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ペンギンが・・!?

ある日の事。
街を歩いていると、向こうから異様な歩き方をする生物が近づいてきた。
その生物は、重心を絶えず左右に移しながら、まるで土偶が歩くかのように、あるいはヤジロベーの如く、いや、マトリョーシカと形容すべきか、「ゆーらゆーら」とジグザグに、しかし器用にまっすぐ歩いてくるのである。

近づくにつれて、どうやらそれはしかめ面したペンギンのようにも見えた。

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そのペンギンが、キングペンギンなのか、はたまたマカロニペンギンなのかまでは分からないが、動物園でもない、ましてや南極でもない、日本の宮城県の街中でのペンギンとの邂逅は、私の心に驚愕と狼狽を植え付けるには充分であったのである。

充分に警戒しつつ、そのペンギンと思しき生命体に近づいてみると、なんと、それは変わり果てた(?)相方(彼女)の姿だったではないか。

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歩み寄り、

「なんだって、おかしな歩き方をしているな。どうした?」

と訪ねると。
相方は

「・・・腰が痛くてねえ。」

と憮然と答えた。

話を聞くところによると、2~3日前から、原因不明の腰痛に悩まされているそうで、普段の生活にもちょっと難儀い(名古屋弁)ほど、痛いらしい。

そうか・・。
そんなやむにやまれぬ事情があったのか。

すまんなあ・・。
一瞬でも、土偶だの、ヤジロベーだの、マトリョーシカだの、あまつさえペンギンとまで形容してしまって・・。

相方の腰が少しでも早く全快する事を願ってやまない。
(や、マジで。)

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己の限界

身体能力を極めようとする者にとって、クスリの力を借りるというのは、これ以上の屈辱は無いのではないかと思う。

何故ならば、鍛錬だけでは超えられない、己の限界を自ら認めてしまうからであり、その道において、永劫続く矛盾を背負ってしまうからである。

しかし、クスリを使ってまでも、結果を残したいという気持ちもまた分かる気がする。
純粋にその道に打ち込めば打ち込むほど、一部の「異能者」とのわずかな差が、埋められない事に気付いてしまうからである。

もし、これを飲めば、打てば、その異能者たちの見ている世界が見えるとしたら・・。
使ってしまうかもしれない。

どちらにしても、クスリが絡めば、スポーツは悲壮感を帯びる。

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敗北する男

兄は、目覚し時計代わりに携帯電話のアラーム機能を使っている。

朝、6時半になると、「ロッキーのテーマ」が流れるのだ。

しかし、

彼が10カウント以内に立ち上がることはあんまし無い。

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おっさん度が、距離に表れる。

「おっさん度」は、どこからが「便器か」という認識の距離に表れる。

女性の方には分かろうはずも無い話題で申し訳ないのだが(しかも、あまり品の良い話題ではないので、こういうのが好きじゃない方には飛ばす事をオススメする。)、

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続きを読む "おっさん度が、距離に表れる。"

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極楽で寝るんじゃない!

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日常において、「はあ~・・極楽極楽。」と思わず漏れてしまうのは、神代の昔から「入浴時」と、「就寝時」と相場が決まっている。

大好きな人とイチャついていて「はあ~・・極楽極楽。」とはあまり言わないし、美味しいご飯を食べていて「はあ~・・極楽極楽。」と言う人はかなりの少数派ではないかと思う。

何故ならば、イチャついたり、美味しいご飯を食べた時には、殊更「はあ~・・極楽極楽。」と言わずとも、他にいくらでも表現手段があるからであり、逆に言うならば、入浴時と、就寝時の幸福感を表現するには、「はあ~・・極楽極楽。」というのがもっとも適切であり、他に形容のしようがないのである。

もし、「はあ~・・極楽極楽。」という凡庸な表現を嫌い、無理にそれ以外の表現を用いようとすれば、

「ああ~、お湯によって全身の血行が促進され、筋肉がほぐれる~・・。」とか、

「うう~、布団に蓄積された輻射熱により、安眠が約束される~・・。」とか、
かなり説明的な独り言になってしまう事は明白である。


以上の事から、「極楽」と称される場所は、日常においてかなり限定されており、世間一般的に「極楽ツートップ」と呼ばれる由縁はここにある。
(もしかすると、呼ばれてないかも知れない。)

さて、その「極楽代表ツートップ」のうち、さらにどちらが極楽かと問われれば、様々な意見があると思うが、私は敢えて「入浴時」を推したい。

何故ならば、「おやすみ」を決断してから、約5秒で寝付いてしまう私にとって、「布団による極楽体験」は、たったの5秒しかないからである。

入浴も、前述のとおり、いわゆる「カラスの行水」ではあるが、それでも5秒よりは長く、それだけお得感があるのだ。
しかも、入浴は「温泉」というさらに上のクラスの極楽があることも大きい。

そう。
私にとって「極楽な場所」とは、温泉なのである。
(前置きが長いな。)

天気の好い日に、ウチから車で30分程の場所にある温泉にゆく。
そこは町営の公衆浴場で、最近、綺麗な新館が出来た。
打たせ湯、流れる風呂、水風呂、泡風呂など、多種多様な風呂が楽しめる。
中にはマッサージ師さんもいて、大きな休憩施設、ゲームコーナーまであるのだ。

その新館の後ろに隠されるようにして、旧館もある。
いかにも年季の入ったオンボロい建物で、打たせ湯も、流れる風呂も、水風呂も、泡風呂も無い。
素っ気無い四角の室内風呂と、同じような露天風呂があるだけである。
マッサージ師もいない。
ゲームコーナーなどもってのほかである。
印象的な設備と言えば、昔簡単な喫茶スペースだったが、今は無くなり、そのまま放置され、テレビがさみしくついている、休憩所?と疑うような場所があるくらいである。

一見、完全に新館に置いていかれた感のある旧館であるが、旧館はそんな事など一顧だにせず、泰然とした佇まいを見せている。

新館には無い、確固たる自分の武器を知っているからである。

新館は、施設は素晴らしいのだが、循環式の沸かし湯なのである。
それに比べ、旧館はかなり濃い天然温泉なのだ。

先にあった者の強みである。

私は、毎回迷わず旧館の方に足を向ける。
多種多様な風呂に興味は無いし、客足は、ほとんど新館の方に向いてしまうため、旧館はいつもガラガラ。
良い質の湯に、ゆっくりと浸かれるのである。

その日も、私はいつものように脱衣し、風呂場に入った。
そこで、思わず全身が硬直するような事に出くわした。

なんと、見ず知らずの爺ちゃんが倒れているのである。

「あ、ヤバい!」

湯当たりか、ヘタをすると心臓マヒか、脳の血管が切れたか、
とにかく人を呼ぼうと、取って返そうとしたその時。
その倒れているじいちゃんは、何事も無かったかのように「むくり」と起き上がり、呆然とする私に気付かないかのように、露天風呂の方に向かって歩いていったのだ。

その動きは必要以上にカクシャクとしていた。
 
 

彼は寝ていただけだったのだ。

あまりに気持ちよくて、寝ちゃいたい気持ちはよく分かる。
分かるが、「老人が風呂場で横たわっている」という画は、かなり心臓に悪いので止めて頂きたい。
と心の中で抗議せずにはいられなかった。

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理不尽な怒りに涙・・。

今年の夏は、記録的な猛暑が続き、来る日も来る日も繰り返される、日中のうだるような暑さ、そして熱帯夜による寝不足などにより、生きとし生けるものすべからくやる方の無い憤まんを懐にしまい込んで日々を耐え忍んでいる。

しかし、その押さえ込んだ怒りが、ふとしたキッカケから噴出し、あらぬ方向への異常なまでの怒りとなって現れてしまう事もある。
それは、仕方の無いことではあるのだが、突きつけられた理不尽や不条理は、その怒りの矛先を向けられた者の心に、一生癒えることの無い傷として残る事となるのだ。
 
 
 
その日は、空から相変わらず真夏の大きな太陽が照らし付け、地面から容赦なく水分を立ち上らせて、まさに茹でられるような暑さとなっていた。
私は、冷房装置の無い工房で、汗だくになりながらポットの組み立てに勤しんでいた。

その時である。

厨房いた姉から、突然驚くべき呼び出しを受けたのである。
 
 
 

「トシさ~ん!スイカ、キレてるよ!」

 
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一瞬、我が耳を疑うような言葉であった。
厨房でスイカがキレているらしいのである。
しかも、姉の口ぶりから察するに、どうもその矛先が私に向けられているらしいのだ。

困惑を通り越して絶望さえ感じた。

私は、スイカに恨みを持たれるような心当たりがまったく無いのである。
普段、スイカを食べる時に、塩を振り掛けないのが誠意に欠けるとでも言うのだろうか?
しかし、私はスイカに塩をかけたものはあまり好きではないのだ。

大体、塩をかけずに今まで28年、お互い上手くやってきたではないか。
今さらそんな事で怒る彼らでもあるまい。

それでも、スイカはあの緑と黒のまん丸とした穏やかな外見の内に、赤々としたマグマのような怒りを含んでいるというのである。
 
 

きっと、理由を問うても

「お前は誰だ?」

と、聞かれるに違いない。
分かっていても彼らは聞くのだ。

そう。
誰何(すいか)するのだ。

夏の似合う、一見サッパリとした彼らには、そんないやらしい一面もあるのだ。


 
・・とにかく、野菜業界でも屈指の大きさを誇るスイカの不興を買っては、これからの私の未来に暗い影を落とす事は間違いない。

私は、もし誤解があったなら解こうと、掛け違えたボタンがあったなら、たとえ時間がかかっても掛けなおそうと、重い足取りで厨房へと向かうのであった。

勇気ひとつを友にして。

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メダルラッシュ

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ココログ公式ページの、「トラックバックPART2~8月分~」にて、
3つの賞をいただきました。

わーい、わーい!
有頂天!

「あったらいいな、こんな競技」に宛てたトラックバック
「日本伝統の球技を!」で最優秀賞(つまり自分的に金メダル)、

「ときめきポイント!」に宛てたトラックバック
「他人事でも」で優秀賞(自分的に銀メダル)。

「夏の悩み&夏対策!!」に宛てたトラックバック
「浴衣姿から分泌される」で優秀賞(自分的に銀メダル)。

今大会(え?大会だったの?)において、金一つ、銀二つのメダルラッシュであり、柔道の野村選手のオリンピック3連覇に匹敵するほどの(しないって。)快挙です。(ああ、自分で言っちゃった・・。)

まあ、それは冗談として、ニフティさんも物好きだなあ・・。

でも、ホント、素直に嬉しいです。
これからもボチボチトラックバックしますので、よろしくお願い致します。

バックオーライ!

