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医師とイチロー

大リーグの鈴木イチロー外野手が、メジャーの安打記録を塗り替える可能性が高いということなので、こないだから仕事の合間を縫って、イチロー選手の打席だけ観ている。
(いやもう、ミーハーですみません。)

今日もマリナーズの試合があり、私は仕事が一段落したのを確かめてから衛星放送の見られる囲炉裏スペースへ移動した。

するとそこには、いつも往診に来てくださる外科医師のナガヌマ先生が、母や兄と談笑しながらお茶を飲んでいた。

「あ、ども!お世話様です~。」
とりあえず挨拶をすると、

「はい、こんにちは。今日は注射する用事ありますか?」

と、聞いてくる。
ナガヌマ先生は、私が大の注射嫌いと知り、、それ以来顔を合わせる度にこう持ちかけてくる、非常にお茶目な先生である。

「いやいやいや、結構です!」
丁重に(?)お断りし、そそくさとテレビの前に陣取った。


注射がニガテというのもそうなのだが、「打ちたい」と言われると、「打たれてなるものか」と思うのが人情である。
ある意味、イチローに対峙する投手の気持ちと同調するのは気のせいだろうか。
 
 
そうこうしているうちに、イチロー選手の5回目の打席が回ってきた。
その場に居合わせた兄や母やナガヌマ先生は口々にイチローの偉業を褒め称える。
恐らく、今、世界中で一番誉められている人類はイチロー選手であろう。
いや、まったくもって偉大な選手である。

その時だった。

相手チームの投手が放った球が内角に入りすぎてしまい、イチロー選手の背中と二の腕の境目あたりに当たってしまったのである。

打率から言えば、記録の更新は確実と言えるイチロー選手にとって、もっとも困るのは怪我による戦線離脱であろう。
そこに持ってきてのデッドボールに、イチロー選手を応援するコアな方から、私のような「にわか」までの幅広いファンも凍りついたに違いない。

その瞬間、私はもっとも人体に詳しい人が近くにいるのを思い出したのである。
そこで間、髪を入れず、聞いてみた。

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私は、今日ほどお医者様のありがたみを感じたことは無かった。

イチロー選手、安心してください。
ナガヌマ先生(心臓外科医)がおっしゃるには、あの当たり方では深刻な怪我は無いそうです。

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辞書で盛り上がるふたり

本屋の店内には、ある特定の人間に激しく作用する興奮剤が噴霧されている疑いがある。

というのも、実は相方(彼女)がその興奮剤に激しく反応する女性だからなのだ。
本屋に入ると、相方は実に楽しそうである。
口元は緩み、目は潤み、顔は上気している。
本屋で色っぽくなる女性というのは珍しいのではないだろうか。
少なくとも私は初めてである。

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あいにく、私はもともとあまり本を読むほうではないので、その興奮剤の効果は薄いのだが、楽しそうな相方を見ていると、こちらまで嬉しくなってしまう。

相方の行動パターンは大体決まっている。
まず、文庫コーナーへ向かう。
好きな作家の作品が、文庫になっているかどうかを見て回り、本棚を眺めながら、次々に作家について、過去に読んだ作品について解説してくれる。

前述のとおり、本をあまり読まない私は、
「鈴木●司って、昔、『お笑いマンガ道場』に出てた人だっけ?」
などとアホな質問を繰り出し、すぐさま
「ちがうよ!『リング』とか『らせん』とか書いた人だよ。」
と修正が入れられる。
しかし、文庫を見て回るたびに

「『ノル●ェイの森』ってねえ。2回読んだんだけど、一回目は暗いばっかだなあ~。と思って、二回目はちょっと意味が分かった。でもまあ、要するにエロいんだよ。」

と解説が入るので、私の中では

「ノル●ェイの森」は、暗いエロ。
という知識が定着している。
実際のところどうなのかは知らない。
 
 
 
次に、辞書コーナーで立ち止まる。
相方は辞書が大好きなのだ。
「辞書を、日がな一日眺めていたい」と常々言っている事からも、その愛情の深さが窺える。
辞書は私も大好きである。
どちらかと言うと、読むより書くほうが好きなので、言葉の正しい使い方を調べるのに使うのであるが。

しかし、辞書と言うのは探せば果てしないほど変なものがたくさん並んでいるものだ。
こないだは「方言語辞典」と、「擬態語辞典」で大いに盛り上がった。
本屋で、辞書を立ち読みしながらキャッキャ言って喜んでいるのは我々くらいなものだろう。
傍目には謎の二人組である。
 

そして、仕上げは「ニットの本」である。
編み図や、モチーフなどを見ながらニヤニヤしている。
たまにメンズニットの本を見せて、
「コレ、いいやろー。編んだろか?」
と言ってくれるので、
「あ、いいの?嬉しいなあ。」
と言うと、間髪入れず

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となるのである。
編み賃を取らないところに相方の愛情を感じてしかたがない。

本屋さんで噴霧される興奮剤は、財布のヒモを弛める効果も確認されている。
効果の薄いはずの私も、ついつい陶芸の技法書などを買ってしまうという、恐るべき化学兵器なのである。
我々も、二人してついつい本を買ってしまい、

会計を済ませてから、
「はあ・・買っちゃった。お金無いよう。」
と嘆くのも、いつもの事なのである。

余談ではあるが、どういうワケか私は本屋に行くと必ず便意(しかも大体「大きい」方。)を催してしまう。
それは店内に充満した興奮剤が胃腸に効果を発揮するためか、はたまた店内に充満する妙な緊張感が作用しての事なのか、鋭意調査中である。

※たろーさんからの情報により、黒陣馬さんのblog「Walking along the river」にて、「本屋で便意について」の話題があった事を知りまして、勝手にトラックバックさせていただきました。

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特盛りに負けた・・。

相方(彼女)と、とんかつ屋さんに行った時のこと。

お腹の空いていた私は、カツ丼を掻き込みたい衝動に(また衝動かい)駆られ、カツ丼を注文する事を決意した。
メニューを開いて、カツ丼のコーナーを見ていると、そこの店には「特盛り」という、カツ丼の一つ上のボリュームを誇る品目が燦然と輝いていたのである。

夕餉の時間だと言うのに、その日はまだ一度しかご飯を食べていなかった私はとにかく空腹だった。
カツ丼一杯ごときでは、私のお腹はとうてい満たされないに決まっていると、迷わずウェイターのオジサンを呼び、こう告げた。

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私の普段の少食っぷりを知っている相方は、感動しつつも心配顔であった。
しかし、私も男の(かなり)端くれである。
たまにはガッシガッシと雄雄しくカツ丼を掻き込む様を相方の目に焼き付けておかねばならない。

いつもの、「吹けば飛ぶような将棋の駒」という印象を払拭するチャンスなのである。
(いや、自分で思っているだけで、言われた事は無いのだが。)

つまり、これは戦いなのである。
 
 
 
「特盛り」という言葉は、普段の私にはまったくもって無縁のものである。
「腹八分目」を愛し、「満腹」を嫌う私としては、「普通盛り」が朋友であり、心の相棒なのである。
しかし、空腹時の発注しかも、かつての大好物であり、最近ではあまり食べる事のなくなったカツ丼に対する懐古の念も手伝って、数年ぶりに頼んだ「特盛り」に、胸は弾み、不安と期待がない交ぜとなって、冷たいお茶を持つ手は人知れず震えていた。

 
 
待つこと10分。
果たして「特盛り」は、その姿を現した。
見た目はどうも普通どおりのカツ丼であり、ドンブリの大きさも普通よりやや大きいか?
というくらいであった。

私は勝利を予感した。
空になったドンブリを高々と掲げ、相方の賞賛を受ける様を夢想した。
ふつうの「トシさん」から、「雄雄しいトシさん」に名前を変更する確信を得た。

静かに箸を取り、パキリと割って、戦闘を開始した。
勝つ予見は立っている。
後はそれを現実のものにする。
それだけである。

ガッシガッシ掻き込む。
ひたすらガッシガッシと掻き込む。
カツをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、獰猛な肉食獣の如く、食べると言うより掘り進めてゆく。
相方は、その様を自分のカツカレーを黙々と食べながら見ている。

ガッシガッシ。
ガッシガッシ。

・・ガッシガッシ・・?

・・おかしい。

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かなり気迫を込めて掘削しているにもかかわらず、ご飯の分厚い壁は崩れる気配を見せない。
「はっ!」として、厨房を見る。
ウエイターのオジサンは「ニヤリ」と笑った(気がした)。

ご飯の壁が崩れる代わりに、私の勝算が崩れ落ちる音を聞いてしまった。
カツ丼に気を飲まれてしまったのである。
一回り大きいドンブリに、みっちり押し込められたご飯は、私の想像をはるかに越えて強壮で、その結束が固かった。

「特盛りチャレンジ」は、やはり無謀な試みだったのである。
 
 
 
戦いは、「負け」を意識したものが敗れる。
私に残された道は、「どれだけ損害を軽減するか」と言うことであった。

悲鳴を上げる胃をなだめながら、隙間を見つけてはカツとご飯を詰め込む作業を繰り返し、ようやくご飯残り3口分、カツ二切れのところで、額と鼻の下に汗を浮かべ、蒼白な顔色を浮かべる私を見かねた相方の

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という、言葉によるタオル投入があり、試合終了とあいなった。
「特盛り」の前に、私は敗れ去ったのである。

テンカウントすら聞けない、セコンドストップによる完敗であった。
 
 
 
やはり、己の分を超えた挑戦は、勝敗に関わらず良い結果は生まないという教訓を得た事は言うまでも無い。

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床屋と麻酔

いつも不思議でならないのだが、床屋さんで施される全身麻酔には何か意味があるのだろうか?
 
