プレイバック優秀賞受賞。
「トラックバックPART2」にて、「人生最大のピンチ!」にトラックバックした記事「もっとも『死』に近い時」が優秀作に選ばれてしまいました。
「週刊ココログガイド」の時といい、
いいんですか?こんなで?
ニフティ株式会社さん!
まあ、選ばれたのだから、素直に喜びますです。
では、優秀賞を受賞された「そんちょ」さんの喜びの表情が届いておりますので、そちらをご覧下さい。
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いいんですか?こんなで?
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sports silvia on BLOG:■ [反応]彼らは選ばれし者達??より。
私たちのような山間部に住み、そこでレジャー関係の仕事に従事する業界では、この時期になると、とある文書が配布されます。
それは、「名探偵注意報」と呼ばれるもので、夏休みシーズンになると、小学生の名探偵が各地のレジャー施設に頻繁に出没し、かならずそこで犯罪が起きるという現象が顕著になり、公的機関への「学生による名探偵防止」の再三にわたる働きかけも、「名探偵が事件をおこしているわけではない」という至極もっともなお役所的事なかれ主義によって頓挫したため、「事件は役所で起きているんじゃない!現場で起きているんだ!」というスローガンの元に、民間業者が相互扶助のために発行している特殊業界誌なのである。
小学生の名探偵が関係して起こる犯罪の種類は、さまざまなものがあるのだが、中には殺人などの凶悪犯罪も含まれており、そういったものはレジャー施設ではもっとも禁忌とされる事はいうまでもなく、これまでも小学生の名探偵絡みの事件で廃業に追い込まれた業者は数知れないとの報告があることからも、小学生の名探偵の影響力がどれほど恐ろしいものか、想像には難くない事である。
「名探偵注意報」の中には、「名探偵ガイドライン」も添付されており、そこには名探偵小学生の見分け方、対応法などが記されている。
■小学生名探偵の特徴
黒ブチめがね、浅黒い肌、赤の蝶ネクタイ、紺のブレザー、短パン、苦笑癖アリ。
口ひげの中年男性、学生(おそらく高校生)の女性が同行している事が多い。
■小学生名探偵を見かけたら
宮城ブロックの統括責任者オシコウジさんに連絡。
役場の「観光課」にも連絡をお願い致します。
■小学生名探偵が訪ねてきたら
「道に迷った」、「クルマが故障した」という理由で侵入してくる事が多いが、決して泊めたりしない事。
「観光課」に連絡し、公的な宿泊施設に案内するか、速やかにJAFなどに連絡し、お引取り願うこと。
■小学生名探偵が去ったあとは
小学生名探偵が来るという事は、何者かがあなたに激しい恨みを持っている場合があります。
すぐに交友関係を洗い直し、恨みを買っていそうな友人、知り合いなどに連絡、お詫びをしましょう。
~「16年度版 小学生名探偵ガイドライン」より抜粋~
このガイドラインが発行されてから、小学生名探偵による被害は減少傾向をたどっているが、今なお小学生名探偵の番組が放映続行中であることからも、予断を許さない状況である。
以前、書いた「殺される確率」も、通常時は0.0008%だが、「コナ●君」と遭遇する事により、「36.02%」まで引き上げられるという統計も報告されていることからも、小学生名探偵の凄まじき影響力は、その人気にも支えられ、まだまだその脅威が衰える気配を見せない。
ところで、「名探偵コナ●」の物語の中で、麻酔銃とか、蝶ネクタイに仕込んだマイクとかを駆使して披露される推理よりも、それに気付かないようにしてあげる周囲の人間の方が優しくて、ステキ。と思うのは私だけであろうか。
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どちらかと言うと、野球よりサッカーの方が観ていて楽しい。
何故ならば、サッカーはセコイ駆け引きが多いからである。