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1,000アクセス突破大感謝。

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しずしずと、日を追うごとに少しずつ増えつづけて、ついに本日「一日1,000アクセス」を突破しました。

「こんなんでいいのか?」
と自問自答しつつも、描く事が好きで、また描かずにいられない性質のこの私。

かなり自己満足的要素の強い当blogを、日々の貴重なお時間を割いて見てくださっている方が、世界に数百人もいるのかと思うと、恥かしいような嬉しいような怖いような不思議な気持ちになります。

本当にありがとうございます。

これからも、そんなに無理せず、ボチボチと更新してゆきますので、どうぞよろしくお願い致します。

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いつもさみしい。

「O型の人は、いつもさみしい」のだそうだ。

「ほぼ日刊イトイ新聞」で、最近取り上げられているテーマなのだけど、果たしてそうだろうか?
 
 
 
私は問題とされている渦中のO型である。
そこで、

「お!あなたO型ですか。いつもさみしいですか?」

と問われると、

「ええ。さみしいですとも。」

と答えざるを得ない。
ご期待に添えて良かった。
私は「いつもさみしい」。
 
 
 

私はさみしがり屋である。
さみしいと死んじゃうクラスのさみしがり屋であり、業種としてのさみしがり屋では、それなりに確固たる地位を確立しており、業績もこの不景気の中では安定していると思うほどの、さみしがり屋の老舗であると自負している。

だから、私は「友達付き合い」はほとんどしないし、「親しくはない知り合い」はいても、親密な関係の人間はかなり少ない。

ちょっと矛盾しているように聞こえるかも知れないが、そうではない。
さみしがり屋は常に「だから、いつも誰かと一緒にいたいの。」とか、「沈黙が怖いの。」とか言っている人ばかりでは無いという事である。


「さみしいからこそ、一人でいたい」のだ。
  
 
それはどういう事だろうか。

「さみしさ」は、状況によってその数値は変化する。
つまり人といる時は「さみしさ値」は低く、別れる事により「さみしさ値」は高騰するのだ。
「筋金入りのさみしがり屋」である私のような人間は、その一時の別れのさみしささえ嫌うほど、さみしさに弱いのである。

そんな、日常の「さみしさ」だけでも恐ろしい事なのに、人と付き合えば、その中で当然大なり小なり「拒絶」や、「隔離」、または「剥離」が起きる。

「さみしさインフレ状態」の到来である。

そんなことになれば、すぐさま心がお手上げになる事を知っているのである。

それならば最初から誰とも付き合わず、平坦な「ちょっとさみしい状態」を維持した方が良いという事になるのだ。

誤解の無いように言っておくが、私は別に引き篭もってもいないし、対人関係がニガテと言うワケでもない。
学生時代は、普通に友達もいて、遊びに行ったりしていたが、二十歳の頃に正体不明の居心地の悪さを感じ、パッタリとそういう関係を止め、それから数年、行動する時は常に一人だった。

そして、数年前から相方と行動するようになって、やっと「ああ、自分はさみしがり屋だったのだ。」と気付いたのである。
それまで、「さみし過ぎてさみし過ぎて、さみしいのかさみしくないのかよく分からない。」と言うほどのさみしがり屋だったのだ。
 
 

それが、私の血液型と関係があるのかは分からないが、O型である私の「いつもさみしい」は、そういうカタチである。

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156テレフォンの男

いちいちそうなんだが、間が悪い。

狙いすましたかのようなバッドタイミングにぶつかってしまう事がしょっちゅうである。

何故なのだろうか。
その事について考えてみたのだが、大体において、生まれた日にちからして何となくバッドタイミングである。

1月23日。

ワンツースリーで覚えやすいと言えば覚えやすいのだが、チンチロリンという博打で言うと、「ヒフミ」となり、「倍払い」なのである。
だからなんだと言われれば当方には一言も無いのだが、何となく

「払わなくていいものを、倍払ってしまうような人生」

という暗示が付いて回っているようで、バッドタイミングな気がするのだ。
 
 
 
日常において、己の「タイミングの悪さ」を計る、もっとも分かり易いバロメーターが、「電話の着信タイミング」ではなかろうか。

どうしても手が離せない時に限って、よく電話が鳴る。
と言う人は、少なからずいると思う。

当然、私もその一人であり、その中でも群を抜いて「どうしようもないタイミングで来る。」という、ある意味選び抜かれたバッドタイミングの精鋭だと自負している。

例えば。
自分以外の家族が不在で、トイレに入って(またクソネタか?とは思わないで欲しい。)、構えている時。

鳴る。

ほぼ、8割の確率で鳴るのだ。

そうなると大変である。
てんやわんやの大騒ぎである。
驚天動地である。
取るものもとりあえず、拭くものも拭かず(いや、拭くけど。)ズボンをズリ下げたまま、自然に小股で電話に猛ダッシュする事となるのだ。

だから、最近では子機を持ち込み、落ち着いた雰囲気で用を足す事にしている。
しかし、子機を持ち込んで、要件を書き留めるメモなども持ち込み、万全の体制を整え待ち構えていると、これがまったく鳴らないのである。

そこでは鳴らないくせに、うっかり子機を持ち込むのを忘れると、やはり8割の確率で鳴るのである。

そこには、タイミングの神様の悪意が満ち満ちている気がしてならない。
 
 
 
さらに例えば。

入浴中である。

これがまた鳴る。
誰もいない時は勿論、いても鳴る。
いる時に鳴るのは良いじゃないかと思うかも知れないが、そう言うときに限って相方からの電話なのである。

私は決して風呂が長いほうではない。
せいぜい長くて10分である。

だと言うのに、その時間帯を狙ったかのように、ほぼ毎回入浴中にかかってくるのだ。
わざわざかけてくれたのに、毎回入浴中では悪いと、入浴の時間帯をズラしてりもしているのだが、それでもどういうワケか必ず入浴中にかかってくるのである。

もしかして、相方は私が知らぬ間に風呂場にピンホールカメラを設置していて、私が入浴したのを確認してからかけているのではないかと、かなり無理な勘繰りをしてしまうほど、タイミングが悪いのである。
 

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まあ、そこまでなら割と良くある事かも知れないが、極めつけは

クシャミが出そうでムズムズしている時に、電話がかかってくるという事であろう。

「へ・・へ・・」

プルルルルルル。

「へえ・・」

プルルルルルル。

「へえ・・」

出ねえ!!
電話には出なきゃならんのに、クシャミは出ない。
焦れば焦るほど出ないのだ。

出たら出たで

「はい、もしも・・エーッキシ!!とくらあ!べらんめえ、バカタレがあ!」

と、一連のクシャミに対する挨拶を相手に聞かせる事になってしまうのである。
それはどう考えてもまずい。

後半の
「べらんめえ、バカタレがあ。」を言わなければ良いじゃないかとおっしゃるかも知れませんがね。
それが出来れば苦労はしないのですよ。

もう、ここまで来ると、

「本当に俺って、間が悪いなあ・・」と、苦笑する他ないのである。

以上のように、自分が間の悪い人間か、そうでないかは、電話の着信によって計れるのであり、「世界バッドタイミング組合(I・B・A~イバ~)」ではそれを数値化した。

タイミングの悪さの単位を「~テレフォン」とし、国際基準として定めたのである。

ちなみに、日本の一般的な成人男性の「バッドタイミング値」は、平均64Telであるのに対し、私のそれは156Telである。
これは、東北ブロックで2番目、全国では51番目、世界では320番目のバッドタイミングランキングに入賞しており、今、もっとも成長著しい注目株として、世界中の関心を一身に集めているのである。

どうせなら、たとえマイナスの特徴でも、男なら天下一を目指すのが常道であるから、今後もより一層の精進を胸に誓わずにはいられない今日この頃である。

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目と鼻と耳と

「目クソ鼻クソを笑う」

という言葉がある。

つまり、目クソと鼻クソは、大体同等であるということわざである。
しかし、本当に同等なのだとしたら、「鼻クソ、目クソを笑う」でもいいハズであり、殊更「目クソが鼻クソを笑っている」と描写するあたり、実は目クソと鼻クソの間には微妙な地位の格差があるという裏づけにもなるのである。

つまり、目クソの方が、鼻クソよりも若干ではあるが上位にランクインしているという事だ。

その格差は、どこで決定付けられるのか?
恐らくそれは、禁忌とされる順序であろう。

例えば人前で、目クソを取っていても、パッと見た人は「ああ、目にゴミでも入ったのかな?」くらいにしか思わないだろう。
しかし、鼻クソはどうだ。
鼻をほじっている時点で終わりである。

「まあ、この人、鼻クソをほじっているわ。なんてはしたない!」

と、一瞬にして「不潔者」、「不精者」、「ずぼら」、「恥知らず」、「痴漢」などのレッテルを体中、そこかしこに貼付されることとなるのだ。
 
 
 
さて、それでは同じ顔周りの老廃物である「耳クソ」はどうだろうか?

ご存知のとおり、「耳クソ」は、明らかに別格である。
目クソ、鼻クソのような、下賎な出自のものとは明らかに一線を画している。
高貴なオーラを発している。
目クソ、鼻クソが束になろうが、塊になろうが、到底耳クソには敵わないのである。

では、何故、耳クソはそんなにも身分が違うのだろうか?

まず、耳クソをほじる時。
その行動は、「耳掃除」と称される。
「鼻掃除」とか、「目掃除」とは言わない。
ここからして違う。

鼻はほじくるだけ、目は擦るだけである。
誕生の瞬間からして違うのである。

しかも、耳掃除には、綿棒、耳掻きなどの、「専用ツール」が必要となる。
マッチ棒などでは代用不可である。

鼻や目は、使ってもティッシュ一枚である。
器具からして違う。

そして、「耳掃除」は、厳かな儀式である。
ゆっくりと、慎重に、腫れ物に触るように、慈しみながら行われる。
全身は強張り、視線は中空を凝視したまま、表情は恐らく誰もが「一番真剣な顔」をしているはずだ。

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その点、鼻はこうで、
 

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目はこうだ。
 
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何と言っても、耳掃除は他人にしてもらう事が許されることも、大きな違いである。
鼻クソや、目クソは他人に取ってもらうわけにはいかない。

そして、極めつけはもしも「大きい耳クソ」が取れたとき、それを高々と掲げ、他人にさえ自慢出来るということだろう。
大きい鼻クソや、目クソでは、自分一人でニヤリと出来ても、それを他人に見せることは出来ようハズもないのである。

このように、同じ顔周辺の老廃物と言えども、これだけの身分の格差があり、それは生まれる以前から決定しているという事なのである。

それは、人生にも似たところがあるのではないだろうか。
 
 
 
しかし、いくら身分や待遇に違いがあっても、必ず公平に訪れるものがある。
それは「死」である。

それまで歩んできた道は違えども、鼻クソは指で弾かれ、目クソはティッシュと共にゴミ箱へ捨てられる。
あれほど蝶よ花よ耳クソよともてはやされていた耳クソも、ものの数分でその価値を失い、やがて持て余した産みの親によって、指先から「ふっ」と吹き飛ばされ、死を迎える事になるのである。