 
 
私の知る限り、髪の毛には神経は通っていないはずである。
ついでに血管も通ってはいないはずだ。
だから、散髪時には、麻酔も止血も輸血も必要ない。

しかし、髪を切りに行って、散髪台に座り、首に紙を巻かれ、布を被せられるところまでは、まったく眠気の「ね」の字も見当たらないと言うのに、霧吹きで髪を湿らせ、頭をクシャクシャ揉まれると

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落ちる。

自分でも、いつ寝入ったのか分からないほど、巧みに、そして迅速に落とされてしまうのだ。
恐らく、その前にシュッシュと霧吹きで吹きかけられる液体が麻酔薬であり、それが脳に直接効果を発揮し、意識を刈り取ってしまうのだと思われるのである。
クシャクシャと揉むのは、麻酔薬を頭皮に揉み込んで、効果をより大きくするための所作であろう。

散髪屋さんは麻酔のスペシャリストである。
なにしろ、麻酔が効いたかどうかの確認もせず、術式に入る。
恐るべき自信である。

しかし、何故麻酔を用いるのか、やはり分からない。
麻酔が効いている間というのは、意識が朦朧となり、首に力が入らず、髪を切っている間にも、頭はこっくりこっくりと揺れつづけてしまうのだ。
その度に、床屋さんはまったく動じる色さえ見せず頭をガシッと固定し、またシャキシャキ切り始めるのである。
こちらも、麻酔さえ効いていなければ首をしっかりと固め、変わりゆく己の髪型を凝視する事も出来るのだが、強制的に襲いくる睡魔はそれを許さず、固められた頭は、またゆっくりと崩れ落ちてゆくのである。

それでも床屋さんは文句一つ言うでもなく、また頭を垂直に立て、またゆっくりと前に倒れて行こうとする頭の動きに柔軟に対応しながら髪を捌いてゆく。

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プロ中のプロとしか形容の仕様がない技であるが、その技で魅了するべきお客さんは麻酔が効いて眠ってしまっているのである。
果たして、それになんの意味があるのかが今だ闇の中である。

そこで、「散髪時に麻酔を用いる事の是非」について、思考を巡らせ、一つの仮説に行き着いた。
毎回、初めに意識を飛ばされてから、次に目覚めた時にはもう調髪は終わっている事がほとんどであり、なるほど、今考えてみると、床屋さんは客に散髪中の「手持ち無沙汰感」を感じさせないために麻酔を用いるのだと言う事なのではないか。

幾多の試行錯誤を重ねた究極のサービスの形が、「麻酔」だったというわけなのである。
 
 
余談ではあるが、以前通っていた床屋さんで、前髪を揃えるべくハサミを使用していた時に、瞼をちょん切られた事があった。(実話)
その時は、麻酔が効いていなかった(寝ていなかった)ので、大変痛かったのをよく覚えている。

そこの店には二度と行かなかった事は言うまでも無く、床屋さんの麻酔は、肝心な時にあまり効果を発揮しないという事もよく分かった。

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太っ腹!

「釣りはいらねえ。」

と、ぶっきらぼうに言い捨てて店を出るというのは男の浪漫であるが、そんなのは甘い甘い。
私など、よく

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と、店を出ようとします。
 
 
 
ええ。
忘れているだけですがね!
しっかりしろ!俺!

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かぶりつき欲!

大体2ヶ月に一度くらい、「かぶりつき欲」に突き動かされる事がある。

「かぶりつき欲」は、身近にあるものにかぶりつきたくなる衝動であり、多くは食欲と連動する。
例外があるとすれば、「相方」くらいだろう。

しかし、毎回相方にかぶりついていたのでは、「かぶりつき過ぎによる破局」という非常に微妙な結末を迎えてしまう事も考えられなくは無いので、多くは「ハンバーガー」がその欲望の捌け口となるのだ。 
 

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昨日のこと。
突如として私の中に「かぶりつき欲」が噴出した。
あいにく、相方は近くにいなかったので「ハンバーガーを食べないと、なんかヤバイ」という状態に陥ってしまったのである。

事は急を要する。
あふれ出る衝動を抱えての車の運転は、メールを打ちながらの運転くらい危ういものである。
本来ならここで救急車を呼ぶべきであったかもしれないが、救急車に乗って、「ドライブスルーに行っとくれ。」といっても、その要求は入れられない可能性が高いどころか、かえってそのまま問答無用でER(緊急治療室)に運ばれ、改造手術を施される可能性も否定出来なかったので、衝動を抱えたまま自前の車でウチから片道30分の某有名道化師軽食店に赴く事にした。


「かぶりつき欲」の発露は、もっとも原始的、直情的なものであり、欲望を抱えたものを興奮させずにはおかない。
かふりつく瞬間を夢想しては、思考は弾み、、顔は紅潮し、鼻息は荒くなり、目は焦点が怪しくなる。
車で急ぐ道程にも、足はいつもより10km/h分深めにアクセルを踏み込んでいるというのに、胃腸は「ハンバーガーを早く!」「ハンバーガーを寄越せ!」となり、さかんにグウグウ抗議の声を上げる。
それにつられて唾液腺は早くもその活動を始め、鼻はそこにあるはずも無いポテトの匂いを空気中から合成し始める。

体のあちこちが、「かぶりつき欲」から派生した「ハンバーガー衝動」をキッカケに、不協和音を掻き鳴らし始めるのである。
ここで、我が肉体における結束のなんと脆い事かという事を痛感させられる。


さて、ハンバーガーである。
ハンバーガーと言えば、ポテトとコーラは付きものである。
ハンバーガー・ポテト・コーラの織り成すトライアングルパワーである。
意味は分からない。

食べる前には、必ず匂いが先に来る。
匂いそれのみで言うならば、主役はどちらかと言うとポテトに軍配が上がる。
やはり、剥き身でバサリと置いてあるからである。

立ち上るポテトの芳香は、唾液腺だけでは飽き足らず、涙腺まで緩めてしまう。
とりあえず、一本を口に放り込む。
薄くて芳ばしい表皮の内に、ホコホコとしたジャガイモが口の中にばらまかれる。
「あふ、あふ。」と言いながら、手はすでに次の一本をつまみ出している。
あふあふ、つまみ。
あふ、つまみ。

一度食べ出すと、シャクシャクシャクシャクと手の往復が止まらなくなる。
思考も停止する。
瞳孔も開きっぱなしだ。
うっかり、悟りすら開いてしまいそうになる。

しかし、「ポテトを食べて悟りを開いちゃった。」という話は聞いた事が無い。
何故なら、ほぼ全ての人が、やがて、ポテトの口いっぱいに頬張りすぎて、嚥下がままならないことに気付くからである。

「ふんがっくく・・!」

となり、コーラに手を伸ばす事になる。
誰もが、常人の域から脱する事は出来ないのである。
ヂウヂウとコーラでノドに詰まったポテトを洗い流し、ポテトとコーラの融合を祝福し、感動しながらも、目は次の獲物を捕らえている。
 
ハンバーガーである。
自分が、「かぶりつき欲」に突き動かされてここまで来た事を忘れてはいなかったのである。
悟りなど開いている場合ではないのだ。

ハンバーガーを手に取り、内容物の名称がプリントされた紙の包装を開いてゆく。
ここでやっとハンバーガーの香りが鼻腔を刺激し、

「ああ、やっぱしお前が主役だったんだ。」
と、納得させられてしまう。 
 
 
しっかと下あごを固定し、上あごを限界まで上げる。

普通の食物は、大体が下あごを開いて咀嚼に入るのに対し、ハンバーガーは上あごを動かして歯牙にかける。
それは、体の司令塔である「脳」が、自身の座を動かしてまでも迎え入れたいという、無意識の歓迎なのである。
脳震盪の危険まで厭わない、献身を見せるのである。

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    そして、ついにかぶりつく。  

パンと、肉と、チーズと、レタスと、その間のケチャップが混ざり、それと同時に、かぶりつけた歓喜と、期待通りの味に対する悦楽と、口に入れすぎた事への後悔がない交ぜとなり、口腔を満たすのである。

一噛みごとに、歓喜、悦楽、後悔。
歓喜、悦楽、後悔。
と繰り返すのである。

「・・ふむ・・・!」

という、声にならない声が鼻からこぼれ落ち、ハンバーガーを持つ手は震える。

ウマキモチイイ。

そう。ハンバーガーは、「美味しい」と同時に「キモチイイ」のである。

「ウマキモチイイ」のだ。

コーラがはキモチよく、ポテトが悟りの一歩手前まで誘うように。

こうして、またひとつ、欲望は満たされた。
普段の大豆主体の食生活を思い切り踏み外し、ベトベトでギタギタの油を心ゆくまで堪能した。

完食したあと、「ぶふう・・。脂っこい。もう、しばらくは食べなくていいな。」
と、ひとりごち、ハンバーガーにしばしの別れを告げる。

2ヵ月後、また「かぶりつき欲」が頭をもたげるその時まで。

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秋だから、アイスを愛す。

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秋といえば・・

といえば、「食欲」、「スポーツ」、「読書」、「芸術」などが真っ先に挙げられ、これらは世間一般的に「オータム四天王」として確固たる地位を占めている。

しかし、ワタクシとしては敢えて「アイスクリーム」を推したいと考えている。
そう。私の中で、今、「アイス熱」が冷たくも沸々と沸き上がっているのだ。
 
 
 
夏の主役、アイスは、秋口になると途端に寂寥感を帯びる。
流行り廃りが愛憎と似て表裏一体であるように、あの暑い夏の日、夢中で私の体にむしゃぶりついたあなたは、今はもういない。

過ごしやすくなった気候は、ふたりの蜜月の終焉を連れてきてしまったのである。

アイスは憐れである。
アイスは都合の良いように使われている。

コンビニの片隅に追いやられ、生まれる時期を誤ったがために脚光を浴びる事も無く、自分のテリトリーである冷凍庫の中、悲しいほど整然と、たまに霜を取られる様を、ただ虚ろな目に写している姿を見ていると、私の中にむくむくと、

「オレがついてるかんな。」

という「博愛精神」が生まれ、成長し、頭をもたげ、誰しもが見向きもしなくなったアイスを手に取り、レジで会計を済ませ、かじりつかせるのである。
憐憫の情は、かえってアイスに失礼かも知れないのだが、私は同情を禁じえないのだ。
 
 
 
それだけではない。
ある日、ふと気付いた事があった。

季節商品ゆえの宿命と言われればそれまでかもしれないが、アイスは常にその場の雰囲気(主に気温)の助けを借りて、その味が評価されてしまう。
つまり、
「体温調整が主な目的であり、そのついでに、美味しければいいよね。」
ということであり、「冷たさ」が存在の大部分を占めてしまい、本人の実力、器量などは、常に「ついで」であり、己の実力一本で評価されにくいという問題を抱えているのである。

そういった世間の風潮に、自分は流されていないだろうか?
暑いからといって、何も考えずにアイスを食べ、火照った体を冷ますために、アイスを「利用」してはいないだろうか?
今まで、果たして自分は本当の意味でアイスと真剣に向き合ったことがあっただろうか?
アイスを賞味しているだろうか?