たとえば、ちょっと当たった時など、大袈裟に痛がってみたり(本当に痛い時ももちろんあるが)、選手間でモメた時なども、ちょっと小突かれただけなのに、まるでワイヤーアクションみたいに吹っ飛んでみたり、フリーキックやコーナーキックの時などの競り合いも、押してみたり、服を引っ張ってみたり、僅差でもうすぐ試合終了という時にファウルがあった時、いつもよりさらに大袈裟に痛がってみせて(もちろん、本当に痛い時もあるのだが)、何気なく時間稼ぎをしてみたり。
そういう「卑怯」とまではいかなくても、「微妙に正々堂々としていない駆け引き」が面白いのかも知れない。
それと、審判へのアピールも見どころのひとつであろう。
ボールがサイドラインを割った際のラストタッチが微妙な時など、真っ先に「マイボ!マイボ!」と手を挙げてみたりとか、オフサイドトラップを仕掛ける時、ディフェンダーが揃って手を挙げ、副審にオフサイドラインを強調して「コイツ!ほら、このフォワード出てますよ!ほら、線から!待ち伏せですよ!わっるいやっちゃなあ~!」と表現してみたり、中でも一番面白いのは、ボールをキープしている相手に後ろから圧力を掛ける際、両手を上げて
とアピールするところなんか、上半身はむやみに紳士的なのに、下半身はかなり意地の悪い動きをしているという、その対比が可笑しいのである。
私も、サッカー中継を観ていてそこからヒントを得、実生活で酷い事を言われた時などに、胸を押さえてのた打ち回り、「心が傷付いた」という事を激しくアッピールする戦法を試みた事があったのだが、あえなく主審から「シミュレーション」を宣告され、おまけにイエローカードまで頂いてしまったという経験があり、サッカーの駆け引きは、大体ピッチでしかその効果は発揮されないということを思い知らされた上、あと一枚のイエローで「人生退場」という瀬戸際に立たされている今の状況を如何に打破すべきかということを考えずにはいられない今日この頃なのである。
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悲しい・・。
自慢できるほど本を読むほうではないけれど、らもさんのあの軽妙で、流れるような気持ちのいい文章が大好きでした。
酒に酔って、階段から落ちて死んじゃうなんて、そりゃないよ。
惜しい。
あまりに惜しい。
ご冥福をお祈りします・・。
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kujiraのMonologue:「これで、今日の運は使い果たしました!」より。
「運」という要素は、目には見えず、数値にも表しにくい上に、行動や、状況や日によって大きく上下するものであるが、私もkujiraさんのおっしゃる通り、「人間の運の量は、その日ごとに決まっていて、消費するものだ。」と考えている。
そして、その決められた「運ポイント」を、自分、あるいはその他の何かが、これまでの積み重ねである行動ポイントや、体調ポイントや、関係ポイントや、感情ポイントなどの「能力ポイント」に振り分けられ、上乗せされて、干渉し、消費しながら日々過ごしているのではないかと思っている。
「運ポイント」は、確かに重要であり、時には基本的な能力値を凌駕してしまうこともあるけれど、キチンと積み重ねた「能力ポイント」は、基本的に積み重なるだけで増減は少なく、多少の「運ポイントの増減」では覆りにくい事も確かな気がする。
その、消費されると思う運ポイントであるが、一番分かり易く消費されるものと言えば、クジや、ギャンブルであろう。
それらは、戦略や立ち回りである程度有利に事を運べるとは言え、結局は純粋な「運ポイント」を多く消費するものではないかと思う。
それゆえに「偶発的に訪れた幸運」と言うものには思わず警戒してしまう気持ちが起きるのであり、kujiraさんのように、たまたまコンビニのクジでプリンが当たったことで自らのの運ポイントの浪費と、欠乏を悟ってしまうのも致し方ない事なのである。
それは、ほぼ毎朝、私も経験していることなので良く分かる。
いつも、朝6時55分にテレビの「お目覚めタイマー」が作動し、あらかじめ設定してある「12ch」が映し出される。