「生」は平等ではなく、「死」は平等であるということも、人生に似ているのかも知れない。

願わくば、それぞれが己の生き様に悔いなく、天寿を全うしてくれればと願わずにはいられない今日この頃である。

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シヤワセのかたち。

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一品モノは逸品モノである。

そこに、シヤワセが凝縮されている。
 
 
 
いわゆる「お食事処」にて、お互いに自分の食べたいものを選び、

「なんか、一品モノ頼んで突こうか。」となる。

例えば、ラーメン屋さんでのギョーザがそうだ。

大抵、ラーメンよりもギョーザはちょっとだけ早く運ばれてくる。
ハキハキと「ギョーザ、お待たせしましたー。」と言うわりに、まったく愛想の感じられない店員の兄ちゃんがするのを見届けてから、

「食べよっか。」
と、ニコリ。

タレは、醤油と酢・・ラー油入れる?
どんくらい?などと、本来、各自が責任を持って取り掛かるべき食事というある意味孤独な作業に、ひとつの共通の目標に対して一致団結し、結束して事に当たる共同作業の要素を付加してくれるのである。

つまり、食欲を分け合う事での一体感が、シヤワセを生むのである。
それはガー!っというシヤワセではない。
ふんわりと、柔らかい布が降りてくるようなシヤワセである。
それは、頭上に触れて、足の先まで染み込む。

そういう類のシヤワセである。
 
 
 
シヤワセは、そこいらに転がっている。

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二人三脚

ある日のこと、母が「映画を観に行きたい」と言い出した。

夕飯が終わって、どれ、そろそろ片付けようかという頃である。

そこで、止せばいいのに家具職人の姉が、

「わたし、映画のタダ券一枚持ってるよ。」
と言ったのである。

すかさず母は、

「ああ、じゃ、それで観に行こう。」

と決めた。
姉は、『だから一緒に観に行こうか?』というつもりだったらしいのだが、ちょっと誤解を生んだのかと思い、

「でも、コレ、会員じゃないと使えないし、一枚しかないから、タダになるのは一人だけだよ。」

と説明した。
すると母は、

「んで、二人して片目に眼帯着けて行くべ。それで一人分だべ?」

と言う提案を出した。
姉はすぐに

「そんなのダメに決まってるっしょ。」

と、却下する。

「二人とも片耳に耳栓していかないと。」

と言い放ち、計画を完璧なものに仕上げていた。

映画館の受付けの人、気をつけろ。
奴等は本当にやるぞ。

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山南モード

NHKドラマ、「新撰組!」。
昨日は「山南敬助切腹」だったのだ。

堺 雅人さん演じる山南敬介は非常にお気に入りで、「新撰組!」を観たあと数日間は、無意識のうちに「山南モード」が発動してしまう程の影響力があったのである。

「山南モード」とは何か?
では、パソコンの前のあなたも一緒にやってみよう。

まず、背筋を伸ばし、アゴを目一杯引き、眉はキリリと勇ましい形で固定。
目は白目を隠すくらい細く笑み、口はなるべく歯を見せないように気をつけながら、両端をクイッと上げる。

つまり、こうだ。

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そして腕を軽くお腹の前で組んでみてください。

グーッド。
それで、「山南モード」の構えは出来上がりました。

「山南モード」に入ったら、言葉は理路整然と、無駄なく発しなければなりません。
発言の必要がない時はひたすら押し黙り、ちょっとナナメに微笑みながら、全体を眺めます。
直接自分に対して向けられている言葉でなくても、発言者の目を良く見て、深く相槌を打ちます。

「山南モード」発動中は、たとえパチンコ屋の宣伝カーだろうが、右翼の街宣車だろうが、ティッシュ配りのお姉さんだろうが、いちいち相手の目を見て、微笑み、相槌を打たなければなりません。

選挙期間などは、選挙カーに向かって「山南モード」を発動させていると、「熱心な支持者」と勘違いされ、「ご声援ありがとうございます!」と言われる事は間違いなく、結構な確率で候補者が降りてきて、握手を求められる事でしょう。
それでも「山南モード」にある者は、相手の目を良く見て、「●●●君(ここは必ず「君」付けで。)、声が少し下がってきている。君の癖だ。頑張りなさい!」と力強く励まします。

その時、注意しなければならないのは、決して眉と目の形は動かさずに、口だけで喋り、喋り終わったらアゴを引き絞り、相手に説得力を投げつける感じで「ニン!」と微笑むということです。

それによって、相手がどういう印象を持つかは、私の知るところではありませんが、「山南モード」に生きるものは、多少の誤解は常に受けるものであり、逆に言えば、それこそが「山南モード」の意味であるのかもしれません。

山南さんが切腹して果てた今だからこそ、「山南モード」と言う形で山南遺伝子を受け継いだ我々が、山南スピリッツを持ちつづけていかねばならないと、誓いを新たにするのである。

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信号待ち

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車を運転していて、歩行者用信号が点滅から赤に変わったのを確認し、「通り抜けは無理だ。」と判断してアクセルを弛め、次の交差点の信号が黄色に変わったのを見届けて、足をブレーキにかけ、停止線にピタリと車を停止させたその時から、「信号待ち」は始まる。
 
 
信号は、その場所によって待たされる時間はまちまちであるが、大体3分くらいではないだろうか。
3分というと、ただボーっと待つには意外に長く感じられる時間である。
特に急いでいる時などは、殺伐とした気分に陥り、

「何分待たせやがるんじゃあぁぁぁぁぁぁ!!」

と慟哭し、やれ前の車がモタモタしているから引っかかっただの、信号のアクセスが悪いだの、こんな誰も来ない道に信号など要らんだろだの、なんで信号機ってあんなに高いんだろう?だの、様々な方面に内面で当り散らす事になるのである。

そこで、如何にこの「信号待ちタイム」を、ストレス無く、少しでも快適に過ごすかという事に腐心することになるのだ。
 
 
まずは姿勢である。
マニュアル車の場合は、信号待ちというのは実は具合がいい。
カコッとギアをニュートラルに入れ、サイドブレーキをギイ!とかけたら、足を軽く伸ばしてみたり、軽くアグラをかいてみたりして、かなりリラックスした格好になれるのである。

その点オートマティック車はいけない。
とにかく落ち着きの無い彼らは、シフトをドライブに入れている限り、人間が抑えを付けてやらないと、とこまでも突き進もうとする。
だから、信号待ちの間も、どちらかの足は常に抑えに回らなければならないのである。

運転中は何かと忙しいが、信号待ちの間はゆっくりと休めるマニュアル車に対し、オートマティック車は常にどこかが運転に関わっていないといけないメリハリの無さがあるのだ。

もちろん、「パーキング」に入れればゆっくり出来るのだが、そうするためには必ずバックギアを経由してしまうため、後続の車に「あ、前の車、パーキングに入れたな。」と気取られてしまうのである。

別に気取られたからといってどうという事も無いのだが、もし、ずっと後ろについていて、信号待ちのたびにパーキングに入れているとバレたら、「せわしないヤツ・・」と思われかねないのである。
(いや、別に思われても構わないのだが、何か腑に落ちない)
 
 
 
姿勢が決まったら、次は行動である。
目の前を横切るように流れる車や人を観察するのもいい。
右折しようと隙をうかがっているドライバーを観察するのも一興ではあるが、車に乗っている人というのは大概似たような行動をしているので、すぐに飽きる。

かといって、今、青青とく光っている信号を睨みつけ、「早く変わりやがれ!」と念じているのも意味が無いし、これまたすぐ飽きる。

私の場合、信号待ちの間の行動は大きく二つに分かれる。

ひとつは、隣に座る相方(彼女)の手や二の腕をいじる事。
これは理屈ヌキに楽しい。

しかし、相方はいつでもいるわけではないので、そういう時は読書をする事にしている。

私はただ本だけを読むという事はほとんどしない性質で(本だけを読む時間って、なんだかもったいない気がする)、読書というと大体トイレの中か、信号待ち中かくらいであり、それらは貴重な読書タイムなのだ。

その本の内容が面白いところだと、

「ああ、信号に引っかからないかな・・。」

と思ってしまうほどであり、丁度良く目の前に赤になられた時などは、

「長く読める!」

と、得した気分にすらなれるのだ。
 
 
しかし、最近、妙な現象に気付いた。
本を読むのを楽しみに、信号待ちを期待していると、ほとんど信号に引っかからないのである。
不思議なほどに引っかからない。

逆に、本を忘れてきてしまった時などは、大体7割くらいの確率で引っかかり、手持ち無沙汰をみなぎらせながら、虚しくガソリンスタンドでもらったチラシなどを眺める羽目になるのだ。

本当に人生というものは、ままならないものである。

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金メダル。

じゅじゅさんのblog経由金メダル製造マシーンにて作成。

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「ようやった。」

最大級の賛辞である。

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ベロが食えるか!

私の住む宮城県は、牛タンが名物となっている。

結構、数年前まで牛タンって、そんなに騒がれなかった気がするのだけど、ある時期を境に

「仙台といえば牛タン!」

という風潮が急激に出来上がったような気がする。
 
 
 
さておき。

その牛タンが美味しいと全国的に有名な宮城県に住んでいながら、私は牛タンがニガテである。
その理由は、ひとえに

咀嚼しているうちに、どちらのベロなのか分からなくなる。

という事である。

つまり、図で現すとこうだ。

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かといって、
ハラミを食べたからといってシャックリが出るわけでもないし、レバーを食べたからといって肝不全を起すはずもなく、ハツを食べて胸が締め付けられた経験もないし、ハチノスを食べたからって胃炎は起きない。
マメでも腎臓はノープロブレム。
ホルモンでも腸は健やか。
テールスープを飲んでもシッポに影響は無い。
(そもそもシッポは痕跡しかない。あ、前にならあるか。)

では、何故タンはダメなのだろうか。

考えてみるに、それはきっと

自分の舌の歯ざわりを知っているからだろう。

あの、ゴリッと噛んだ時のなんとも言えない歯ごたえと、それとセットになって襲いくる激痛が忘れ得ぬ忌まわしき記憶として脳に刻み込まれていて、それがタンを噛み締めるたびに

「それはベロだ!危ないぞ!」

という危険信号を送り、それを敢えて無視する事によって体の運動機関が微妙に崩れ、本当に自前のベロも噛んでしまうという事態が引き起こされるのだろうと考えられるのだ。

多分、これが私の「牛タンニガテ」のメカニズムの全貌であろう。

こういう考えは、多分、私くらいなものだろうと、ダメ元で周囲に訊いたところ、和裁師の姉も同様の理由で食べられないとのことだった。

ということはつまり、「牛と自分のベロがはっきり識別できない、または自信が無い」と言う理由で牛タンが食べられない人というのは、意外に多いのかも知れないという事に気付き、そのデータを採取すべく信頼の置ける、さる機関(サルの機関ではない。)に調査を依頼し、現在、鋭意調査中であり、その結果が待たれるところである。 
 

牛タンが三度のメシより好き!
という人に問いたい。
 
 

貴方の噛んでいるそのベロは、本当に牛のものですか?