そう考えると、いかに今まで自分がアイスというものを、内心ないがしろにしていたかという事に気付き、深く恥じ入ったのである。


だからこそ、暑くもなく、寒くもないこの時期にアイス買い、食べているのだ。
アイスが、その他の要因を一切排除し、自身の持つ実力を発揮できる稀少なチャンスを、しっかりと受け止めよう、そして、アイスを体温調整の道具としてではなく、一つの氷菓として認め、男としてではなく、一人の人間として向き合おうと心に決めたのである。

いずれまた、凍てつく冬に、効き過ぎた暖房への対抗手段として、お客さんが再び「やり直そう」と戻ってくるその時まで。

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なかなか言える事じゃない。

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じゅじゅさんの記事で、

「私の人生って貧乏クジだらけの人生だよ」
「次から次へとロクでもないことばかり起こってさあ」

「私の人生の中でいちばんよかったことはダーリンと結婚したことだよ」

というくだりに、思わずやられてしまった。
こういうのって、なかなか言える事じゃないですよ。
そして、なかなか言われる事じゃない。

なんて、ステキなご夫婦なのだろうかと、感動すらおぼえましたとも。
ええ話や・・。

(イラスト、無断転載してしまいました。ごめんなさい。)

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そんちょ仝って

こういうことッスか!fanshenさん!

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仙台にプロ野球チームが・・?

非常にローカルな話題で申し訳ないのだが、もしかしたら、我が宮城県に、新しくプロ野球チームが出来る可能性が出てきた。

ということは、以前、たろーさんが言っていた、「仙台ジャス」が実現するということも、決して絵空事ではなくなってきたということになるのである。

「ジャスって何?」と言う方のために、おおまかに説明させていただくと、
宮城県では、中学校で着るジャージのことを「ジャス」と呼んでいたのである。

もちろん、私も中学校時代は、体操着を「ジャス」と呼んでいたクチであり、小学校から上がった時から、周囲も「ジャス」、友達も「ジャス」と呼んでいたため、アレは「ジャスなんだ。」とばかり思い込んでいたのであるが、全国的にはもちろん「ジャージ」であり、中学校を卒業してから数年を経て、初めてあれが「ジャス」ではなく、全国的には「ジャージ」なんだと、方言のようなものだったのだということ知ったのである。

大体にして、何故、「ジャージ」を「ジャス」と呼んだのか、それはどこから来たのか、そして、今も「ジャス」と呼んでいるのか、それすらも分からない、本当によく分からない呼称なのである。

「ジャス」について、私が知っているのはこれくらいである。
 

 
さて、仙台の新しいプロ野球チームの名称は「仙台ジャス」で決まりと来れば、もちろん、ユニフォームも「ジャス」でしかるべきである。

宮城県在住の、一県民として、そして、「ジャス」の呼称にゆかりの深い者として、「仙台ジャス」のユニフォーム案を描いてみた。

それがこちらである。

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モデルは、私の出身中学校の「ジャス」である。
私の出身中学校では、野球部の生徒は必ずと言っていいほど、ジャスのズボンの裾をソックスの下に入れていたので、それをデザインの方にも反映させてみた。

「仙台ジャス」発足の際には、是非このユニフォーム案を参考にしていただきたい。
デザイン料などは、この際「ご祝儀」として、請求しない方向で考えているので、遠慮なく使ってもらって構いません。

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新たな名前

こないだ、相方(彼女)に逢った時のこと。

歩いてきた相方を車に乗せ、とりあえず「ウイッス」と普通に挨拶したところ、

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と、返された。

「え?なにそれ?なんでいきなり『ラブリー』??」

「ふふふ。いや、何となく。気にしないで?」
何故か「しな」を作る相方。

「もしかして、新しい呼び名スか?」

「そうそう。今日から『ラブリー』な。」

『ラブリー』か。」

「うん。『ラブリー』。」

こういった、厳かな命名の儀があったにも関わらず、それから今日まで、一度も『ラブリー』とは呼ばれてはいない。

別に、呼ばれなくてもいいのだけど、たまに相方が分からなくなる時がある。

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みなみらんぼうさんと対談す。

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ミュージシャンであり、作家であり、登山家でもある、みなみらんぼうさんとお会いする機会に恵まれた。

まあ、肩書きで言えば、陶芸家(四流)であり、石窯ピザ屋であり、ブロガーでもある私も決して引けは取らないのだが。
(ウソです。調子コキました。ごめんなさい。)
 
 
 
実は、昨日一昨日と、「日曜のマゼラン」という番組の取材が入っていて、そのリポーターがみなみらんぼうさんだったのである。

「日曜のマゼラン」という番組は、東北六県と、新潟県のテレビ朝日系列で放映される番組で、
「大海原でマゼランのように自らの信念に基づいて人生を切り開く、東北・新潟の津々浦々に在住する「ふるさとのマゼラン」と、彼らが暮らす地域に、スポットを当てて応援して」行く番組なのである。
(番組HPより抜粋)

そこで、宮城の山奥に住み、家族がそれぞれ物を作って暮らす、我が一家に白刃の矢が立ったと言うワケなのだ。

私の出番はもちろん陶芸とピザで、何故陶芸を始めたのか、陶芸をどうやって勉強したのか、何故窯を作ろうとしたのか、ピザをどうして作ろうと思ったのか、そして、これからどういう方向に向かって生きてゆきたいのか、などを質問され、それに熱く答えた内容となっており、おそらく、見たものの心に、さざなみを起させ、その余波が涙腺を刺激し、まさに涙なくしては見られないような放送内容になっているハズである。

もしかしたら、オールカットされているかもしれないが・・。
とりあえず、放送禁止用語は言わなかったはずである。


 
みなみらんぼうさんとは、もちろん初めて会ったのだが、印象としては、「前向きな知識人」だった。
常に前向きで、上昇志向でなければ、登山家は勤まらないだろうから当然なのかも知れないが、常に明確な目標を持ち、それに向かって歩きつづけている、オーラ(雰囲気)でなく、パワー(力)を感じる人だったと思う。

だから、その視点で「この場所を、これからどうしてゆきたいのか?目標はどこなのか?」という事を問いつづけられたのであるが、残念ながら、「今は目の前の事で精一杯」という答えしか出せていなかった気がする。

そこは残念だった。
私もやはり残念だった。 
 
番組を作ってくださったスタッフの皆様は、いい人ばかりで、細やかに、丁寧に取材を重ね、ありのままを分かりやすく伝えようという姿勢がひしひしと伝わってきた。
かえって、スタッフの生き様を番組にした方が感動を呼ぶのではないかと思うほどであった。

日曜日のお昼というと、メチャメチャ忙しい時間帯なので、今までは見られなかったのだが、これからは録画してでも見たいな、と思う今日この頃である。

みなみらんぼうさん、スタッフの皆さん、お疲れ様でした。
ありがとうございました。

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ポニーテーラー

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「はせ」さんは、「ポニーテール党」だそうである。

なるほど、ポニーテールはグッジョブな装備である。

今でこそ「三つ編み党七つ森支部長」の肩書きを持つワタクシであるが、ひと昔ちょっと前、小学生の頃は、「ポニーテール党」であった。
それは、初恋の女の子がポニーテールであった事が要因として大きい。

あの頃の懐かしい思い出を振り返りながら、紅茶の湯気を顎に当てつつ、私は「三つ編み」と「ポニーテール」の違いについて考えてみた。
 
 

ポニーテールは、元気の象徴である。
なぜなら、良く揺れるからである。
プリンプリンと揺れる。
なんだか、見ているとこちらもウキウキというか、ワクワクしてくる。

対する三つ編みは、知的な雰囲気をかもし出す。
キッチリと結われた髪の毛は、揺れる事を許さない。
ポニーテールのプリンプリンに対し、三つ編みはブンブンである。
整然としている。

つまり、ポニーテールは「動」であり、三つ編みは「静」なのである。
ポニーテールが「太陽」ならば、三つ編みは「月」なのだ。
つまり、私が「ポニーテール派」から「三つ編み派」に移籍したのは、歳を重ねて、さまざまな経験から、「動」よりも「静」に魅力を感じ、重きを置くようになった事が要因の一つとして挙げられるのではないかと思われる。
(単に歳をとったせいかもしれない。)
 
 

もっと踏み込んでみよう。

ポニーテールは、加虐心をそそる。
つまり、こちらに「サド」の心を呼び起こさせるのである。
プリンプリン揺れるあの束を見ていると、ワシッと掴んで、「じっとしていろ!」と言いたくなるのだ。
自由を奪い、緊縛したくてたまらなくなるのである。

実際、初恋のあの子のポニーテールをワシッと掴んでは、怒ったその子に追いかけられるのが嬉しくて、しょっちゅうワシワシやっていたら、ある日、タイミング悪く掴んでしまい、思い切り髪を引っ張った格好になって泣かせてしまって、ものすごく反省したというニガイ経験からも、それは実証されている。

反対に、三つ編みは触る事を許さないような雰囲気がある。
「触るな!」という無言の圧力がある。
不可侵の聖域がそこにあるのだ。

「触りたいけど、触れない・・ああ・・!」
である。

つまり、こちら側に「マゾ」の心を呼び起こさせる何かが分泌されているのである。
 
 
 
以上の事から、「ポニーテール」と「三つ編み」は、魅力に差こそ無いが、さまざまな要因がその嗜好の傾向を分かち、特に隠れたS性やM性の分類における、一つの目安になってしまうという仮説に至ったのである。

だから、はせさん。
安心して欲しい。
ポニーテールはヤバくない。
私の仮説を用いるならば、はせさんは「S」の疑いが認められるというだけであり、それで行くなら私は「M」と言うことになるだけなのだ。

これからは、堂々と

「私はポニーテールが好きだ!そして、もしかしたらちょっとSかも知れない!」

と、声を大にしてアピールしつづけて欲しい。

世の女性達の間に、ポニーテールの波が「来る」、その日まで・・!