その時間帯には、決まってその日の運勢を星座ごとに順位付けするコーナーをやっていて、いつも布団への未練と戦いながら、己の星座である「みずがめ座」の順位を固唾を飲んで聞いているのである。
平日、ほぼ毎日聞いていて気付いたのだが、我が「みずがめ座」の順位は異様なほど「最下位」が多いのだ。
一体何を基準に計っているのかは知らないが、番組スタッフは「みずがめ座」に何かしら含むところがあるのでは?と勘繰ってしまうほどなのである。
だから、そういう日は朝から否応なしに
という闇鬱な気分にさせられるのである。
しかし、ごく稀に、「みずがめ座」が第1位になることもある。
そういう時は、素直に得した気分になるのであるが、すぐに
ということに気付いてしまい、暗澹とした気分になってしまうのである。
「・・じゃあ、見るなよ。」
という、実にごもっともな意見はこの際放っておいて、問題は、「みずがめ座」の順位変動は、どうしてこうもドラスティックなのか。
ということなのだ。
常に真ん中あたりをフラフラしていてくれればいいのに、ああも最下位の日が多くては、上位の日も素直に喜べないではないか。
つまり、「運」というものは、たとえ一個のプリンでも確実に消費されるものであるということ。
ただし、その考え方でゆくと、「運」の順位付けというものは、上位でも下位でも損した気分にさせられるという事であり、我ながら損な性分であると思わずにはいられない今日この頃だったりするのである。
さて、明日の朝の「みずがめ座」は何位なのだろうか・・。
出来れば5位くらいにして欲しいと願わずにはいられない。
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私は、ある本でこの確率を知って、その微妙な数字にしばらくヒヤリヒヤリとさせられました。
0.0008%ですよ?
「ほぼ関係無い」とは言えない数字です。
身内、周辺の人は勿論、当blogを読んでくださっている皆みな様。
この数字を覚えておいて、用心してくださいませ。
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大気が不安定で、空がゴロゴロ鳴っていた今日の夕方。
稲光を見るのが大好きな私は、「雷落ちてこないかな~」と心待ちにしていたのだが、上空でゴロゴロ言うだけでなかなかこれが落ちてこない。
待てど暮らせど落ちてこないのだ。
仕方が無いので、フラフラと庭に出て、おもむろにシャツをたくし上げ、
と叫びながら、自作の「ヘソダンス」を踊っていた。
何故ならば雷は「ヘソ」に落ちると昔から言うからであり、最近の研究で明らかになった、「とにかく高いところに落ちる」という結果に、真っ向から対立し、それを証明してみせようと思ったのだ。
勿論、雷が当たれば私のヘソもただでは済まないであろう。
がしかし、「雷は高いところよりも、ヘソに落ちる」という確証が得られるならば、私のヘソなど茶が沸くくらい安いモノであると胸に決め、渾身のヘソダンスを繰り出していた。
しかし、雷はそんな私のヘソダンスに恐れをなしたのか、それとも関わりたくなかったのか、遠く雲の彼方に去っていってしまい、結局稲光を見ることは叶わなかったばかりか、ヘソの横を蚊に刺されてしまい、とても痒い事になってしまったという、まさに踏んだり蹴ったりのそんちょ、28歳の夏の夕暮れであった。
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猫と言えばウチにも、飼い猫から居候猫まで実に数十匹の猫が常にたむろしていて、敷地内では常に視界に一匹は猫がいるという、ある意味「ディズニーランドちっく」な環境にある。
当然、猫についての話題には事欠かず、過去にも、お節介な猫の話や、生まれ付き奇形を持ってしまった仔猫の話と、その結末。
そして、油断しすぎの猫にくだした鉄槌の話なども書いたことがあった。
今回は、以前話した、「お節介な猫・めけ」のもうひとつの話をしたいと思います。
動物とは直接言葉を交わせないけれど、長く付き合っているうちに、雰囲気や、鳴き方などで何となく意思がわかるようになるものである。
大抵は、「ご飯ちょうだい」とか、「なでて」とかなんだけど、中にはこんな猫もいた。