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訃報

昨夜午前1時半頃、我が家の飼い猫「ヒライ・D(デブー)・コウヘイ」が老衰のため死去しました。

13才でした。


13年前といえば、私がまだ中三の頃であり、アイツが生まれたのは当時の私の部屋の2段ベッドの下でした。
それから今日現在に至るまで常に視界の片隅にいたのだから、たとえペットといえども喪失感があるものです。

コウヘイは、早いうちに去勢手術をしたので遺伝子は遺せませんでしたが、とても温和なヤツで、寝る時には何故か股を全開にして寝る癖があり、よくそれを見かけては

「コウヘイちゃんよ、あんまし全開にしてると、キ●タマ日焼けして『チョコボールコウヘイ』になっちまうぞ。」

と、開いている足を閉じてやったり、
たまに足を閉じて寝ていると、

「コウヘイちゃんよ、ちゃんと日に当てとかないと、バイキンが発生するぞ。」

と、閉じている足を開いてやったりもしたものでした。
 
 
 
これで、街に住んでいた頃から共に住んできたペットは、「ハナ(メス15才)」だけとなりました。

コウヘイちゃん、あっちでも元気で、あの独特の鳴き声

「は~~~おん?は~~~おん?」

を響かせておくれ。

また会おう。

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ポンポコポ~ン?

相方(彼女)と、お好み焼き屋さんに行った時のこと。

私は普通のお好み焼き「ミックス」を焼き、相方は「大吉」という名のモチやら辛子明太子やらが入ったお好み焼きを作って、お互いに分け合いながらハッフハッフ食べていた。

店内は私たちが入った時はガラガラだったのだが、焼いているうちにいつの間にやら次々とお客さんが入ってきた。

お好み焼きは大変美味しく、焼くのも楽しい。
来て良かったなあ~・・と思っていた。

・・がしかし。

先ほどからどうにも気にかかる事がひとつだけあった。

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「・・・あのさ、さっきからここの店員さんって、語尾に『ポンポコポ~ン』って付けてるよね・・。」

たまりかねた相方が、切り出した。

「ああ、俺も気になってはいたんだけどね。」

「・・・」

黙々とお好み焼きを食べる二人。


「お客様ご案内しました~!ポンポコポ~ン!」

ウケ狙いなのか・・?

「了解しました~!ポンポコポ~ン!」

真面目にやっているのか・・?
 
 
 
 
笑って良いものか判断をつけかね、結局「流す」ことに落ち着いたのだが・・。

「ありがとうございました~!ポンポコポ~ン!」

その意図するところが分からず、気になって仕方が無いのであった。ポンポコポ~ン。

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塩ニンニクの恐怖

Akkeyさんのblog:「かっぱえびせん 中野の都こんぶ味」の記事を読んでいて、かつて味わった「かっぱえびせん」にまつわる恐怖体験を思い出した。
 
 
 

ある日のこと。
私はコンビニにて「かっぱえびせん~塩ニンニク味~」なる物を見かけた。
近頃、相方の影響か、目新しいものを買ってみるという行動を覚えた私は、さっそく購入し、家に持ち帰った。

その日の夜。
さっそく開封し、食べてみる。

「あ、美味い!」

強烈なニンニクの風味にすっかり魅了され、「ンマンマ」とボリボリ食べていた。
しかし、スナック菓子で、しかもニンニクに塩も入っている。
程なくノドはカラカラになった。

「美味いなあ。でも、のどが渇いた。そうだ。たまにはビールを飲もう。」

と、冷蔵庫からビールを取り出し、「プシ!」と栓を開け、ごっきゅごっきゅ飲みだした。

「っかー!う、美味い!」

塩ニンニクとビールのなんと合うことか。
涙目になるほど美味かった。

それから、いい調子でボリボリゴキュゴキュと繰り返していたその時。
突如として私の胃腸に異変が起こったのだった。

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「あはあ・・・!?」

意味不明の叫び声とともに、トイレに駆け込む私。

便座にオシリをめり込ませながらようやく自分の冒していた愚をさとった。
 
 
 
もともと、あまり強くない胃の持ち主であり、普段から刺激物などほとんど摂らない大豆系主体の食生活。
そこへある日突然、ニンニクをブチ込み、おまけに普段ほとんど飲まないビールまで流し込んだのである。

「コラ、脳みそ!トチ狂ったか!?」

と、胃腸の猛然たる抗議を受けるのは当然のことであった。

誤解の無いように言っておくが、「かっぱえびせん~塩ニンニク味~」は大変美味しい。
ニンニク好きの相方に紹介してみたところ、

「私、コレ好きー。」

といっていたことからも分かるとおりである。


おそらく、えびせんに付着しているニンニクごときに敗北する私の胃腸のほうがおかしいのだろう。

その日から、たまに「塩ニンニク」を買ってはいるが、一度に大量に食べず、10本くらいずつチョボチョボ食べるという、おじいちゃんのような楽しみ方をしている。
もちろん、ビールなどは間違っても一緒に飲まない。

胃弱というのは、実に爽快感に欠けるものだと人知れず枕を濡らした事は言うまでも無い。

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うらやますい。

じゅじゅさんのblogを見て、腹の底から出た言葉。

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俺なら、描かれても、イイ。

はぐはぐ。


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何人たりとも

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「なん人たりとも、オラの前は走らせねえ!」

というのは赤木軍馬(六田登:「F」)の名台詞であるが、私もハーボットを見かけると、

「なん人たりとも、オラの前は走らせねえ!」

と叫びながら、ついつい「ハーボカート」のタイムアタックに挑戦し、チョコンと初級コースのコースレコードを残して立ち去ってゆくのである。(イヤな奴かなあ・・)

今まで、

( || 翠*茶 || ) さん、

「喫茶去~きっさこ~」 さん、

「花が咲くまで」 さんのハーボットに記録を残している。

特に「花が咲くまで」さんの管理人さんのさくらさんは、「誰か、私の記録を塗り替えてごらんなさい。ホホホ」という旨のエントリーがあったため(一部若干の脚色アリ)、気合いを入れて塗り替えたところ、「優勝はしちゃダメー!」という理不尽なコメントを頂き、思わずパソコンの前でガッツポーズを取った次第であります。
 
 
 
そもそも私とカートとは浅からぬ因縁があり、10年程前、スーパーファミコンの「マリオカート」というゲームで兄とガチンコ勝負を演じていた熱い時期があって、その時の記憶が私の中に「カート=負けちゃならねえ。」という意識が刷り込まれたのかも知れないのである。

違うかもしれないが。

ハーボカートは、単純なシステムながら、タイムを削ろうと思ったら「スローイン、ファストアウト」を駆使しなければならず、シビアなグリップ走行が要求される意外に奥が深いゲームであると思う。

また、どこかでハーボットを見かけたらこのセリフとともにタイムアタックをしたいと思います。

「なん人たりとも、オラの前は走らせねえ!」

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漢(おとこ)なら

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ああ、観たとも。
「ラストサムライ」。

サムライはカッコイイ。
日本人の血が騒ぐ。

でも、信条や、矜持のために死ぬというのはどうだろう?と思ってしまう。
謗りを投げつけられようが、後ろ指指されようが、汚れても、惨めでも、自分の出来る事を懸命にやり、死ぬまで生きる人間の方がずっとカッコイイと思う。

そんなことを考えながらも、「ラストサムライ」劇中、サムライ達の美学を貫いた最期には感涙してたりする。

結局のところ、「美学」を持って生きる人間は美しいという事なのだろう。

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港で君と

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相方と、近くのコンビニでお菓子と、肉まんを買い込んで、もっしもっし食べながら、港にクルマを停めて、車に付いているテレビで高校野球を観る。

今日は我が県代表の東北高校の試合があったのだ。

息詰まるような熱戦ではあったが、結局見事な逆転負け。
前の大会もそうだったけど、東北高校って、いちいち劇的な負け方をするから、本当に観ていて悔しい。

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相方の友。

昨日の事。
いつものように仕事をこなすため、厨房に向かったところ、母が私の姿を見てこう言った。

「あれ?あんた、今、彼女来てるんじゃないの?」

はあ??

私のウチは山深いところにあって、バスの通りもほとんど無く、来るためにはマイカーが要るという素晴らしい立地にあるため、クルマやバイクの免許を持たない相方は来られるはずもないのである。

「喫茶スペースに入ったみたいだよ。行ってみな!」

と言われたので、一応そちらに向かうことにする。

カラカラカラ・・。

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いた。

どうやら、高校時代の同級生二人と久しぶりに会って、ウチに遊びに来たらしい。

挨拶がてら、相方に

「君は、いつも突然来るねえ。」

と言ったところ、

「嬉しいくせに、素直じゃないなあ。」

と返される。

「うん。嬉しいよお。」

と、軽くバカップルっぷりを見せ付けて、しばらくお話する事にした。
 
 
  


友達二人のうち、一人は以前にも面識があった。

ウノさん。
2年前、初めて相方(当時はメール友達)がうちに来た時に、乗せてきてもらった人がこの方だった。
確か、美術品の修復とかを生業としていて、実に物知りで、好奇心に満ち溢れているお人である印象を受けた。

「ウノさん、以前にも来られましたよねえ?お久しぶりです。」

「わあ。覚えててくれたんですかあ?お久しぶりです。トシさん、前よりも、ちょっとカッコよくなったんじゃないですかあ?」

「うははははは!そうですか!?よく言われますう!」

音速で有頂天に駆け上る私。

ウノさん、いい人確定。

そこですかさず相方が

「コイツ(寿)はね、おだてるとすぐに自分の事「俺って男前~。」とか言い始めるから、言わない方がいいよ。」

と注釈を入れる。

「・・・」

沈黙を含んで、咎めるような視線を相方に送ってみた。

「何さ。(怒)」

「いえ・・。」

軽く敗北。
 
 
 


もう一人の方は初めましての方で、タナカさん。
歯科技工士の修行中で、なんでも、昔、1円玉台のケーキ(1ホールのアレだと思う)を作ったこともあるそうで、手先の器用さは大変なものであり、昔ライターもされていたとのことで、文章力も高いらしいのだ。

この人に頼めば、奥歯をカリッとした時に青酸カリが出るように細工してもらう事も不可能ではないかも知れないと、かなりの期待を抱いたが、考えてみると食事中に誤ってカリッとやってしまうと、もしかすると死んでしまうかも知れないので、「子供風邪シロップ」にしておこうと、密かに心に決めたのはココだけの秘密である。


そして相方。

相方の素晴らしさは、過去に何度もココに書いているので、割愛させていただく。
(ええ。ノロけですが何か?)