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学級委員長出現!

相方(彼女)と話をしていた時の事。
ふと思いついて、

「サチってさあ、髪長いよな。三つ編みとか出来んの?」

と聞いてみた。

三つ編み。
それは漢(おとこ)の浪漫。
清純と激情のはざまに、危うくも美しく、そして儚くほの光る、理想郷であり、桃源郷なのである。

「三つ編み?出来るよー。したげよっか?三つ編みなんて、高校の時以来だなあ~。」

と言いつつ、シャクシャクと髪を編みこんでゆく相方。
腕を組み、固唾を飲みながら、その様を見つめる私。

そして、3分が過ぎた時、見事な「おさげ」になった相方がそこにいた。

「おお!」

感涙に咽ぶ私。

「ほれほれ、お下げにしたぞ。嬉しいか?」

挑発する相方。

「嬉しいとも・・!!」

何故か、かすれ声で答える私。

「・・まあ、落ち着け。」

なだめる相方。

「っていうか、俺を叱ってくれ。」

「・・・やだ。」

拒絶する相方。
 
 
 
こうして、また一つ、トリビアの種から新たなトリビアが生まれた。

「相方はお下げにすると、田舎の高校の学級委員長になる」。

タモリさんの判定は、九分咲きである
 
 
※補足トリビア
学級委員長には、セーラー服の冬服が良く似合う。

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真実を追い求めて

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東北地方は、豊かなバストを持つ女性が多い。

という、衝撃の統計を知った。

なんということであろうか。
豊かなバストである。
世間では、「巨乳」とか、「爆乳」とか、「スイカップ」とかいう呼称がまかり通っているが、私としてはそういうネーミングはいかがなものかと常々感じている。

むしろ、「富みに富んだ乳房」なのであるから、「富乳(ふにゅう)」と呼ぶべきではないのか。
あの「フニュッ感」も良く表現されていて、非常にナイスだと思うのだが。

しかし、「富乳」という呼称にしてしまうと、反対に控えめなバストの方は「貧乳」となってしまうのである。
まさに、貧富の格差が出てしまうではないか。

それではあまりにアレなので(なんだ?)、ここでは敢えて「微乳」と呼びたいと思う。
「微炭酸」とかのアレだ。
ピリッと効く妙があるではないか。

いかがでしょうか?
(誰に聞いてるんだ?)

さておき、
私は別に大きい乳房が好きなわけではない。
諸般の事情からも、これは声を大にして言いたい。
まあ、大きいに越した事はないが、小さくても全然OKだ。
むしろ、重要なのはカタチだと思っている。
乳輪は・・いや、そんなことはどうでもいい。

ええと、なんの話だっけ。
どうも、乳房の話になると血圧やら血糖値やらエンゲル係数やらが上がってしまって困る。
ア、そうだ。
東北地方には富乳の女性が多いという話だ。
こないだ観た、ナントカいうテレビでやっていたのだが、東北地方の女性は、豆腐をよく食するため、豆腐に含まれる「ナントカカントカ(知らないのかよ)」っていう栄養素だかが大量に摂取され、「富乳」になってしまうのだそうだ。

しかし、果たして本当にそうだろうか?
もともと、私は、「統計」というものをあまり信用していない。

自分の目で確かめない事には、納得が出来ないのである。
だから、これから時間をかけて東北地方を回り、女性の乳房をつぶさに鑑賞観察し、この眼で「生きたデータ」を採取してゆきたいと考えている。

誤解の無いように、重ね重ね言っておくが、私は別に「富乳」などに興味は無い。
飽くまでも、「知的好奇心を満足させるため」、そして、「真実を確かめるために」、この果てしなく、困難かる遠大なプロジェクトを推進してゆこうと心に決めたのである。

東北が、「富乳王国」と称されるその日まで!

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直撃!

ついさっき、薪割りをしていた時の事。

調子よくスパンスパン割っていると、ウチに住み着いているノラネコがやってきた。
とてもノラネコとは思えないような緩慢な動きで、すぐ横に積んである木の上によじ登り、デプンと座ってこちらを見ているのである。

まるで、
「ほれ、見ててやっから、割ってみ?」
と言わんばかりの態度であった。

私は親切のつもりで
「お前さんね、そこにいると割った薪が当たるかもよ。」
と言ってやったのだが、相変わらず猫は避ける様子も無く、でっぷりとこちらを眺めているのである。

「・・当たっても知らねえかんな。」

と、斧を振りかぶり、振り下ろした瞬間。

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直撃。

まるで、薪が吸い込まれるようにネコに向かって飛んでゆき、ヒット。
猫は驚いて飛び上がり、薪も当たった衝撃から別方向に滞空する。
あまりのことに、一瞬、時がスローダウンし、ネコと薪が空中に止まっているように見えた。

「あ!ゴメン!だから危ないって言ったのに。」
と、笑いをかみ殺しつつ慌てて駆け寄ったのだが、猫は、「やったなあ!」と言わんばかりの一瞥を投げ捨て、逃げていったのである。

世の中に起こる不幸の多くは、油断と無知から生まれる。

それらは、少しの想像力を働かせ、注意を怠らなければ避けられるものだ。
という教訓を得た事は言うまでも無い。

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愛の試験

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女は「もしも」で愛を量る。(byじゅじゅさん)

つまり、女性の「もしも話」は、定期的に訪れる愛情測定試験なのである。
以後、これを「もしも試験」と呼ぶ事にする。

「もしも試験」は、突然に出題される。
しかも、その返答如何では、ふたりの関係に決定的なまでの亀裂を生む原因ともなるのであるが、見事に答えたとしても、大袈裟だと「ウソっぽい。」と言われ、これまたポイントダウン。
足りないと、「そんなもんか・・。」と言われポイントダウン。

丁度いいところを打って、「よしよし。」。
満足ではなく、納得・・・。
「加点はあんまし無いけど、大幅な減点はあるよ。」という、非常にハイリスク・ローリターンな試験なのである。
 
しかし、男はそんな理不尽な「定期もしも試験」をクリアし続けなければならない。
「もしも試験」で赤点を取りつづけた者には、「別離」、「成田離婚」、「熟年離婚」、「定年離婚」などの憂き目が待っているのだ。
(待っていないかもしれないが。)
 
 
  
ある日の事。
相方(彼女)と車に乗っていると、ラジオから「彼がフタマタをしている事に悩んでいる」と言う旨の話題が漏れてきた。

そこで、相方はこう言ったのである。

「トシさん、もし、私より好きな人が出来たら言ってな。」

ジャジャッジャッジャッジャジャ!
「もしも試験」の開始である。
私の愛情が今、この瞬間、試されている。
加点は無くとも減点は大いにある、この試験に立ち向かわなければならないのだ。
私は、一つため息と取られないように気をつけながら、深呼吸をして返答の言葉を紡ぎだす。

「言ってどうするの?」

「そりゃあ、がんばって引き止めるけど、無理っぽかったら身を引くよ。」

「う~ん・・、まあ、俺みたいなのを好きになってくれる人は、地球人ではサチくらいだと思うよ・・あ、でも、異星人なら分からんな。」

「異星人??」

「うん。もし俺が、複眼が3つくらいあって、足が4本で、手と思しき物が3~4本あって、脳が脈打ってる生物・・あ、もちろんメスね。それに求愛されているところを目撃したらどうする?」

「・・っていうか、そういうのが好みなの・・?」

「いや、だから『もしも』だよ。『もしも』。しかも、そこに、ゲル状の体の中心にコア(核)を持った、いかにも『進化の究極に単細胞化がありました』チックな生き物が来て、テレパシーで『マエカラ・スキデシタ・タネヲクダサイ』っていう、直接的で直感的な告白があって、銀河系を跨いだ一大争奪戦叙事詩(?)に発展したらどうする?」

「ってことは、私、『地球代表』だ。・・まあ、がんばってみるよ。」

「そうなるね。でも、安心してくれ。俺は間違いなくサチを選ぶかんな。」

「・・・それは、喜んでいいのか?」
 
 
 
自分の中では。気宇壮大な愛情表現をしたつもりなのだが、どうも相方は釈然としない様子だった。
しかし、これは時間を追うごとに効いてくるものだと確信している。

何故なら、私は、どんな異星人よりも君が好きだからだ。

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スキーにまつわる悲しい話

RUMIさんのblogにて、「ウィンタースポーツについてのトラックバック募集!」という挑戦状(?)を受けた。
「常時是戦場」、「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」がモットーの私としては、是非とも何か、気の利いたウィンタースポーツの話題を返したいと思ったのだが、あいにく私はウィンタースポーツというものにほとんど縁が無い。