私が二十歳そこそこの頃、部屋でゴロゴロしながらマンガなどを読んでいると、「チャッチャッチャ」という独特の足音とともに「めけ(メス・当時10歳くらい)」はやってくる。
普通、猫は足音を立てないものだが、歳をとると爪を引っ込める筋肉が衰えるのか、それとも単なる横着なのか、爪を半分だしたまま歩くため、足音のする猫が出来上がるのである。
そして、自分で私の部屋の障子を少しだけ開けるのである。
「なんだ?めけ。なんか用か?」
と聞くと、何も言わずにこちらをじっと見ているのだ。
「・・?なんだ?変なヤツ。」
と、再びマンガに目を戻すと、しばらくして「めけ」は口を開き始める。
「・・・・にゃあ~ん?」
「・・・」
「・・・にゃあ~ん?」
「・・・?」
こちらをじっと見ながら、明らかに私に向かって何かを問い掛けているのだ。
「めけ、なんだよ?撫でんのか?」
と聞いても、じっとして動かず、半開きの目で凝視している。
仕方が無いので放っておく事にして、またマンガを読んでいると、今度は
「ふん~・・!」
と、明らかにため息をついて、ピッタリ等間隔で
「にゃあ~ん?」
「にゃあ~ん?」
と始めるのである。
そこでさすがに気付いた。
この猫は、私に小言を言っているのだ。
「にゃあ~ん?」
(若いのに昼間からマンガばっかり読んで・・他にする事無いの?)
「にゃあ~ん?」
(仕事はどうしたの?ちゃんとやってるの?)
「にゃあ~ん?」
(イイ歳して、彼女の一人もいないの?)
「にゃあ~ん?」
(昨日も帰りが遅かったけど、どこで何してるの?)
多分、そう言っているのだろうという事が、ひしひしと伝わってくる。
「・・・うっせえな~。」
と、猫に向かって本気で煙たがり、障子をピシャリと閉めたのだが、その後もそこから動く事なく、
「にゃあ~ん?」
としばらく鳴き続けていた。
大体にしてお節介な猫ではあったが、まあ、猫の目から見ても当時の私の生活態度はだらしなかったのかも知れないと反省しきりであり、何と言っても人間以外の動物に小言をもらうというのは、とても貴重な体験ではあるが、非常に情けないものであるので、これからは、せめて飼い猫からは小言を言われないようにしようと胸に固く誓わずにはいられない今日この頃である。
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半ば、いや、ほぼ確実に予想されていた事なのだが、私の坊主ヘッドを相方(彼女)に披露したところ、
という事態に陥ってしまった。
ひたすら撫で繰りまわしながら、
「かわいいなあ~。」
「いいなあ~。」
「手触りいいなあ~。」
と、恍惚の表情を浮かべる相方。
しまいには
「いいなあ~、あたしもしようかな~。」
と言い出す始末。
「・・それはやめろ。」
慌てて制止する。
あまりにひたすらシャリシャリと撫で繰りまわすので、
「あんな、もういいだろ?」
と苦言を呈したところ、
「まー、いいじゃないスか。愛撫だよ、愛撫。」
・・愛撫ときたか。
「手のひらから愛情がじわっじわ出とるやろー。」
いや、名古屋弁で言われても。
しかし、それだけでは終わらなかった。
続いて相方の標的となったのは、アゴの不精ヒゲである。
「お、こっちにもショリショリがあるなー。」
「それはヒゲ!」
「えー、どっちがどっちやら分からんな。上も下もショリショリやなー。もはや、顔全体がショリショリやんかあ。」
「あははは!あははは!」と意味不明の笑い声を発しながら、私の坊主ヘッドと、無精ひげをほしいまま蹂躙しつづける相方。
頭のいたるところを撫で繰りまわされ、揉みしだかれながら、「・・はやく、髪伸びてくれないかな・・」と願わずにはいられなかった事は言うまでもない。
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アクション映画などの登場人物は激しい戦闘シーンで、すんでのところで弾丸やナイフをかわし、頬に傷を負うものであり、そこから滲み出る血を親指につけ、ペロリと舐める・・。