結構、こういうところに住んでいると、同年代の人間と交流する機会と言うものは無いもので、新鮮な刺激と、勉強をさせていただいた。
相方には感謝したい。

ウノさんと、タナカさんには、また是非遊びに来て欲しいものである。

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戦う女性はカッコイイ。

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夕飯時。

なんとなくテレビを観ていたら、アテネオリンピック、女子ホッケー「日本×中国」が映っていた。

あまりお目にかからない競技なので、しばらく観ていたのだけど、アレは良い。
何って、ユニフォームが。
思わず描きたくなって、メモっておきましたとも。


ラクロスと、サッカーのユニフォームをを混ぜたような感じで、スッキリしていて凛々しくて、ステキ。

残念ながら試合は3-0で負けてしまったようだが、戦う女性はカッコイイ。
いや、勿論、戦わない女性も好きですが。

何のこっちゃ。

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痛みは無い方がいい。

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私も、痛みには滅法弱い。


たとえば、トイレから出た時に、足元にあった木片(何故そこにあったのかは謎。入る前は無かった。)に、足の小指と薬指をまとめて「グシッ」とぶつけ、痛みが脳天を灼き、

「っぎゃあああああああ!!!!折れた!折れた!!足が!」

と、倒置法とかそういうのを自然に使いながらのた打ち回り、そこに木片を置いた人間に、何かしらの災いが降りかかりますように・・と、呪いをかけながらラマーズ呼吸法で痛みに耐えてみたり。


たとえば、食事中。
犬歯で口の内側を「ゴリッ」と噛み抜いてしまい、無言で口を押さえ、この試練を与えた神に無言の抗議としてハンガーストライキ(痛くて食えないだけ。しかも、直前まで食ってた。)を決行してみたり。


たとえば、紙で「ピッ」と指を切った時。
呆然と指の切れ目を眺めて、

「いてええええええええ!!!!切った!切った!いや、むしろ斬られた!!!」

などと叫びつつ家中に如何に自分が重症で、可哀相かという事を喧伝して回り、それから座って、傷口を「ムリッ」と広げてみて、血が出てくるのを見届けてから、

「うぎゃああああああ!!!!ちちちちちちちちち血が出たああああ!!!平井二等兵負傷!衛生兵!衛生兵~~~!!!」

「うるさい!!!」

と、叱られるまでそのは続くのだ。


そして、突然の不幸に見舞われた指ちゃんを慰めながら、万全の処置を施し、

「もう・・今日はダメだ・・」

とばかりに、寝込まんばかりの落胆で、その一日を耐えるというのが常になっている。

まあ、そうやって大袈裟に痛がる私も悪いのだけど、ウチの女衆どもも、

「あんた、バカじゃないの!そんな痛くないっつの!ボケ!」とか、

「情けないヤツだねえ!そんなの怪我にウチに入らないの!アホ!」とか、

「みんなが納得できるくらいの怪我にしてやっから、こっち来い!ほれ!」とか、

本当に、この人たちは、持って生まれたはずの優しさを、どこに置き忘れてきてしまったの?
というくらいの罵詈雑言を浴びせ掛け、肉体だけでなく、私の心にまで絶えぬ生傷を付けてくるのである。


「あら、大丈夫?手当てしたげるから。おいでー。」

と言ってくれるのは相方だけである。
その度に、相方に対する愛情が増大するのだが、それはまた別の話。
 
 
 
とにかく、痛いものは痛いのだ。
女性と違って、痛みは付き物ではないし、血も見慣れてはいないのだから、ある程度大騒ぎするのは大目に見てもらいたい。

ダメだろうか・・。


じゅじゅさんのblog「小指が痛い・・・」へのトラックバックです。

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歌の神様が降りてきて困る。

昨日、とある地下鉄駅のバスの停留所にて、二人組みのギターデュオに出くわした。

考えてみると、こういったいわゆる「ストリートミュージシャン」と呼ばれる人たちを間近に見るのは初めてで、思わず足を止めて観察していた。

恐らく、歌っているのはオリジナルではないかと思う。

青春時代の、淡い恋やら、君を守るのがどうとか、そういうものだったと思う。

エエなあ。
オッチャンもなー。
そういう恋とかを信じていた頃があったなあ。

今でも「純粋な恋心」は持っているけどなー。
それはツライ現実に対抗するためのささやかで脆い心の皮膜になってしまったわ・・。

せめて、歌の中だけでも、そういう世界があっていいよな・・。


などと、意味不明の考え事をしているうちに、なにやらふたつの視線に気付いた。
それは、ギターデュオのもので、どうやら目の前でボーっとしている様が、歌に聴き入っているように見えたらしく、私に向かって集中的にメッセージ(歌)を投げかけているようだった。

ふむ。
そうかそうか。

実は、歌そのものは別に感じるところは無かったのだけど(ごめんなさい。たまたま趣味が合わなかっただけでしょう。)、君たちはきっと、「歌の神様」に愛されているのだろうね。

私も実は、しょっちゅう「歌の神様」からの一方的な贈り物が届いて困っているのだ。

たとえば、探し物をしている時。

♪小弓~、小弓はどこかいな~~♪

とか、
道に迷った時などにも降りてくる。

♪ボクの~進むべき道が~見えない~、だけど~進むんだ~♪


ある意味、「歌の神様」は要らないものを私に押し付けているのではないか?と思ってしまうくらい、どーでもいい歌がどんどん湧いてくる。

昨日も、朝から「歌の神様」に押し付けられた歌が、頭の中でぐるぐる回っていた。

その歌というのが、

♪カンビヤッソ、カンビヤッソ、ペペロンチーノ~♪

というもので、
ペペロンチーノはともかく、「カンビヤッソ」という単語が何を意味するのか全然分からないのである。

ああ、そういえば、せっかくしばらくその歌が頭から離れていたのに、また思い出して、頭の中をぐるぐる回り始めたよ・・。

♪カンビヤッソ、カンビヤッソ、ペペロンチ~ノ~♪

こちらに、ひたすら視線を注ぎ込みながら歌うギターデュオ。、
頭の中で♪カンビヤッソがぐるぐる回る私。

こうして、仙台の夜は更けてゆく。
(え?どういう締めだ・・?)

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光の雫が落ちる夜は

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昨夜は、星空を見ていた。

ペルセウス座流星群を観るためである。


私の住んでいるところは、街の光の届かない山の中で、半径300m圏内に民家も無いため、星空だけは良く見えるのである。


日中は30℃を越える猛暑ではあるが、夜になると途端に冷え込む山の中。
毛布に包まって、窓を開け放ち、部屋の電気を全て消して、にじり寄る眠気を必死に振り払いながら、流星が来るのを待っていた。

宇宙が透けて見える夜空には、少しだけ白い雲が出ていて、たまにそれが空を覆ってしまい、観られるだろうかと少しだけ不安に思ったが、とにかく待つことにする。

・・・(10分経過)

来ない。

・・・(20分経過)

・・来ない・・・っていうか眠い。

うつらうつらとし始めた、その時だった。


ギラリ!


夜空から、光の雫が落っこちた。

「おおー!?おおー!?」

眠気が一気に醒めた。

以前、しし座流星群は観たことはあったのだけど、あれは細い線がチロリと流れるものだったのに対し、今回のペルセウス座流星群は、かなりデカい光の玉が、ボトリと落ちる感じで、一瞬ではあるが、眩しささえ感じるほどであった。

あまりに大きすぎて、その後に地響きがあって、津波が押し寄せてくるのではないかと要らぬ心配をしたほどである。

その後も、いくつかの流星が、ボトリと落ちたり、頭上を横切ったり、とにかく光り、走ってゆく。


ここからどれだけの距離にあるのかは分からないが、とんでもなく離れたところにあるのは間違いなく、それでもあれだけ早く流れるというのは、とんでもない速度なのだろうと、ひたすらに感心させられてしまった。

あまりに早くて、生憎願い事は出来なかったが、あんなにも美しい光景が見られたという事に満足し、感謝したいと思った。


ペルセウス座流星群は、まだ何日か見られるらしい。
天気の具合にもよるだろうが、あれは一見の価値があると思う。

皆さんも、お時間があれば、是非観てみてくださいませ。

喫茶去「星に願いを」にも、ペルセウス座流星群についての話題があります。
是非、そちらもどうぞ。

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食文化の違い

文化について、もっとも身近にその相違を感じるところがあるとしたら、それは間違いなく「食の文化」ではないだろうか。

相方(彼女)とは、よく食べ物についての話をするのだが、その度に驚かされる事が多い。

食べ物の好みからしても、相方は、ニンニクやニラや、辛い物など、刺激物好きであるのに対し、私は炭水化物、または大豆食品が好みの中心となっているのだ。

それだけでなく、今まで暮らしていた地域による食文化の違いも著しい。
何故ならば、相方は名古屋に長いこと住んでいて、食文化も、どちらかというと関西に近いからなのだ。


ある日のこと。
いつものように車に乗り、食べ物についての話になった。

「サチってさあ。お好み焼きとか、タコ焼きとかオカズにゴハン食べるの?」

「うん。食べるねえ。」

「うそお!マジで!?」

「えー?普通に食べるよ。」

「普通、タコヤキならタコヤキのみ、お好み焼きならお好み焼きだけだろー?炭水化物だぞ?チャーハンオカズにご飯食べるようなもんだぞ。」

「美味しいんだから、いいじゃないスか。」

「まあ~、そりゃあそうだけどねえ。」

お決まりの会話ではある。


私は、タコヤキもお好み焼きも、それそのものがオカズであり主食である。
それだけをもっしもっし食べる。
つまり、ナンバーワンよりもオンリーワンなのだ。


それはまだ良かった。
問題は次である。

納豆。

関西の食文化では、あまり納豆は食されないそうだ。
私は、北海道生まれの宮城育ちであるから、当然納豆は大好きであり、むしろ納豆が無いと一日は始まらないだろうと信じてさえいるほどである。

納豆については皆さんもそれぞれ「自己流の作り方、またはこだわり」があるのではないかと思う。

ちなみに、私は、次の調理法が一番美味しいと思っている。

鉢の中に、納豆のみを投入。

レンゲにて、充分に糸(ナットウキナーゼとかそういうの)が出るまでひたすら練る。

刻んだネギを投入。
(太ネギより、小ネギの方が好み)

レンゲにて、充分に糸(ナットウキナーゼとかそういうの)が出るまでひたすら練る。

生卵を一個投入。

レンゲにて、充分に糸(ナットウキナーゼとかそういうの)が出るまでひたすら練る。

醤油を入れながら良く練り、出来上がり。

納豆に生卵を入れることにより、完全食品にさえなってしまうという、まさに完全無欠の調理法なのである。

それはさておき。

もし、私の大好きな納豆が、関西のエッセンスのやや強い相方が

「っていうかー、こんなの食えないっつーか、ありえないみたいな。ゲロキモいー。」
と、やや死語を含めて言われてしまったらどうしようと危惧の念を覚えた。

たかが納豆とは言え、そのささいな隔たりが、我々の唇歯の交わりとも呼べる密度の濃い絆に、大きな亀裂を穿つことも十分考えられる事であり、焦燥の念は胸から溢れ、ついには恐る恐る祈るような気持ちで問うてみた。


「・・・サチさあ。納豆って食べられる?」

「うん。食べるねえ。」

おお!良かった。

「ウチの家族はみんなダメなんだけど、私だけ、昔、仙台にいた時に給食で食べて、普通に食べられるようになったよ。」

「へえ~。なるほどね。んで、納豆には何入れて食べるの?」

「う~ん・・カラシとかだねえ。」

「カラシって、よく付いてるけど、美味いの?アレ。」

「美味しいよ~。」

「ふーん。んで、それをゴハンにぶっかけて。」

「え?ゴハンにはかけないよ。」


なな、なにいい???
ゴハンにかけないですと????