マトモにやった事があるとすれば、中学校時代にあった「スキー教室」くらいなものだろう。


そう、あれは、まだ私が14歳の、「紅顔の美少年」と謳われた頃のお話である。
(今は、美青年になりました。ウソ。)
私の中学校では、2年の冬になると「スキー教室」が開かれる。
学年の生徒全員を、ある日突然スキー場に連行し、問答無用で滑らせるのである。
普段、スキーの「ス」の字とも縁の無いような人間にも、それは強要されるのだ。

私も当然、スキーの「ス」の字とも縁の無い生活を送っていたから、スキー板はもちろん、ウエアも持っていなかった。
だというのに教員は、「スキー板はレンタル出来るが、ウエアは各自用意するように!」と言うではないか。
ウチの家族でスキーをやる人などいないし、周囲にもいない。
兄は、昔、よく父にスキーに連れて行ってもらったらしいが、もう、その時の道具は捨ててしまったと聞いていた。
それでは、どうしようもないではないか。
そういう場合はどうすればいいのだろう?
と、途方に暮れていると、教員はこう付け足した。

「持ってない者は、濡れにくく、寒くない格好をしてくるように!」

あ、な~んだ。
それでいいのか。
一安心する。

帰宅してから、さっそく自分の衣類の中から、「濡れにくくて、寒くないもの」を探した。
まず、上は頭にニットの帽子だろー。
それから、上半身はまあ、いつも着てるジャンパーでいいよな。
下は、カッパのズボンで十分だ。
あ、手袋もいるか。
適当なものが無いから、軍手でいいな。

かくして、私の「即席スキーウエア」は完成したのである。 

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当日。
校庭に集まった同学年の生徒達を見て驚いた。
ほぼ全員が、オシャレでカッチョイイスキーウエアを着込んでいる。
中にはサイズの微妙に合わない者もいたが、校庭の真ん中あたりが、パステルカラーの花々が咲いたように眩しかった。

教員の指示どおり、「濡れにくく、寒く無いモノ」を着込んでいたのは私だけだったのである。

「なにい~!?」
自分が思う以上に、宮城県のスキー人口は多かったのか、それとも、これくらいの年頃でスキーに行ったことがないのは私くらいだったのか、「即席スキーウエア」を着込んだ私だけが、妙に浮いてしまう事になったのである。

当然、周囲に爆笑が起こった。

いやいやいや。
私は少し、スキーというものを甘く見ていたようだ。
そんなにも重装備でやるものだとは知らなかったものだから。
しかし、別にスキー場でスキーウエアを着なきゃならんという法律があるわけでもないでしょう。
少なくとも、今のこの校庭ではスキーウエアの君らより、僕の方が説得力があるぞ。
などと思ったが、とりあえず「濡れにくく、寒くない」ので、自分では納得していた。
ただ、当時好きだった女の子に笑われたのはちょっと痛かったが・・。(っていうか、一番笑ってた。)
 
 
 
スキー自体は楽しかった。
当然、初心者コースで始めたのだが、最終的には中級者くらいの事は出来るようになった。
立派な格好をして転げまわる人より、即席スキーウエアでも、颯爽と滑降する私のほうがカッコよかったはずである。
この時ほど、「男は見た目じゃないな。」と思った事は無かった。
(ああ・・プロスノーボーダーさんへのトラックバックになんてことを・・)


ゴーグルを持っていなかったので、雪が目に入り難儀したり、、ジャンパーとカッパの下の内部が汗でグショグショになったり、軍手が濡れて手がヒリヒリしたが、即席ウエアは、赤と黒の弾丸となり、真っ白なゲレンデに、「ハングリー精神」という名のシュプールを描いたのである。


 
スキーは楽しかったのだけど、それ以来どうも行く気がしなくてやっていない。
当然、ゲレンデが融けるほどの恋や、二人で愛のシュプールを描くことも無かったのである。

何かの縁で再びゲレンデに行く事になったら、今度は、ニット帽子(相方お手製)、上ジャンパー、下バイク用ズボン、バイク用グローブ(微妙にグレードアップしている。)の「即席スキーウエア2004」で行こうと思っていたが、YONEXのウエアも悪くないな~。と思っている今日この頃である。
(最後になんとかフォローを・・ダメですか・・。)

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「演奏欲!」

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人生で、何か一つ「自分の楽器」が欲しい!

と、常々思っている。

道を歩いていて、いきなり呼び止められ、「バンドのメンバーが足りないんだ!何か楽器できないか?」と聞かれた時に、「ギターくらいなら・・」と言ってしまい、それがキッカケでそのバンドに入って聴衆を魅了し、友情や恋やらに悩んでみたり、飛行機に乗っていて、客室乗務員のお姉さんが駆け込んできて、

「お客様の中で、ギターの弾ける方いらっしゃいませんか!?」

と言われた時に、スッと手を挙げ、

「私、ちょっと弾けます。」

と言って、周囲の羨望と尊敬のまなざしを一身に集めるとかしてみたいのです。
 
 
 
まあ、ウソですが。

楽器を意のままに、まるで歌うように奏でられるというのはどんな気持ちなのだろう?
それが知りたい!味わってみたい!と思っているのです。

そんなわけで、以前、ピアノを練習した事があった。
変則両利きの自分なら、きっとピアノも出来るに違いない!と挑戦したのだが、家電屋さんで特売していたキーボードでは、練習が進むにつれて鍵盤の数が足りない事に気付き、88鍵のピアノを探したところ、どれも結構高くて(「友子」のように、中古も探したが、コレも高かった)、「ああそうかい!ビンボー人はピアノなんぞやんなってか!こっちっから止めたらあ!」と何故か逆ギレし、挫折。

それでも「楽器弾きたい欲」は冷めやらず、次はギター一式を購入。
ウチは山中に住まいがあるので、母屋から離れた工房でなら、いくら音を大きく出しても誰にも迷惑はかからない立地にあり、楽器を練習する場所には困らないのである。
しかし、夜中に工房でギターを弾いていると、なんだかさみしい気分になってきてしまう。
特に、「ラブ・イズ・オーバー」など弾き語っていると、気分が滅入る。

「ラブイズオ~バ~・・哀しいけれど~・・終わりにしよう・・キリが無いから~・・ラブイズオ~バ~・・若い過ちと~・・笑って言える~・・時が来るから~・・シクシク・・」

楽曲に、必要以上に感情移入してしまうのは、私の悪いクセだ。
しまいにはさめざめと泣いてしまいそうになる。

どうも、最初に買った教本の練習曲は暗い歌が多いようで、それが離れた原因なのかも知れない。
暗い歌はどうも好かん。

楽器と言えば、相方(彼女)は弾ける人である。
中学校の頃から吹奏楽部でコルネット(トランペットの小さいヤツ?)をやっていて、バンドで演奏した事もある本格派なので、ここ数年やっていないと言っても、練習すればまた、十分「スウィング出来る女」なのである。

うらやますい。
非常にうらやますい。

だから、私も密かに練習を進め(ここに書いてる時点で「密か」ではない。)、いつの日か、相方とセッションをしてみたいものだと思っている。

コルネットとギターのバンドを結成するのだ。
あ、まてよ、相方が口塞がっているから、自然に俺がヴォーカルか。
まいったなあ。

多分、相方がイヤがるだろうな・・。

冗談はさておき、時間を作って練習しようかな・・と思う今日この頃である。

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スウィングガールズを観た!

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映画「スウィングガールズ」を観た。

山形の女子高校生(+1)が、ひょんな事からビッグバンドジャズを始めるという物語なのだが、コレが非常に面白かった。

出演者の娘らは、実際に演奏しているらしい。
今でもあちらこちらでライブをやっているそうである。

あれだけ弾けるようになるには、相当の練習の積み重ねが必要だったはずであり、演奏も実に素晴らしいものだった。
そりゃあ、実際やっている人などから見れば、
「なんでえ、あの程度のレベルかあ。」と言われるかも知れませんが、シロウトの私には、大変楽しめて、鳥肌が立ちっぱなしの演奏でした。

私にとって、楽器というものは永遠の憧れであり、楽器を意のままに弾ける人というのは無条件での尊敬の的なのである。

この映画を観て、本当に羨ましい・・と思わされた。
楽器や歌を持って、人とひとつになるというのは、ものすごい一体感というか、統一感というか、そんなものがあるのではないかと思う。
それは、どんな快感なのかは想像しか出来ないが、きっと、とてつもなく大きなものなのだろう。
ある意味、セックスなどよりもイイのかも知れない。
(少なくとも、耳に聴こえるカタチで気持ちが一つになれるという意味では・・。)

残念ながら、私にはあまり音楽的センスが無いようなので、その快感を味わう事は出来そうにもありませんが・・。


23時半に観終わって、0時20分に帰宅し、それでも興奮冷めやらず、思わず描いてしまったのが上の絵です。
素晴らしい映画でした。

人間には2種類ある。
スウィングする人間と、そうでない人間だ!