ブルースリーファンならずとも男子ならば誰しもが憧れるということはもはや世間一般の常識となっているという事で、全国的なアンケートでも、「生涯のうち、一度でいいから頬に傷を負ってみたいですか?」と言う質問に、47都道府県の成年男子の7割が「YES」、2割が「どちらともいえない」と答えていることからも裏付けが成されている。
しかし、実生活において「頬に傷を負う」ということは非常に稀有な例であり、頬にバンソウコウを貼って街を歩く男性(女性でも可)を見たことが無いことからも、それはうかがい知れようというものである。
しかし先日、私はついに「頬に傷を負う」を経験する事に成功したのです。
・・多分。
ある日の朝のこと。
いつものように寝ぼけ眼で洗面所の鏡の前、歯を磨いていると、その異変に気付いた。
頬に傷が出来ていて、そこから血が滲んでいるのだ。
残念ながら血は乾いていたので指につけて舐める事は出来なかったが、確かに傷はついている。
よく思い出してみても、昨日の夜には無かった事から、どうやら寝ている間についたものであるという事は間違いないようで、一体、どういう経緯でついたのか謎であるが、ただひとつ言えることは、傷の方向が縦であるということから、どうも相手はクマらしいという事だけである。
クマか・・
よく無事だったな。ワシ。
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非常に個人的な事で申し訳ないのですが、このたび、丸刈りにいたしました。
(左上写真参照)
涼しくて、気が引き締まり、最高です。
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「ダーリン、馬糞くさい!」
という名ゼリフがありまして、後半の「馬糞くさい」という部分はひとまず置いとくとして、「ダーリン」の部分に感じ入るものがあったのです。
いい響きですねえ・・。
甘い呼び名の代表格であり、しかも、イヤミでなく、冗談とも取れ、その関係に憎んでも憎みきれない何かを感じさせる、非常にナイスな呼び名だと思います。
イイ。
非常にイイ。
私の相方(彼女)は、どういうわけなのかは知りませんが、私の事を「ハニー」と呼びます。
本当に。
すると、つい私は「ダーリン」と返してしまいます。
マジで。
一度、
「ねえ、なんでこっちが『ハニー』なの?普通男が『ダーリン』でない?俺、『ダーリン』のほうがいいな。」
と、言ってみたところ、
「そうだね。分かったよ、ハニー。」
と返されたっきり、相変わらず「ハニー」のままでした。
私たちの関係は、これでいいのでしょうか。
最近、「ハニー」と呼ばれることに違和感を感じない自分に不安を覚えてしまいます。
頼むよ、ダーリン。
あ、いけね。
ついクセで。
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人間、なにがキッカケで、どこでどう注目を浴びるか分からないものである。
スーパーで、夕飯の買い物をしていた時の事。
携帯電話がブブブブと震えたので、とりあえず出てみた。
すると、身内からの電話で、
「悪いんだけどさー、本屋さんに寄って、『鋼の錬金術師』ってマンガ買ってきて!少年誌のコミックスで、確か、9巻だったと思う。」
と頼まれた。
「『ハガネノレンキンジュツシ』?9巻?・・・ああ、はいはい。分かった。」
夕飯の買い物を済ませ、そのスーパーの中にある本屋さんへ向かい、少年誌コミックスのコーナーへ向かった。
その時間帯は丁度夕飯の買い物でごった返す時間帯で、親と一緒にきたであろう小中学生で本屋も混みあっていた。
身内に頼まれた「鋼の錬金術師」という本を探していると、最近発売になったコミックスが平積みになっているコーナーにそれを見つけた。
その周りには、小中学生やら、いかにも少年漫画が好きそうなサラリーマンの兄ちゃんなどが群れを成していて、「はあ~人気のあるマンガなんだなあ・・」と感心しつつも、大変入りづらい雰囲気であった。
しかも、「鋼の錬金術師」というマンガは、ご丁寧に1巻から8巻まで並べてあったのだ。
「あい、ちょっとゴメンよ。」
と割り込み、「なに?このオッチャン。」という目にも負けずお目当ての9巻を探す。
9巻、9巻、9巻・・・。
はて、いくら探しても8巻までしかない。
んん??