このカルチャーギャップには参った。
まさか、この世に「納豆をゴハンにかけずに食べる人」がいようとは。
私も、まさに井の中の蛙。
世間には、まだまだ見知らぬ豪傑がひしめいているのですね。

と、感心せずにはいられなかった。

「ゴハンにかけないのか!!?普通、かけるだろ~??」

「かけないよ。食べづらくなるし。」

「ええ~!?あの、ゴハンと一緒にかき込むのがいいんじゃねえの!」

「う~ん・・。」

「こう、ズゾゾ~!ガフガフってさあ!」

「・・・」

「ズビズバー!って!!」

「だー!もう!分かったから!ゴハンにかけて食べればいいんでしょ!」

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「・・・あのさ。・・・今までの熱弁はなんだったの?」

「ん?なんとなく。・・・ノリ?」

「もうエエわ・・。」

それ以来、しばらく相方は口を利いてくれませんでした。


このように、食文化ひとつ採ってみても、その関係に微妙に影響する危険性を秘めているという事であり、お互いの理解と、歩み寄りが、それを埋める唯一の手段なのではないかと考えさせられました。

・・はい。
カルチャーギャップが原因ではありませんね。
ちゃんと謝りましたから・・。

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間違い探し

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上の絵には間違いがあります。
それはどこでしょう?


とうしても分からない方は、こちらに答えがあります。

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聴かせるアイツ

定休日の朝は、いつもよりちょっとだけ遅く起きる。

今日も、その「ちょっとだけ」を十分に楽しむべく、まどろみの中に居座って、ベッドの上をゴロゴロと転がっていた。

窓の外からは、早起きのセミが自慢のノドを鳴らして、交尾の相手を探している。
彼らは、なにしろ交尾できる時間が短いから、遺伝子を遺すために今が必死の時なのだろう。
まあ、人間だって、結局は自分の遺伝子を遺すために生まれ、交尾して、死ぬだけの、言わば「遺伝子の乗り物」に過ぎないのだから、とどのつまり、セミも人間も大差は無いってことなんだろうな・・。

などと、まどろみながら意味不明の考え事をしていると、ある「異音」が耳に滲みこんできた。

それは、同じくセミの声なのだが、
普通のセミは

「み~~~~んみんみんみんみんみ~~~・・ん」

である。
これが言わばオーソドックスサウンドだ。

しかし、そのセミだけは何故か、

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と、鳴いているのだ。

明らかに、他のセミと一線を画している。
独自路線を行っているのだ。
まるで、「大人達に敷かれた、目の前のレールに乗るのはまっぴらだ!」と言わんばかりの主張が見て取れる。
一度あのサウンドを耳にしてしまうと、今までの伝統にのっとったセミの鳴き方のなんとつまらないことか。
きっと、「ちょっとハミ出した、危険な男の香りのするオス」に惹かれるメスは、こぞって彼のもとに集まるだろう。
セミじゃなくても、お前のその生き方・・・嫌いじゃないぜ・・・。

と、感じ入っていた。


そのセミは、いよいよ興に乗ったらしく、さらにグルーブを効かせ、歌い上げる。

「み~~~ん・み・み・みんみ・み!み・み・み・み~~~んみ~~~~・んみ!」

・・・

「み・み・み・み・み~~んみ~~・んみ・んみ・んみ・みみみみみ~~んみ!」

・・・

「み~~みみみみ!みん~~みみ・み・みみ・みみみみみ~ん!」
 
 
 
 

うるせえな。

普通のセミの鳴き声なら、「夏のBGM」としてさほど気にかけることもないのだが、こうも己の存在を主張されると、非常に気になり、鬱陶しく、頭に来る。
やはり、伝統を重んじた鳴き声というのは、それだけ世間との調和を考えているからこその伝統であり、考えてみると、「ハミだし者・ツッパリ」というものがモテるのは、よくて高校生くらいまでであり、社会に出れば、結局のところ、「安定したオス」の方がモテるのである。
全部が全部とは言わないが、大半がそうだ。

だから、セミよ、お前が己の才能を信じ、その道を歩み続ける覚悟があるなら、それでいい。
たとえ、一度も交尾する事無く、遺伝子が絶えても、その存在は語り継がれ、セミゼミの記憶に永く生きつづける事だろう。

つまり、「転がる石(ローリングストーン)」だ。
「転がる石にコケは生さない」だ。

そういうお前の生き様を、俺は応援・・・

「・・・み~~~んみんみんみんみんみ~~~~ん」


あああ・・・!!!あの野郎、ノーマルに戻しやがった!!!!

結局、あの魂の篭ったパフォーマンスは、所詮、「若気の至り」であったという事であり、あのセミも、「ハミ出してやっていけるセミは、自分とは違うセミ種なんだ」という事に気付き、同時に己の限界にも気付いたようだ。
つまり、盗んだバイクで走り出すような、夜の校舎窓ガラス壊して回るような類の、「ささやかな反骨」だったのである。

さすが、セミは己の過ちに気付くのも早い。
いや、逆に人間がゆっくり過ぎるのかも分からんが。

あのセミが、無事、交尾に成功し、子孫を、遺伝子を遺せるように願って止まない。

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暑さに任せて

しかし今年はなんという猛暑であろうか。

まさに、ヘソで茶が沸くくらいの酷暑であり、片腹痛い程の熱波ですか?

聞いてどうする。


私の住む宮城県は、「やませ」などの季節風の影響で、結構夏は涼しい地方なのだ。
まあ、その代わり、景気も本州で一番冷え込んでいるらしいのだが。

うはははは。

笑い事ではない。
マジで。


しかし、今年は暑い。
昼間など、汗を拭うのも諦めるほどの蒸しっぷり。
汗疹もヒドイ。

何故か、ヘソの横と、膝小僧に汗疹が集中的に出来ていて、痒い痒い。

それと、坊主。
これをやれば涼しいのではないかと思っていたのだが、とんでもなかった。
何しろ日光から守るものがないのだ。
俺たちには、失うものも守るものも無いんだ・・。

と、頭皮が勝手に背水の陣を敷いてしまい、抗議したいのだが、元の元は私が思いつきで坊主にしたのが原因であり、ブショウヒゲが生えてきて、放っておいたらチンピラのようなパーツ構成になってしまって、しかし、生来の顔立ちの良さと、品性がその方向性に意義を唱え、相方が相まって絶妙の中途半端さ加減を生み出し、結局、坊主は失敗だったな・・と悔やむと同時に、髪はすぐに伸びないのでヒゲをコマメに剃るという事態に追い込まれてしまった。


まあ、そんなことはどうでもいい。

暑いのだ。
とにかく暑いのだ。

厚いといっても、せいぜい32℃とかそんなモンなんで、首都圏や、西の地方の人方に怒られそうなのだが、もともと仙台は、一夏のうち、2~3回30℃オーバーがあればいいくらいの気候であり、それが今年はもう20回くらい30℃オーバーしているのですよ。

寒さとは仲良くするつもりは無く、厚さに弱い東北人としては、まさに寿命が縮まんばかりの異常気象なのです。

もしかして、名古屋女の相方が、この暑さを持ってきたのではないかと疑いを抱いてしまうほどの暑さなのだが、それを言わぬが華なので、この胸の中にそっとしまっておく。


しかし、こうも暑いと、ホント、日中で体力を使い果たし、夜なんかはクタクタで、とてもblogの更新など出来る状態ではないのです。

文章もグダグダになるし、長文なんてもってのほかなのです。


左手が、「描きたくない」と言っているので、今日は右手さんに描いていただきました。
このグダグダ加減が、溶けそうなくらいの暑さを非常によく表現できていると思います

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グダグダですみません・・。

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私の見た「七夕」

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今日は8月7日。
昨日、今日、明日と、全国的にも有名な、「仙台七夕」が、仙台駅西口のアーケードなどで盛大に催されている。

仙台七夕というと、毎年不思議なくらい雨に見舞われていたのだけど、今年はどうも流れが変わったらしく、天気がとても好いみたいなのだ。

宮城に住んで、もう四半世紀になるが、実は仙台七夕を観に行ったのは過去に二度くらいしかなかった。
小学生の頃に一度、中学生の頃に一度。
それ以降は、とにかくあの人ごみが嫌で、近づきさえしなかったのである。

今年は相方がいるので、ちょっくらデートがてら行こうかなあ~・・と思っていたのだけど、都合が付かなくて結局行けなさそうで諦めていたのだ。
しかし、夕方になって急に都合がついたので、急いで相方に電話したのだが、

「え?寿さん、行けないって言うから、あたし、一人で行ってきちゃったよ。」

ええ~!
なんというタイミングの悪さ。

それでも、一緒に行ってくれると言われたのだが、なんだか2度も行かせるのも悪いし、こっちの行く気もすっかり萎えてしまったので、グダグダ迷った末に何故か私が渋々行くという具合になってしまい、相方には本当に悪い事をしたと反省しきりな出だしだったのだ。


実に久しぶりに来た七夕は、前回(15年くらい前)と比べると、当然だが大規模になっていて、人出も多かった。
8月の夏の空気は、独特の湿気を含んで全身まとわりつき、道端で少年達が食べているヤキソバの匂いが鼻についた。

歩行者天国となった常禅寺通りのパレードでは、様々な出し物が演じられ、ギンギラギンの織姫と彦星がぎこちなく
舞っている。
多分、バレエか何かの踊り手さんだと思うのだけど、音が反響する街中では踊りづらいだろうなあ・・とか、ああいうところで踊るってのはどういう気持ちなんだろう?などと思いつつも、すっかり気分は七夕になっていた。

