い」

と判断したと言う事なのだ。
「化粧品が必要無いほど男前」と判断したということの証明であり、「そのままで十分ステキ。」「見た目もそうだけど、全身からにじみ出る高貴さと、高潔さと、気品と、セクスイ~さからして、化粧品なんて必要無い。」と認識されたということなのだ。

そうだ。
そうに違いない。
そうに決まっている。

つまり、ヒデ子(仮名)は、一瞬で私の魅力を看破し、一見つれない態度を見せる事で、私の存在自体を全肯定して見せたのである。

そう考えると、私の中にはえもいわれぬ勝利感と優越感が満ち溢れ、先ほどまで引きずるように運んでいた足も、いつの間にか見た目にも楽しげなスキップに変化を遂げていた。

ありがとう、ヒデ子(仮名)さん。
あなたのおかげでまたより一層、自分に自信を持つことが出来ました。

お礼に、その化粧品を買ってゆこうかとも思ったが、男性化粧品では以前ヒドイ目に遭っているので、感謝の念だけにしておいたのは言うまでも無い。

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愛しさゆえに壊したい欲!

はぁちゃんさんは、3つの欲望に突き動かされることがあるそうだ。

その3つの欲望とは、
「ぎゅっとしたい(抱きしめたい)欲」と、
「揉みしだきたい欲」と、
「噛みしめたい欲」である。

残念ながら、はぁちゃんさんのこの3つの欲望は、一つ一つが違っているように見えて、実は同種のものである。
どこが同じなのか。

それは、3つとも
「愛しさゆえの破壊衝動」なのである。
好意を持ちすぎるがために、己の持てる力の全てを注ぎ込んで締め上げ、壊してしまいたくなる。
破壊して失って、喪失する事で永遠に自分のものにしたいという、ある意味究極の愛情表現であり、「抱きしめる」という行為は、実は破壊衝動の現れなのである。
(2004年度村立そんちょ研究所調べ)

つまり、前述の「かぶりつき欲」、そして今回の3つも、要は体で抱きしめるか、手で抱きしめるか、歯で抱きしめるかだけの違いなのである。

なので、もし、実際に抱きしめられた時はもちろんだが、揉みしだかれたり、噛みつかれたりした時も、
「ああ、ちょっと方法は変わっているけれど、私は愛されているのね・・。」
と信じていただきたい。

これは、敢えて声を大にして言いたいところである。
 
 

さて、この「愛しいがゆえに壊したい欲」に関しては、私もかなりしょっちゅう発現する。
標的となるのは、主に愛犬「まる」、外ネコたち、そして「相方(彼女)」である。

では、その詳しい発症例をレポートしてゆきたいと思う。

■ケース1 愛犬「まる」の場合

その日、愛犬「まる」は庭でノビノビと日向ぼっこをしていた。
偶然それを見かけた私の中に、突如、沸々と

「『まる』を壊したい!」
という衝動が、間欠泉のように噴出し、一人の人間をドス黒い欲望を皮一枚で包んだケダモノに変えたのである。

「んまる~!」
と、無辜の獲物に襲いかかり、組み敷き、馬乗り(犬なのに)になって口付近のゴムパッキンをこねくり回し蹂躙。
腹を揉みしだき、乳首を引っ張るなど、欲しいまま陵辱を加えるのである。

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それは、「まる」が「舐めてけっから、やめて?」というまで続くのである。
 

■ケース2 外ネコの場合

こちらを参照のこと。
 
 
■ケース3 「相方」の場合

相方の場合、主にその目標は「二の腕」となる。
二の腕の柔らかい感触は実際クセになってしまうほど魅惑的なのである。
一緒に歩いている時などに、ふと二の腕が目に入り、ついそれを掴んで感触を楽しんでしまうことなどしょっちゅうなのだ。
相方も、別にいつものことなので、まったく気にする様子も無く二の腕をこちらに預けたまま歩いているのであるが、この間、ハッとする出来事が起こったのである。

その日も、我々は連れ立ってショッピングモールの中を歩いていた。
そして、少し前から、私の「揉みしだき欲」が発露し、相方の二の腕をつまみながら歩いていたのである。

その時。

ふと視線をなぞった先に、大きな鏡があったのだ。
そこには、こんな姿が映っていたのである。

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その様は、まるで「お母さんと、はぐれまいと必死にすがりつく子供」のようではないか。
「イチャついているカップル」にはどうしても見えなかったのである。

それ以来、私は人前では相方の二の腕を触るのを止めたのだった。

欲望というものは、エネルギーである。
それは正負に関わらず動機となり原動力となる、得がたく貴重なものであるが、それを求めすぎると、人目や羞恥心を感じる心が薄れてしまい、非常に危険だという教訓を得た事は言うまでも無い。

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「漢(おとこ)焼き」

オリジナル料理と言えば、私の知り合いに料理研究家の「イップスそんちょ」という方がいる。

彼は独自の料理哲学を持っていて、「漢(おとこ)の料理とは何ぞや」をテーマに、日々、漢(おとこ)の料理について研究している「漢(おとこ)料理」の先駆けなのである

そこで今日は、東北のごくごくごく一部(主に七つ森のあたり)の深夜に放映している、彼の料理番組を紹介したいと思います。

では、VTRスタート。

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・・・

いやあ、いつもながらイップス先生の教え方は分かり易いなあ。
あの人、口は悪いけど根はいい人なんですよ。

こないだ、雨の中捨てられていた仔犬を抱きしめてましたから。
あと、街角の募金には必ず全財産投入するし。

皆さんも、よろしければ是非、イップス先生の「漢(おとこ)料理、『漢(おとこ)焼き』」を作ってみてください。

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