8巻は、それなりに多く積んであるけど、さっき確かに9巻と言ってたよなあ??
もしかして、売り切れたのだろうか?
店員さんに聞こうかと思ったが、なんだか恥かしいので、身内に電話をすることにする。
一瞬、店の外でかけようかと思ったが、もう一度この輪の中に入るのが億劫で、周りにペースメーカーなどの医療器具を使っている人間がいそうもない事を確認して、携帯電話をかけた。
「あ、トシだけど。あのさあ。あの~・・」
ここで気付いたのだが、少年漫画の題名って、知らない人の前で声に出すのは非常に恥かしい。
「は、鋼の・・錬金術師って・・」
となるべく小声で言った瞬間。
という、異様な音とともに私に向かって一斉に注がれる視線。
「!!?」
うお!なんだ!?
なんか変なこと言ったか?
明らかに、「鋼の錬金術師」という言葉に反応して集まった視線である事は明白であり、平穏な木曜の夕方に突如として訪れた「衆人環視」という異変は、私をビビらせるに十分であった。
非常に居心地の悪い空気を感じながらも、なんとか8巻までしかない旨を伝え、永遠とも思える一瞬の沈黙の後に吐き出された
「ああ、ごめ~ん、8巻でいいんだ。」
という呑気な言葉にマジ切れしそうになったが、大人なのでグッとこらえ、8巻を押し抱くようにしてその視線を逃れる事に成功した。
一体、なぜ「鋼の錬金術師」という題名が、あれだけの人間の心の琴線を一斉に掻き鳴らしたのかは謎だが、ただひとつ言えるのは、これから「鋼の錬金術師」という題名を聞くたびに、あのあまりに痛い視線の集中を思い出すであろう事である。
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「全日本トキメキスト選手権」東北ブロックでも、屈指のトキメキストである私には、前回の「小さな親切」に続いてもうひとつ、これは外せないであろうと思われる「ときめき」ポイントがある。
それは、連れ(彼氏、旦那さんなど)のちょっとした服装の乱れを、さりげなくそっと直す女性の仕草である。
非常にグッジョブ・・・!
ああ、なんて甲斐甲斐しい。
少なくとも、それだけ相手のことをよく見ていて、相手のことをよく想い、心を配っているという事であり、それだけで「いい娘だなあ~・・」と思ってしまうには十分だったりするのです。
自分がしてもらった時などは、もちろん目眩がするほどときめきますが、他人がしてもらっているのを見ていても、ときめいてしまいます。
あらゆる意味で「ごちそうさま」なのです。
つまり、「小さな世話焼き」にも「ときめき」はある。
それは、自分に向けられている事でなくても、あるのではないかという事です。
まあ、もちろん、「服装の乱れ部分」は、袖とか、襟とか裾くらいなものですが。
ズボンのチャックが空いてるからといって、そっと直すのは、違いますから・・!