アーケードの中は、とにかく人、ひと、ヒト。
光のチューブの中を人の濁流がゆっくりと動いていて、そこに垂れ下がる柳のように、七夕飾りがくるくる回っていた。

浴衣姿の女性は、風雅な歩き方を披露する余裕も無く、大股で闊歩し、色黒の兄ちゃんは「だりい~・・」と言わんばかりの表情でダラダラ歩く。
子供は、こういう場でなければ、絶対に手にしないであろう意味不明のオモチャ(何故かビカビカ光るモノが多い。)を手に、顔を紅潮させている。
その親御さんは、子供たちを必死にまとめながら、七夕飾りを盗み見し、お年寄りは、飾りを見るか、ぶつからないように歩くかの二者択一を常に迫られていた。

ところどころで、流れを分ける杭のように、商人達がこの機を逃すまいと、呼び込みに奮闘していて、両端には出店が並び、流れる人に手を伸ばしている。

人は沢山いるけど、立ち止まれない雰囲気が充満していて、出店はボチボチ人がついていたけど、そうでない普通の店はいたって空いていて、店員さんが目の前を流れる大群を眺めていた。

それにまぎれて、キリスト教の布教活動も行われていた。
高いカンバンをもった信者の方が、飾りを次々になぎ倒し、店の人に捕まって怒られていた。
事の顛末を見物していようかと思ったが、悪趣味なのでやめる。


アーケードから外れたところでは、テキ屋さんが出店を出していて、ヤキソバ、タコヤキ、リンゴ飴、チョコバナナなど、定番の品物が並んでいるのだが、こちらもあまり買っている人は見受けられない。
通ったのが20時過ぎだったので、もう、ピークは過ぎていたのかも知れないが。

歩道の反対側では、若いカップルが座り込んで、疲れ果てた表情で、ひとつふたつ、会話を交わしている。

七夕の一日目の喧騒は、収束に向かっているようで、私たちも、途中でお茶を飲んだ以外は祭りの空気を満喫したくらいにして、早々に引き上げてきた。

「非日常」に、自発的に赴くのは久しぶりであったが、これはこれで楽しく、発見も沢山あった。
今年は、例年以上に人出が多いそうだ。

このまま好天で、事故や事件も無く盛況のままに終わってくれればいいな。
と思う。


七夕は楽しかった。
でも・・疲れた~・・!

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地下鉄に揺られて

今、宮城県で開催されている、「仙台七夕」を相方と連れ立って見物しに行ってきた。

そこで久しぶりに地下鉄に乗ったのだが、乗り込んだ駅というものが、地下鉄のクセに地上、それもちょっとだけ高いところにあって、発車して地下に潜るまでの間、街の風景を見ることが出来るのだ。

滅多に乗ることの無い電車(地下鉄だが)。
私は、正直もっと風景を堪能したかった。

許されるなら、「子供乗り」をしたいくらいだったのだ。

という事を、以前、相方に相談したら、

「いいよ。やんなよ。ちゃんと、

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ってしたげるから。」

と言われて、

コイツは本気でやる。

と思ったので止めときました。


しかし、もう一度、一度でいいから、「子供乗り」で、思う存分風景を堪能してみたいものである。

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私の見た「パチンコ依存症」

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けたたましい騒音と、肺を満たし、煙たがるのもバカらしいようなタバコの煙幕の中、私はパチスロ台に向かい、ひたすらコインを投入し、ボタンを叩き続ける。

目の前に、3つの「7」が揃い、コインが吐き出される。

「おう、来た来た!」

当たりを得た安堵感と、出玉への興奮で、目眩すら覚えるような快感が全身を包む。
周りの当たっていない人間への優越感。
勝利への期待。
現在の投資額と、期待値の計算。

そこで「は!」と気付く。

「ああ・・!打ってしまった!パチンコは止めると決めたのに!何やってんだ!俺!」

そんな嘆きをよそに、吐き出されるコインを掻き出す手。
やはり、パチンコを止めるなんて、無理だったのか・・。
なんともいえない無力感に苛まれ、途方も無い脱力感を覚えたその時・・・。


真夜中のベッドで目覚める。

はあああ~~~~・・・!
安堵のため息。

夢か!
良かった・・。
俺はもう、打ってない。

パチンコをスッパリ止めて、1~2ヶ月の間、ひどい時はほぼ毎日。この夢に悩まされた。
長年、脳みそに刻み込まれたパチンコの快感が、突然断ち切られたその快楽を求めているのだ。
その度に、自分は「パチンコ依存症」なんだと思い知らされた。

「パチンコは麻薬」。

という言葉がある。

まさにその通りだ。


特に、昨今のパチンコ(パチスロも含む)は、その中毒性が問題視されている。
表面化こそしていないが、それはパチンコメーカーや、パチンコ屋、などがほとんどのマスメディアのスポンサーとなり、パチンコに対して不利な情報を規制しているからであり、そして、その黒幕である警察組織が、その権力にまかせて様々な問題を握りつぶしているからなのである。


パチンコに関しての害悪は、過去にも書いたのでそちらを見ていただくとして(私が止めた直後の記事なので、今とは異なる点があるかも知れません。)、今回の記事は、tipo さんのコメントから考えたネタであり、tipo さんの疑問に、私なりに答えようと思ったからなのです。

一つ目の、

商売としてやっている以上店側に儲けが出るようになっている=たいがいのお客は損をしているという公式は成り立たないのでしょうか?

ですが、多分、パチンコにハマっている人は、大体の方がこれを承知で行ってていると思うのです。
実際、私もそうでしたから。
でも、その中にいる時というのは、本当に真面目にこう思ってしまうのです。

「自分だけは勝てるはずだ。」

まあ、これは「負ける人」の思い込みで、パチンコの場合、やりようによっては勝てますから、そう言う人は、「自分は勝ち方を知っているから、稼ぎにゆくんだ。」となる。

パチンコで勝てる人というのは、ほぼ毎日ホールに行きますし(打つ打たないは別として)、口癖のように「自分はいつでも止められる」と言いますが、こういう事を言っている時点で、「『いつでも出来る』は、『いつまでも出来ない』と同じである」という言葉通り、すでに「依存症」なのではないかと思う。


競馬や競艇は予想して当たるのが面白いのかなぁと少しは理解出来るのですが、パチンコは何処に魅力があるのか分からないです。


パチンコの魅力はですね。
数年前と、最近では大分違っているような気がします。

数年前のはもう、論じても意味が無いので省略しますが、現在のパチンコの魅力は、「脳みその快感物質が出る蛇口に直接手をかけ、ひねり出す感じ」だと思う。

要するに、

当たりそうな演出を目一杯引き伸ばし、
「ああ!当たるかも!当たるかも!当たるよ!当たる!もうちょっと!う~~~~!惜しい!(or当たる。)」
という、期待感の持続と、

早々に当たりを確定させ、その間の演出を引き伸ばして、
「おめでとうございます。大当たり確定です。大当たりまでの間の時間を存分にお楽しみください。」
という、優越感と、快感の長期化を図る事により、同じ一回の当たりでも、その快感が脳に刻み込まれやすいように巧みに計算されて演出されているのだと思う。

そして、当たると盛大に賞賛の嵐をくれて、ものすごい電飾ビガビガで祝福してくれるのだ。

そうやって、脳みそに快感がどんどん刻み込まれてゆくのではないだろうか。
 
 

それに気付いた時、私は怖くなってすぐに止めることを決意しました。

しばらくは例の夢など見て、散々に苦しみましたが、最近では全然そんな事も無くなりました。
しかし、今でもパチンコ屋を見るたびに、失った時間を悔やんで心が痛みます。


お金よりも、時間がもったいなかった。


他人の趣味や嗜好に、とやかく言うつもりはありません。
ただ、個人的に、パチンコは百害あって一利もないものだと確信しているし、止めて本当に良かったと思っております。

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名ゼリフ欲

男には、食欲、睡眠欲、性欲の他に、「名ゼリフ欲」というものがある。

魂を揺さぶるような名ゼリフを、いつも自らの口腔から放出したいと欲しているのだ。

こないだ、厨房にて、その「名ゼリフ欲」がムラムラと首をもたげ、つい出してしまったのがこの一言。

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・・・言うんじゃなかった・・・。

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日本伝統の球技を!

「さあ、アテネオリンピック、注目の種目がいよいよ始まります。今大会より、初めて競技と認定された、日本伝統の球技『パチンコ』!果たして、各国選手がどのような立ち回りを見せてくれるのか期待ですね!本日は、実況は私、サクライと、解説はブッコミー加納さんでお送りします。ブッコミーさん、よろしくお願いします。」

「はい、よろしく。」

「さあ、競技自体は昨日から始まっております。各国代表の選手は、アテネに特設されたホール、『YARAZU-BOTTAKURI』の前に並んで、ウォーミングアップに余念がありません。ブッコミーさん、これは『台取り』に向けてのウォーミングアップと考えてよろしいですか?」

「はい。開店直後の、シマへのダッシュはかなり重要です。」

「なるほど。各国、短距離ランナーを揃えての戦略のようですね。たしかに、座ればあとはハンドルをひねるだけですからね。あっとお?もうあと5分で開店だと言うのに、日本代表の選手の姿が見当たりませんが?ブッコミーさん、これはどういう事でしょう?」

「ああ、それはですね・・」

「あ!日本代表のヨシダ選手の姿が見えました!今から並んでは最後方からのスタートになりますが・・・おっとお?ヨシダ選手、最前列に向かって歩いている!これはどうした事でしょう?今・・ジャッジの店員さんに何かを渡し・・・あー!なんと!ヨシダ選手、悠々と一番前に並んだー!割り込まれたアメリカのワトキンス選手、必死の抗議です!ブッコミーさん、これはどういう事ですか?」

「整理券ですね。」

「整理券?」

「はい。今時、並ばせるパチンコ屋はそうありません。昨日、『整理券を配る』という情報が、携帯端末の方に提示されていたのを、他の選手は見落としていたのでしょう。」

「これはヨシダ選手、ノウハウを活かした素晴らしい出だしですね!」

「はい。今日の吉田選手は期待できますよ。」

「さあ、いよいよ開店です。シャッターがゆっくりと開き・・・あっとお!?ヨシダ選手、体をねじ込んだー!ブッコミーさん、これはフライングではないんですか!?」

「いえ、これはプレイオンです。あのレベルのプロになると、10センチの隙間があればねじ込んできます。」

「なんと、他の選手は、体が大きすぎて入れません!これは完璧に作戦勝ちですね!」

「はい。もう、ヨシダ選手の独壇場ですね。」

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「さあ、続々と他の選手も入店・・・おっとお?カナダの選手が審判の店員に止められていますね。