(すっかり染まっている。)

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頭髪三国志

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少し前に、「髪が鬱陶しい」と言う理由から、姉にバリカンで刈ってもらい、坊主にした。
その時、散髪に要した時間はたったの4分であり、私の生涯で散髪所要時間ワールドレコードを記録したのが記憶に新しいところであるのだが、その髪が最近伸びてきて、マリモのような髪型を通り過ぎ、イガグリのような頭になっているのである。

しかも、そこにネグセが加わり、生来のクセっ毛も出てきて、もう、何がなにやら分からない髪型になっている。

その様を鏡で見ていて、ひとつ気が付いた。
私の髪の流れは、大きく分けて3つに分かれているのだ。

ひとつは、頭頂部からまっすぐ上に伸びる髪。
もうひとつは、左の側頭部から横に伸びる髪。
そして3つめが、右の側頭部から横に伸びる髪。

つまり、「魏」、「呉」、「蜀」の3つに分かれた「三国志」なのである。
頭髪の乱世である。

この乱れ、荒んだ世を平定できるのは、「猛将」と謳われる理容「ヤナギサワ」のオジサンしかあるまい。
民の心を安らかにするためにも、一日も早く天下の統一を図らねば・・と思う、今日この頃である。

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ジャジーな夜をタコヤキで

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仙台の定禅寺通りというところでは、毎年この季節になると、「定禅寺ジャズフェスティバル」が開催される。
定禅寺通りに、さまざまなアマチュアバンドやら、そうじゃない人たちやらが、それぞれの音楽を聴かせるという趣向のお祭りである。

このお祭りは、大きく二つに分かれていて、昼の部はアマチュアバンドの方々が、通りのそこかしこ(つまり外)で演奏し、聴衆は自由に歩きながらそれを観て、聴く。
夜には、どこかの会場で有料(あとで調べたら6,000円だって。)で行われているプロのライブを、公園に設置された巨大モニターで、芝生やベンチなどに腰掛けて、屋台の食べ物を頬張りながら聴くというものらしい。

昨日は、そのお祭りに相方(彼女)と連れ立って行ってみたのである。
出来れば昼の部のアマチュアバンドの生演奏が聞きたかったのだが、何しろ土日が忙しい仕事なので、仕方が無いので夜の部に行った。

この季節になると、残暑とは縁の薄い仙台は、秋の香りが多く含まれる肌寒い夜風が吹く。
鼻をグスグス言わせて、クシャミをしながら「寒い・・!」と厚手の長袖トレーナーに身を包む相方は、仙台に帰ってきたばかりの名古屋女である。
仙台男26年目の私は、薄手の半袖。
「その格好を見ているだけで寒い・・!」
という、理不尽な責めは、ヨン様ばりの微笑で返す事にする。

会場は、大きく二つに分かれていて、片方の会場では、でっかいスピーカーから、何故かロックの音が衝撃波のように繰り出され、その前だけ人込みの空洞が出来上がっている。
来場者は、会場を埋め尽くすほど多くて、ほとんどがカップルか家族連れ、女性は妙に薄着な人が多い。
仙台男26年目の私も、さすがに「寒くないの?」と思ってしまった。

両方の会場には、お決まりのタコヤキ、ヤキソバ、フランク、玉コン、ポテト、トウキビなどのお祭りファーストフードの屋台が軒を連ねていた。
食事がまだだったので、何か食べようという事になり、屋台を物色していると、なんと小学4年生くらいの女の子がタコヤキを焼いている屋台を発見。
「じゃりんこチエ」みたい・・と思いつつ、そこでタコヤキを購う。
一緒に買ったジュースは、そのお兄さんと思しき小6くらいの男の子が出してくれて、タコヤキを渡してくれてのは、そのバアチャンと見られる方だった。
隣ではお父さんと思われるオジサンがヤキソバを焼いている。
お母さんは、フランク。
(人懐こいという意味ではない。)
つまり、テキ屋一家なのだ。

そうかそうか。
一家でか。

妙に感慨に耽りつつ、近くの芝生に座り込み、巨大なモニターに映し出されるどこかの会場の有料ライブの中継を観る。
生演奏じゃないのが残念だが、夜の街中の芝生の上で、ジャズを聴きながら相方とタコヤキを頬張るというのが、異様にシヤワセだった。

きっと、これが祭りの魔力なのだろう。

タコヤキが非常に不味いことさえ、たいした問題ではないように思えてくる。

きっと、これも祭りの魔力なのだ。

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叱られ役

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じゅじゅさんのダーリンさんは、結局いつも怒られる。
怒りの方向が、大体同じ方向に向くのである。
この話を聞いて、私は溢れる涙を禁じえなかった。
何故なら、私もよく同じように怒られるからである。

「叱られ役」、または「怒られ役」というものは、必ずどこにでもいるものである。
いや、むしろ、その役割を担う人間がいないと、組織は円滑に機能しない場合が多い。

「叱られ役」は、基本的に大らかで、反論しない、なおかつ気にしない・・というか、忘れっぽい人間にその資格が生まれ、その資格を授かった人間は、周囲の「怒りのはけ口」として機能する事になるのである。

本人も、それは分かっているのだが、そういうことで腹を立てる人間に「叱られ役」は勤まらない。
そういう得がたい能力を必要とされるのである。

つまり、「叱られ役」は選ばれた人間なのだ。
(あんまし嬉しい選ばれ方ではないが。)

そういった意味では、私も選ばれた人間である。
 
 

「叱られ役」有資格者の特徴は、いちいちよく反省する。
その時は、本当に悪かったな・・今度から気をつけよう。
とは本気で思う。
思うのだが、「叱られ役」は在任期間が長い場合が多く、長年の経験で、「反省はしているけど、聞き流しちゃう。」という致命的なクセがついてしまい、またすぐ同じ過ちを繰り返しては叱られるという悪循環が出来上がってしまうのだ。

その辺は、もはや本人にはどうしようもないことなのである。

 

「叱られ役」の真骨頂は、「理不尽な叱られ」である。
こんな事もしょっちゅうある。

ある日の事。
厨房で他の人が片付けずにほっぽっておいた調理器具があり、Sさん(敢えて仮名で)は怒っていた。
そこに、タイミング悪く(テレフォン指数が高いのも、「叱られ役」の特徴である)「叱られ役」の私が入ってきた。

Sさんは、見るなり怒ってこういった。

「こら!お前、またコレ出しっぱなしにしたべ!」

「え?違うよ。それさっき、●●が使ってた。俺、今日使ってないし。」

「そうなのか?・・まったくアイツは!これいっつも出しっぱなしなんだよ!アンタもだよ!出しっぱなしにするとね・・」
そこから、結局説教を食らうことになるのである。

極め付きはコレである。
ある日の事。
いつものように仕事をしていると、Sさんが疲れきった顔をしていたので、何事かと聞いてみた。

「どしたの?」

するとSさんは、険しい顔を向けつつこう言い放ったのである。

「昨日の夜ね・・。夢の中で突然、アンタが『北海道にチーズを買い付けに行く!』と言い出してね。仕事をほっぽってどこ行くんだ!って、叱りつけて、あんまり腹が立って、起きてからも体調がおかしいんだよ・・。」

・・あまりにも理不尽かつ不条理な上に不可解極まりない言いがかりである。
日常、そんな無茶なことは一言も言っていないのに、自分の脳内で起こったことや、夢の中の事まで責任を取れというのだろうか。
さすがにこの時ばかりは途方に暮れてしまった。


その事からも分かるとおり、「叱られ役」にはさまざまな方向、思いもかけない方向から怒りの矢が飛んでくる。
それに反撃する事無く、また、防御する事も無く、ひたすら受け入れ、受け流し、いなし、捌き、まるで植物の光合成のように、怒りを(いや、大抵怒られるようなことをしてるんだけど)消化し、全体のバランスを取るのが「叱られ役」の仕事なのである。

もし、「叱られ役」が物事を完璧にこなしたり、いちいち反論して怒り狂ってしまったら、「叱り役」の人間はストレスで死んでしまうだろう。
「叱られ役」はそれが分かっているのである。

以上の事から、結論として、

■ 叱られ役は、自分で叱られる種を生み出し、それを自ら消化する、いわば永久機関である。
■そのついでに、他の怒りも注がれ、結果として周囲に満ちた怒りパワーを吸収し、全体の調和を取っている。
■ 叱る方は、実にスジの通った事で怒りつづけるあまり、たまに怒る分類のしようのない事も、なんだかよく分からないけど、とりあえず叱られ役に回しちゃう事もあるので注意した方がいい。

と言う事である。

だから、今日も「叱られ役」は叱られる。
昨日注意されたことをしてしまい叱られる。
他人がした事でも叱られる。
理不尽なことでも叱られるのである。

「叱られ役」の皆さん、どうか、今日も立派に、堂々と叱られて頂きたい。
私たちが叱られる事にはきっと意味があり、それがこの社会に何かしらの寄与を果たしているのだから。

叱られ役、バンザイ!
(こういう事をほざくから、また叱られるんだよな・・。)

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クイズ番組は困る。

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クイズ番組は困る。

特に、IQサプ・・ナントカとか、サルヂ・・ナントカの、「とんち系クイズ番組」は困るのである。

ああいった番組は、この歳になると家族で一緒に見ると言う事はまず無い。
イイ歳したオッチャン、オバチャンが、雁首揃えてトンチを競っている様は、かなり画的に気まずいから困るのである。

仕方が無いので自室のテレビでコソコソと観るのだがしかし、一人で観ていると、それはそれで困るのだ。
何しろ、正解が分かっても、それを自慢する相手がいないのだ。
だから、出来れば何人かで一緒に見た方が絶対に楽しい。
しかし、オッチャンオバチャンが、雁首揃えてトンチを競うというのは、あまりにもアレだ。(なんだ。)

クイズ番組のミソは、実にやらしい話ではあるのですが、ブッチャケね。
正解がわかった時に、他の誰かに自慢し、優越感に浸る事が一番の醍醐味だと思うのですよ。
先に分かって、ニヤニヤしながらヒントを出してみたりね。
「だからー、ひらがなにしてみなよ~。」とかね。
「考え方なんだよ~。」とかね。
本当に、やらしい話なんですが。
ええ。そうですよ。
私はこんなにやらしい人間なんですよ。
それが何か?的な。