(そんなヤツはいねえ。)
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彼女(相方)は世界一の女性であると信じているので「ときめきっぱなし」であるという事を前提として、
見ず知らずの女性に「ときめき」を感じる時があるならば、
たとえば店に出入りする際、後から来る私のために開けたドアを何気なくおさえていてくれる女性には、
と言ってしまいそうになるくらい「ときめき」を感じてしまいます。
ただし、妙齢の女性に限ります。
オッサン(まず、持っていてくれる人はいませんが。)や、若いアンちゃん(結構持っていてくれる人が多いけど)などには、感謝をしても「ときめき」はしません。
してたまるか。
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とある家電屋さんで買い物をして、品物を持って普通に会計を済ませた時のこと。
店員さんがホチキスで止めた紙を手渡してきた。
目を通してみると、
と書かれている。
あからさまな困惑の視線を「あくしゅ券」から店員さんに戻す。
「デカレンジャーと握手出来る券です~!よろしかったらどうそ~!」
と言われ、つい反射的に
「おお~。いいッスねえ~。」
と喜ぶフリをしてしまう。
一瞬の視線の交錯、沈黙のあと、
「・・・あははははははははははは。」
笑う店員さんと私。
しかし、どうして28歳で、決して童顔でもない私にこんなものをくれたのだろう。
そばにいた彼女(相方)に相談すると、
と言われた。
・・・そうか、そう見えるのか・・・
と一瞬本気でヘコんだが、すぐに違う可能性を見つけてしまった。
これは恐らく、宇宙警察と私の、何かしらの条約の締結であろう。
もしかすると、バレエに続いて「宇宙警察」からのオファーかもしれない。
どちらにしても、マスコミも注目の記者会見になることは必至であり、その後の私の動向が世間の関心を集める事だけは間違いない事で、単に「子供がいると思われたんじゃない?」という相方のもっともではあるが可能性の低い意見は採らない方向で考えたいと思う今日この頃である。
ちなみに、「宇宙警察」からのオファーがあった場合どうしようかとネットで調べたところ、デカピンク役の菊地美香さんがとても可愛かったので、前向きに検討しようかと思っているのはここだけの秘密である。
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彼女(以下、相方)と、韓国料理屋に行った時のこと。
「冬のソナタ」の「ペ様(ヨン様の事。私は親しくないので苗字で『ペ様』と呼んでいる。)」のキャラクター商品が並ぶ店内を横目に、石焼ビビンバと、チジミを注文した。
私は今まで韓国料理というものを食べた事が無くて、韓国料理についての知識がまったくと言っていいほどなかったので、韓国人の友人もいて、少なくとも私よりは韓国料理について知識のある相方に、やれ「チゲってなに?」とか、「サンゲタンってなに?」とか尋ねていた。
(それ程度の知識も無いとは、我ながら恥かしいことなのだが。)
そのうちに、まず「チジミ」が運ばれてきた。
「チジミ」というのは、ギョーザの皮のような生地の中に、主にネギなどが練りこまれていて、それを薄く伸ばして焼いた物にごま油みたいなタレをつけて食べるものだった。
さっそく、目の前に置かれていた箸を取って食べようとする。
そこで異変に気付いた。
その箸は金属で出来ているのである。
そこで、相方に尋ねてみた。
「サチさあ。韓国料理って、本場では鉄箸で食べんの?」
「いや?そういう話は聞いたこと無いけど・・。でも、置いてあるって事は使えってことだよねえ?」
「んだよねえ。きっと、本物の韓国料理は鉄箸で食べるんだよ。さすが、韓国。」
意味不明の感銘を受けつつ、そう決め付けて鉄箸を駆使してチジミを食べる。
しばらく、チジミを楽しんでいたのだが、どうも具合が悪い。
箸が重くて、滑るのだ。
「サチさあ。なんで韓国料理って、鉄の箸で食べるのかなあ?重くて使いづらいだけだよな。」
「うーん・・ねえ?でも、木の箸って、置いてないでしょー?」
と、視線をテーブルの端に向ける相方。
隅の黒い箱の中に、普通の割り箸があるのを発見した。
「あ。割り箸あるよ。」
そこで、恐らくふたりの思考は同調した。
またもや、別れ話が飛び出してもおかしくないほどの気まずい沈黙とともに、何食わぬ顔で鉄箸を戻し、割り箸を割るふたり。
「・・・ビビンパが来る前に気付いてよかったね・・・。」
というつぶやきとともに、その後、鉄箸には会話の端にも一切触れることは無かった。
もちろん、勘違いしたのは我々の過失なのだが、せめて、せめてもう少し分かり易いところに割り箸があれば・・
いや、この事は我々ふたりが互いに助け合って乗り越えねばならない試練であろう。
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大の男が泣くなんて、実に恥かしいことではあるが、さすがに涙を禁じえなかった事があった。
あれは、初めて足ツボマッサージを受けた時の事である。
数年前、一時期胃を壊してしまって体力が著しく落ち込んだ時期があり、それを知り合いのマッサージ師であるスギヤマさんに相談したところ、
「いいよー。内臓なら足ツボ。揉んであげるから。効くよー。」
と言われ、つい、ホイホイとうつ伏せに寝そべり足の裏を委ねてしまったのが不幸の始まりであった。
よくテレビなどで、タレントが足ツボマッサージで悶絶している映像を見ていた私は、すっかり「足ツボマッサージは痛いもの。」という先入観があり、不安で、ひどく緊張していた。
「痛くしないで、優しくしてね。」
と、何気なくエロチックにお願いし、軽くウケを取り足揉みは開始された。
ぎゅっぎゅ。
うー・・気持ちいいなあ・・。
ぎゅっぎゅ。
あー・・そこ効くわ。
なんだ、気持ちイイじゃないか。
てっきり痛いもんだと思っていたのに残念だ。
物足りんなあ。
などと余裕を見せていた。
それを知ってか知らずか、スギヤマさんはニコニコしてつぶやいた。
「はい、じゃあ、次は胃ね。」
・・・ッゴリゴリゴリ!!!!