「あ、これは『タトゥーアウト』です。

「『タトゥーアウト?』それはなんですか?ブッコミーさん!」

「パチンコ屋にはですね。入り口に、『暴力団と思しき格好の方、入場をお断り致します』と書かれているのです。ですから、カナダの選手の肩部分の刺青が、暴力団を想起させるという判定が下ったのでしょう。ただでさえ存在自体がグレーゾーンのパチンコ業界は、ダーティなイメージに敏感ですから。」

「なるほど。」

「まあ、暴力団より、警察の方が余程えげつないんですけどね。」

「ブッコミーさん、スポンサーとの事もありますので、その辺で・・。オホン!さあ、ヨシダ選手、早くも初当たりを引いた模様です!これは的確な釘読みによる回転数の差でしょうか?」

「そうですね。かなりのお宝台を引いたようです。ヨシダ選手の『金』は、ほぼ間違いないでしょう。」

「あ、ちょっと待ってください?アメリカのワトキンス選手。次々にあたりを引いてますよ?・・というより、全て1回転で当たっています!?ブッコミーさん!?」

「これはおかしいですよ!『裏ロム』だ!」

「審判店員が駆け寄ります!各国の選手、詰め寄ります!あっとお!乱闘です!乱闘に発展しました!場内混乱しています!あーーーー!!ここで『シマ閉鎖』!!『シマ閉鎖』です!ホールの最終兵器が飛び出したー!試合終了!試合終了です!!なんという幕切れでしょう!第一回にして、鉄の球技『パチンコ』は、大混乱のうちに無効試合となってしまったー!」

「やはり、パチンコを競技化するのは無理がありましたね。不透明な部分が多すぎます。」

「ブッコミーさん!それは言っちゃダメ!スポンサーが!あ、スタジオに返します!」

ブツ・・・!

トラックバック野郎のお題。
今週は「あったらいいな、こんな競技」だったので、つらつらと想像してみましたが、やはり、無理があったようです。

IOCさん。
悪い事は言わない。
パチンコは止めとけ。

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破局なふたり

私が切り出した話に、彼女は怒り、肩を震わせながら叫んだ。

「馬鹿にしないでよ!」

バシャ!

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手にしていたアイスコーヒーは、私の顔とTシャツを黒く染め、テーブルやイスにしたたり落ちる。
二人を、店中の好奇の視線と、失笑のさざなみが包み、店内に流れる有線放送だけが、やけによく聞こえる。
彼女は、涙をこらえながらイスを蹴って立ち上がり、店を出てゆく。

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私は、彼女の名前を呼びながら、追う事しか出来なかった。






「・・・というのを、一度でいいからやってみたいんだよ。」

正体不明のお茶(かなり不味い)に顔を歪めながら、相方(彼女)に持ちかけた。

「ああ、いいねえ。私、今までそれやった経験無いから、是非やってみたい。」

アイスコーヒーを飲みながら、すかさず返す相方。

「ねえ。やっぱ、喫茶店に来たら一度はやってみたいよな。」

「うん。そんで、私出る時に、レジに1,000円パーン!と置いて、『お釣りはいりませんから・・!』とか言ってね。・・あ、もう、お金払っちゃったからダメか。」

「うはは。んで、店中の視線を釘付けにしておいて、店から出たら普通に手繋いで歩いていったら面白いよな。」

「あはは!店中、『なんなんだよ!あいつら!』ってなるよね。」

「なるね。多分、関西なら確実に店中コケる。」

「コケるかなあ?」

「コケないかなあ?」


日曜の午後8時過ぎに、喫茶店で交わされるとめどなくお馬鹿な会話。

これがいいのだ。

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美人+エプロン×5

「ろくろめ」というblogに、突然トラックバックさせていただきます。

私も、このblogではほとんど触れてないのですが、実は陶芸屋でして、焼き物を作ったり、売ったり、教えたりして生計を立てているわけなのです。

そこで、「ろくろめ」さんの記事のなかの「500g」、デザイン学校の生徒さんに、陶芸を教える様子の画像を見て、ふと、4年ほど前の夏の出来事を思い出した。

その日は、知り合いの開業医の先生と、そこに勤める看護士さんや、助手さんやの一行が、ウチで体験陶芸をする事になっていた。
工房の方はすっかり準備も出来ていたので、他の仕事をするために工房を空けていたのだ。

そのうちに、

「トシー!体験(陶芸)始めていいよ~!」

とお呼びがかかったので、「はいはい~。」と軽い足取りで工房に向かった。

医者の先生ご一行が待っているところへ足を踏み入れ、

「おはようございま~す!よろしくおね・・」

と挨拶しつつ、メンバーを見た瞬間、思わず固まってしまった。

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妙齢の女性、しかも、ほぼ全員かなりの美人揃いだったのだ。

ウチの場合、体験陶芸というとお客さんのほとんどが年輩の方や若い人でもカップルで、あまりノーマークの妙齢の女性と言うのは来ないのである。
別に、ノーマークの妙齢の女性が来たから、どうこうしようとか言うつもりはないのだが、私も健全な青年であるから、どちらかと言うと妙齢の女性(しかもノーマーク)が相手のほうが、否が応にも気合いが入ってしまうのだ。

そこへ持ってきて、7人のうち、5人が妙齢、しかも美人、あまつさえエプロン姿なのである。
 
 

美人+エプロン×5=鼻血ブー。

 
 
の公式を体感したことはいうまでもなく、そこから発せられる色気の数値は目眩を覚えるほどであり、しかも、夏の暑い盛りで、さして冷房設備の無い工房の中は、その熱気で充満し、澱んでいるような状態である。

俺にどうしろと言うんだ。

陶芸を教えろというのか。
もっともだ。

その、一幅の絵画のような情景と、甘美極まる空気をいつまでも堪能していたかったが、曲がりなりにもプロ(のかなり端くれ)なので、メロメロになりながらも陶芸を始めた。

いざ、始まってしまえば、そこは真剣勝負である。
いかに楽しく、分かり易く教えるかが大事なのであり、
 
 

「いいですか~?粘土の練り方は・・メールアドレス教えてください。」

「ロクロの中心に~・・彼氏とかいるんですか?」

「挽き上げる時は、手を・・っていうか、付き合ってください。」

などという事は勿論言わなかった。

しかし、その1時間足らずの間に、幾度となく恋(すべて片思いだが)に堕ちたことは言うまでも無い。


くんずほぐれつ(飽くまで願望)の陶芸指導の末、全員、立派な器を作る事に成功し、5人の美人エプロン+2は、そのフェロモン余韻を残したまま、工房を退出していった。

一人その場に座り、その残り香を楽しんでいるところに開業医の先生がやってきて、

「先生、今日はありがとうございました。皆よろこんでいましたよ。」
とおっしゃってくれた。

「あ、こちらこそありがとうございました!・・ところで先生。先生の病院って、美人さんばかりですねえ・・。もしかして、顔で選んでます?」
と、冗談で聞いてみたところ、

「ええ?いやあ、たまたまですよ。へっへっへ。」

と、答えて去っていきやがった。


・・その先生が、顔で選んでいるエロ医者だという事はもはや疑いようの無い事実であるが、砂をかむような味気ない日々に(そうでもないけど)、少しだけ潤いをくれたエプロン美人5名様には、今も感謝の気持ちでいっぱいである。
(敢えてエロ医者には感謝しない方向で。)

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何気なく、完全犯罪。

もう、時効だと思うので白状するのだが、過去に一度だけ万引きをした事がある。


10年程前、まだ私が「紅顔の美少年」の面影を強く残す、美青年のつぼみだった頃の話である。(嘘です。)
その日、私は街中の画材屋さんでペンやらマーカーやらケント紙やらを買い込んでいた。
目的の品物を一通り手に取り、それらをレジに運んだのだが、その途中、消しゴムもそろそろ無くなるという事を思い出したのだった。

「ああ、イカンイカン。」

と、消しゴムを左手に取り、残りの品物は右手にまとめて持って、レジに向かった。
レジでは女性店員が店番をしていて、右手の品物をバサッと置いたのである。
女性店員は慣れた手つきで会計をしてゆく。

そして、会計も済んで、紙袋を抱え、画材屋さんを出たところで異変に気付いた。

左の後ろポケットに、消しゴムが入っているのだ。

「・・・え???」

その場に立ち尽くし、その消しゴムを凝視しながら何故そのような事が起きているのか必死に思い出す。

レジで会計を済ませる時に、確かに右手の品物は全て出した。
しかし、左手には消しゴムが残ったままだった。
財布はいつも右の後ろポケットに入れているので、それを取り出し、両手でお金を出そうとした時、左手に何かを握っている事に気付いた。
そこで、握っているものをどう言うワケか確認する事無く、左の後ろポケットにしまったのだった。

つまり、白昼堂々、しかも、店員さんの目の前で万引きをしてしまったのである。
しかも、店を出て、誰も追ってこないという事は、気付かれなかったという事であり、つまりそれは窃盗の完全犯罪を完遂してしまった瞬間でもあったのだ。

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「・・・ああ!」

それまで悪い事はそりゃあ色々やったが、「万引き」だけはしなかったのに(多分、ウチも商家で、親に「ひとつ万引きをすると、店の人がその損害を取り戻すのにどれだけ大変か」ということを教えられたからだとおもうのだが)ウッカリしてしまい、図らずもそれが成功してしまったのだ。

あら~、どうすっぺ。
当然、会計しに戻るべきだろう。
ああ、でも、雑誌とか、小脇に挟んでいてついウッカリ店を出たとかいうのはよくある事だけど、消しゴムなど、細かいものの場合、「盗ってしまったけど、反省して返しに来ました」と取られてしまうのではないだろうか・・。

悩まなくていい事でたっぷり悩み、何でそっちに行くんだ?という方向に思考が飛ぶのは昔からのクセで、次々に悪い想像が頭の中を駆け巡るうちに、すっかり怖くなってしまい、10分程、立ちすくんで必死に考えた末、我ながら謎の行動を起した。

ポケットから財布を出し、中から110円(おそらく消費税分を考えたのであろう)を取り出して、その画材屋さんのコピーかなんかのカンバンの上にジャラリと置いて、足早に立ち去ったのである。

自分の中では、閉店の時、カンバンを片付ける時に店員さんか誰かが見つけてくれるといいな・・と思ったのだろうが、今思うと何の意味も無い行動であり、「カネを払えばいいんだろ」的な、実に卑怯で、自己満足的な行動だと思うのだが、当時の私にはその程度しか頭が回らなかったのだった。

というわけで、画材屋さん。
10年前、消しゴムが一個足りなかったのは私が盗りました。
謝って済む事ではありませんが、ごめんなさい。

しかし、何故、あれほど何気なくしまってしまったのだろう。
無意識に「魔がさした」のか・・。
今もって謎・・である。

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