他の人が先に正解を見つけた時に喰らう、非優越感というか、剥き身の劣等感に歯ぎしりするのもまた楽しいのだ。

言うなれば、クイズ番組とは、真剣な優越感のやり取りである。
普段、すましている人でも、クイズ番組を一緒に見たが最後、優越感を出さない訳にはいかない。
黙っていて、後から
「自分は正解が分かってた。」
と言ったところで、
「分かってて黙ってたのか、いけ好かないヤツ。」とか、
「本当は分かっていなかったクセに・・見栄っ張りなヤツ。」とか思われるのがオチであり(なんて穿った見方だ)、クイズ番組を視聴する以上、優越感や自慢を剥き出しにするのが作法であり、マナーだと言っても過言ではないのである。

だというのに、一人で観ていてはそれが出来ない。
「俺、分かったもんね。へへ~ん」
と、テレビの中のタレントに自慢しても虚しいだけである。

優越感に浸れないのだ。
「こんなにもトンチの効いてる俺の勇姿」
を見せる事が出来ないのだ。

それが悔しくも哀しく、歯がゆく困るのだ。

誰か、こんな私と一緒にクイズ番組を見てくれる人、いませんか。
(多分、誰もいないと思う。)

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偉そうとコソコソの間。

義兄からパソコンチェアーをもらった。

義兄とは、言うまでもなく義理の兄の事である。
ほかに「義理」とつくものとしては、「義理チョコ」、「義理人情」、「義理義理ガールズ」、「辻義理」、「ワン義理」などがあるが、義兄とは直接関係無い。

もらったパソコンチェアーは、両端に肘置きの付いている、大変丈夫なもので、座りよい上に、いかにも長持ちしそうなのだが、一つだけ困った事がある。

そのイスに座っていると、偉そうな姿勢になってしまうのだ。
昔の殿様を見ても分かるとおり、人間は、肘置きがあると、尊大になる。

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本人にまったくそのつもりが無くても、肘置きに肘を置く以上、尊大にならざるを得ないのである。
私のように、普段から常に低姿勢で、謙虚で、慎み深く、ややもすると卑屈とも取られかねないほど慇懃かつ、コメツキバッタのようにヘコヘコしている人間でも(いままでそういう評価を受けた事は無いが)、肘置き付きのイスに座ると偉そうになってしまうのである。

偉そうにするというのは、実は気持ちのいいことである。
格好だけでも偉そうにしていると、本当に自分はエライような気がしてくる。
「えっへん。」と言いたくもなる。
「うおっほん。」でもいい。
とにかく、咳払いがしたくなるのだ。
咳払いでいい気持ちになれるというのは、偉そうにしている時だけであろう。

しかし、人前で偉そうに振舞うというのは、実に恥かしい事である。
慣れているならまだしも、普段から常に低姿(中略)の私としては、なるべく「偉そうな自分」というものは見せたくないのが本音なのだ。

というわけで、今日も部屋で一人。
コソコソと「えっへん。」「うおっほん。」と、コソコソと咳払いしながら、コソコソと偉そうに義兄からもらったイスにコソコソふんぞり返っているのである。

えっへん。
(コソコソ)

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「熱唱欲!」

日常、急にもよおしたように熱唱したくなる時がある。
「熱唱欲」が頭をもたげた時だ。

これは、熱唱したくなるような楽曲が無ければ成り立たない欲望なので、意外にレアな欲望ではあるのだが、一度これが始まると大変だ。
何しろ、何をしていても熱唱したくなる。
何を差し置いても熱唱したくなる。
恥も外聞も無く熱唱したくなるのだ。

わたしの中で、今、「熱唱欲」が吹き荒び、逆巻いている。


ジョン・健・ヌッツォのせいである。
 
 
NHKの大河ドラマ「新撰組!」のテーマ曲が、頭にこびり付いて離れない。
最初は、

「ふふふふ~ん、ふふふふふふふ~ん・・」

などと、大人しく、控えめに、鼻歌で旋律をなぞっているのだが、そのうちに、

「ひゅひゅひゅひゅ~、ひゅひゅひゅひゅひゅひゅひゅ~~~・・!」
と、わずかずつ熱を帯び始め、ついには

目に思い切り力を入れ、アゴは目一杯引き(アゴの下にシワが寄って、顎骨が見えなくなるくらい)、口は四角に強張らせ、手は軽く前で組みながら、

「いとしき~~~友はいずこに~~~~!!この身は~~~~露と消えても~~~~~~!!!忘れは~~せぬ!!熱きお~~~~もい!誠の~~~~名に集いし~~~~遠い~~~~日を~~~!あの旗~~~~~に託した夢を~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!でんどんでんどんで~~~~ん!ちゃららら~~ちゃ~~ちゃ~~~ちゃ~~~~~~ん!ど~~ん!!!」

と、歌い上げてしまうのである。

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それほど、あのテーマ曲は名曲である。
素晴らしい。

三谷さんの作詞も、(誰だか知らないけど)作曲も、歌い上げるジョン・健・ヌッツォさんも素晴らしいというほか無い。

なんという、哀しく、雄雄しい歌だろう。
これから、一生「新撰組」と聞くと、自分の中であの歌がBGMで流れるに違いない。
 
 
 
ところで、あの歌詞は誰の視点から見たものなのだろう?
多分、近藤さんなのだろうけど、どうしても私は土方さんを思い出してしまう。
鳥羽・伏見の戦いで敗れ、近藤さんは打首になり、各地を転戦しながら敗戦を続け、敗戦し続けながら北上してゆき、仙台から船に乗って北海道にゆくところ。

その船の中を思い出してしまうのである。

もう、負ける戦と分かっていても、譲れないもののために戦い抜き、あるいは自分らしい死に場所を得るために次のさらに絶望的な戦場に向かう、あの悲壮な場面を思い出してしまうのだ。

ここが、私が個人的に新撰組で一番印象に残っている場面だったりする。

そこで、この歌が流れたら、確実に号泣します。
ええ。
約束します。

「いとしき友はいずこに、この身は露と消えても忘れはせぬ、熱き思い誠の名に集いし遠い日をあの旗に託した夢を」

ああ・・また「熱唱欲」が頭をもたげてきた・・。
ただいま、23時40分。

さすがに、この時間の熱唱はまずい。

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イラッシャイマセコンニチハー

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特にコンビニなどで多いのだが、いつの頃からか、「イラッシャイマセ~」の後に、「コンニチハ~」と付くようになった。

つまり、
「イラッシャイマセコンニチハ~」である。
略して「イラコン」である。
(糸コンではない。略す必要性も無い。)

この、イラコンは非常に困る。
入店早々居心地の悪さを抱えねばならない。
なぜ、無辜の一客に過ぎないこの私に、そこまでの過酷な運命を背負わせるのかと悲嘆に暮れてしまうのだ。

何故かというと、
もともと「イラッシャイマセ~」と言うのは、「あなたがお店に入ったのを確認しましたよ~。」と言う意味があったはずで、店の主である店員さんの「イラッシャイマセ~」を聞いて、一人のさすらいの人生の旅人に過ぎなかった自分が、初めて「お店」という、「店員」、「品物」、「お客さん」の三要素で構成される空間の、「お客さん」という地位に認められたことを知る儀式だったはずなのであり、「イラッシャイマセ~」に、お客さんは黙然と、「む。今、自分は客になったな。」と納得すればよかったのである。

しかし、「イラコン」はどうだ。

「イラッシャイマセ」が、認識の儀式だったのに対し、「コンニチハ」は挨拶なのである。
挨拶には挨拶で返さないと、非礼に当たるではないか。

しかし、店の入り口からやや遠いレジから「コンニチハ~」と言われ、あるいは商品を並べているのか商品棚の間から、姿も見えない相手に「コンチニハ~」と言われ、しかも、「いらっしゃいませ、こんにちは!」という人間味ある挨拶ではなく、「イラッシャイマセコンニチハー」という、いかにも「意味や感情無く言ってます感」の強い機械的音声に、果たして「こんにちは~。」と返せるものだろうか。

大抵は無理である。
仕方が無いので、これは「イラッシャイマセ」の一部で、別に挨拶の返事など期待されていないんだと自分に言い聞かせ、少しうつむき加減に品物の物色を始めるのであるが、やはり挨拶されてそれに返さなかったというのは、もし、反対の立場だったとして、「こんにちは~」と言ったのに、相手に無視されたら気分悪いよな~とか、いやでも、他の人も返してないし、きっと言った方も挨拶を返して欲しいとは思っていないだろうとか散々にぐるぐる考えを巡らし、しまいには「あの人、挨拶も返せないのよ」とか、「親の顔が見てみたいわね」とか、「きっと、人付き合いが出来ない人なのよ」とか、後ろ指さされている気がして、非常に肩身狭く、居心地の悪い気分を味わう事になってしまうのである。

しかもである。
レジなどに商品を持っていき、会計をしてもらう時にも「イラコン」は来る。

「イラッシャイマセコンニチハー」
と、下を向いたままレジを打ち始めるのであるが、さすがにこの距離だと相手の「コンニチハ」に反応して、
「はい。こんにちは。」とつい言ってしまうのだ。

すると、大抵のレジの人はちょっと苦笑する。
ボクもちょっと照れる。

「イラッシャイマセコンニチハー」は、挨拶を微妙な立場に追いやっている気がしてならない。

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名探偵

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fanshenさんは、かつて探偵になりたかったのだが、高校の頃の先生に阻まれ、挫折したそうである。

一見、夢の無い教員に夢を潰されたようにも見えるこの話であるが、実はその裏に、この先生の生徒の将来に対する真摯なまでの配慮があった気がしてならない。


探偵になると言うのは、実はそんなに難しい事ではない。
何故なら、探偵になるために必要な資格というものは無いからであり(「あったほうがいい」資格は沢山あるようですが。)、「私は探偵です!」と公然と名乗り、自宅に「fanshen探偵事務所」と言うカンバンを付けてしまえば、その瞬間から立派に探偵となれるのである。
(そういった意味では「陶芸家」も同様である。)

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なるのは実に簡単な探偵ではあるが、探偵には大きく分けて二つの探偵がある。
主に、素行調査や、人探し、迷いネコの捜索などでで口を糊する「職業探偵」と、
殺人事件の解決、富豪の遺産の謎解き、怪盗との対決などを専門に扱う「名探偵」である。

今の日本では、「名探偵」の多くは、目を覆わんばかりの不遇を囲っている。
fanshenさんの高校の時の先生は、そのことを知っていたのである。
だから、生徒の「名探偵志望」を、なんとしてでも阻止したのだろう。

さて、では何故、「名探偵」は、そんなにも忌避されるのであろうか。
その理由と、現在の実情を述べてゆきたいと思う。
 
 
 
「職業探偵」には、基本的に服装の制限は無い。
しかし、「本格派探偵」には厳しいドレスコードが用意されているのだ。
鹿猟帽、ケープ付きのコート、パイプ、虫メガネである。
これらの装備を怠ると、世間一般から「探偵」と認知されるのは難しいとされていた。

しかし、最近ではその常識を根底から覆す異変が起きたのだ。
 
 

学生名探偵の台頭」である。

 
 
 
彼らは、伝統の服装を一切無視し、ブレザー、Tシャツなどの軽装で殺人現場などを傍若無人に歩き回り、自らを「名探偵」もしくは、「名探偵の末裔」などと僭称。
学生の身分でありながら警察などと強力なパイプを構築し、週イチでキッチリ殺人事件、富豪の遺産の謎解き、怪盗との対決の仕事が回ってくるのである。

それだけでなく、番組改変時期には漏れなく大事件に遭遇するという、非常に強固な既得権益を有しており、「名探偵業界」への新規参入は非常にコナン・・いや、困難とされているのである。
(ただし、学生名探偵と警察の癒着は一部で大きな問題となっており、監査部の捜査のメスが入るという噂も実しやかに囁かれている。)


そして、「名探偵」を志す者にとって極め付きの障害が、「営業活動の違法化」である。

「名探偵」に要求される能力は、大きく分けて3つある。

①尾行能力

②情報分析能力

③洞察力

である。
他にも、変装能力などもあるが、ここでは割愛する。
「名探偵」は、それらを効率良く依頼者にアピールしなければならない。
そのためには、次のような営業方法が有効とされていた。

■ 尾行能力のアピール ■

対象をマークし、気取られぬ様行動する。
コツとしては、相手のクツをよく覚え、目を合わせないように一定の距離を保ち尾行する。
そして、対象のヤサ(住居)を突き止める。

■ 情報分析能力アピール ■

ついでなので、先ほど尾行した相手のゴミ袋を漁り、そこから相手の生活スタイルやプライバシーを事細かく分析し、言い当てる。

■ 洞察能力 ■

効率的に進めるため、やはり先ほど尾行し、ゴミを漁らせて頂いた対象の住居の前で張り、行動を観察し、洞察する。
それらをレポートにまとめ、インターネットなどで公表する。

ほんの数年前まで、これらの事を根気よく繰り返していれば、徐々に大きな事件の依頼も増加し、そのうちに殺人事件や、大富豪の遺産の謎解き、怪盗との対決などの花形事件も回ってくるようになっていたのであるが、最近ではこれらの事を総称して「ストーキング」と呼び、犯罪認定されてしまっているのが実情なのである。

以上の事からも、如何に「名探偵」になることが困難であるか、何故、あの時教員が止めたのか、分かっていただけたと思う。

そういった風潮が日本に蔓延し、「名探偵」は減少の一途をたどり、ついには絶滅寸前にまで追い込まれたのだが、「名探偵の現象」は、この国に昨今の未解決重大犯罪の増加をもたらしたのである。


時は移ろい、世の中は変わり、時代が再び「名探偵」を求め始めたのだ。

そういった事からも、今こそfanshenさんには、是非とも幾多の万難辛苦を乗り越え、見事、学生名探偵に肩を並べるような「本格派名探偵」になり、週イチで難事件を鮮やかに解決して、この国に、日本に平和をもたらして欲しいと願わずにいられない。

いつの日か、犯罪が減り、再び「名探偵」が不要とされるその日まで・・!

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谷間はどっちだ

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週刊誌などに載っているグラビアで、豊満な女性アイドルに、わざわざサイズの小さな水着をあてがい、寄せなくていいものを寄せたり、ハミ出させたりして、ただでさえ凹凸の激しい体をさらにきわどく見せる手法がある。

なるほど、よく考えられていると感心するのだが、
あれを見るたびに、何故か

「すんごいおデブな人がスクーターに乗っている後姿」

を連想してしまい、非常に困る。

ハミ出ているものが根本的に同じだからだろうか・・。

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手を動かしたら?

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たまに、母が歯磨きをしているところを見かけるのだが、大体5割の確率で、ブラシを動かさずに顔を動かして歯磨きをしている。

どう考えても、顔を動かすよりは手を動かした方が労力は低いハズなのだが、それでも顔を動かしてシャカシャカやっているのである。

それを見るたびに、

「母ちゃんよ、顔が動いてるぞ。」

と注意してやるのだが、そうすると
こちらを見てニヤッと笑い、わざと大袈裟に顔を振り乱しシャカシャカ磨きつづけるのである。

その様をみて、

シャカに説法とはこういう事を指すのだな・・。
と、妙に感心させられるのである。

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楽しさの自給自足

毎朝、不思議でしかたがないのだが、
歯磨きをしている時、鏡に映った自分の表情は、とっても嬉しげである。

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ほとんど「悦楽」の表情である。
別段、ハミガキがキモチイイとかそういうことは無いのだが・・。

その表情を見ていると(自分の顔なのに)、なんとなく楽しい気分になってくるから不思議である。

つまり、楽しい気持ちを自給自足してしまっているのだ。
 
 
 
「そんなバカな」と思うなら、試しにやってみてください。

笑いながら歯磨き。

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レジ

最近では、スーパーマーケットなどでレジを打つ人の事を「チェッカー」と言うらしい。
決してレジのオバチャン(お姉さん)ではないのである。

チェッカーのレジの打ち方は芸術的である。
来る日も来る日も大挙して押し寄せるお客を捌きながら打ち方を鍛えているため、動きに一切の無駄が無く、見ていて思わず唸らされてしまう事もしばしばである。

大抵、レジの打ち方は上手い彼女らではあるが、「お釣りの渡し方が上手い人」と言うのは意外と少ないような気がする。

「お釣り渡し」と言えば、一連のレジ・テクニックの言わばフィニッシュ部分であり、ここが決まるか決まらないかによって、技術点、芸術点ともに大きく影響してくるのであるが、チェッカーの間ではあまり重視されていない傾向があるようで、もっぱら彼女らは、バーコードの読み取らせのスピード、カゴパス(カゴからカゴへの品物の移動)の安定、バッグセレクトの的確さばかりに重きを置いているように見える。

実に嘆かわしい事である。

では具体的に、巷に溢れる「お釣り渡し時における反則(ファウル)」というものはどういうものであるか、検証してみよう。


~釣り銭受け取り時における、代表的なファウル例~

~村立そんちょ研究所調べ~

■お釣りシュート

差し出した手に向けて、つり銭を投げ込むように渡す釣り渡し法。
もっともポピュラーなファウルである。
渡された方は、「何も投げなくとも・・」と悲しい気持ちになるのはもちろん、酷い時には受け損なってしまい、混みあうレジフィールドに小銭クラッシュを発生させてしまうという、悪夢のような大失態を演じる原因にもなり得る。
抗議の視線を送っても、「獲り損なったアンタが悪いんでしょ?」という言わば逆ギレされることもあり、まさに最悪のファウルと言える。

対処法:
野球用のキャッチャーミットを携行し、補銭すること。

■肩透かし

釣り銭を受け取るべく手を差し出したにも関わらず、皿の方に釣り銭を置かれてしまう。
割と確率の高いファウルである。
差し出した手の処置に困るのはもちろん、チェッカーとの間に、微妙に気まずい雰囲気が立ち込めるのも特徴である。

対処法:
図のように、差し出した手をそのまま上げ、「ゲロ!」のアピールをする。
(出展:「ろ●でなしブルース」)

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■レシート・クッション
釣り銭を受け取るべく差し出した手に、まずレシートまたは紙幣を敷き、その上に無造作に釣り銭をなだれ込ませるファウル。
これも遭遇確率は高い。
一見、レシートが落ちなさそうで良いようにも見えるが、どっこいレシートは滑りやすく、誤ってバランスを崩すとレシートから釣り銭がこぼれ落ち、小銭クラッシュを誘発する原因ともなる。

しかも、この場合、バランスを崩した当方が悪い様にも見えるので、非常に悔しい思いをする。

対処法:
それなりに熟練したチェッカーの信念がこもっているため、対処は難しい。
機に臨み、変に応じて対処する事。

■シミュレーション(過剰演出)

釣り銭を受け取るべく差し出した手の下に自らの手を添え、もう片方の手でそっとはさみ込むように釣り縁を渡す方法。
遭遇確率の非常に低いファウルである。
やられた方は、最初かなり困惑する事は間違いなく、もし、レジの女性が妙齢だった場合、かなりの確率で恋に堕ちる危険性があるため、シミュレーション(過剰演出)ファウルとなる。

対処法:
「ありがとう・・!」と、心の中でつぶやく。
(そういう良い娘はみんなの宝物であるから、大事にしなければならない。「兄貴」のような気持ちで!)
 

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以上のように、「釣り銭渡し」は、実は非常に難しいものであり、決して軽んじてはいけないものであるかと言うことである。
釣り銭の渡し方一つで、相手に立ち直れぬほどの屈辱や、明日への活力となるような喜びを与える事もあるのだ。

そういったことからも、現役のプロ・チェッカーの皆様には、別に特別なことはしなくていいので、普通にちゃんと釣り銭を渡して欲しいものだと願わずにいられない今日この頃なのである。

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