一瞬。
焼き箸を押し付けられたかのような灼熱感が襲い、そこから脳みそまでを結ぶ線を傷みが推定秒速100mくらいの速さで駆け上がって、脳髄を焦がした。
「いっぎゃあああああああああああ~~~~!!!!!」
ごりごりごり。
悶絶。
脂汗と涙にまみれながら悶絶する。
「たた、タイムタイム!スギヤマさん、タイ・・・ムアアアア!!!」
ニコニコしながら、手は別の生き物のようにツボを責めたてながらスギヤマさんは言う。
「ダメダメ、ちゃんと揉んどかないと。」
激痛は一向に治まる気配を見せない。
一瞬、スギヤマさんを蹴飛ばして、この窮地を逃れようかとも考えたが、それはさすがに思いとどまった。
(スギヤマさんは、過去に一度蹴られた事があるらしい。)
ではどうしよう。
激痛にチカチカする脳みそで必死に役に立ちそうな情報を探す。
多分、脳みその「海馬」とか、その辺が使われたのではないだろうか。
そして思いついたのが、
であった。
そうだ!
激痛を和らげるにはラマーズ呼吸法が良いと聞いたことがある!!
そう思い至るや否や、生涯初めてのラマーズ呼吸法による痛耐を試みたのである。
ごりごりごり。
いきんで!いきんで!
ひっひっふー!
ゴリゴリゴリ。
そんちょさん!しっかり!
ひっひっふー!
ごりごりごりごりごりごり・・
効かねえ・・・!!!
結局、その後も失禁寸前まで責め立てられ、ボロ雑巾のようになりながら出た結論は、
ラマーズ呼吸法は、足ツボマッサージには効かない。
という、当たり前の真実であった。
余談ではあるが、
様々な痛みに対する手段としてのラマーズ呼吸法は、自分自身を検体としてデータを集めた所によると、
「タンスのカドに小指をぶつけた」
クラスの痛みまでならやや効果アリとの実験結果が報告されている。
恐らく、生涯ラマーズ法のお世話にはならぬであろう男性諸氏の参考になれば幸いである。
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最近の研究から明らかになったことなのだが、浴衣姿の女性からは「ユカタミン」という物質が分泌される。
「ユカタミン」は、ヒト科のオスに対してその効果を発揮し、様々な症状を引き起こす。
現時点で発見されている「ユカタミン中毒者」の症状は次のとおりである。
● 器量に関わらず、三割増で可愛く見えてしまう。
● どんな仕草も色っぽく見えてしまう。
● うなじから目が離せなくなる。
● せっけんの残り香との合併症で、脳細胞が破壊される。
などである。
特に今の時期は夏祭りなどが増え、夜、歩道をゆく浴衣姿の女性をチラホラ見かけるようになった。
それにより、街の往来における「ユカタミン濃度」が急上昇する事は疑いようもなく、重度の「ユカタミン中毒者」である私にとって、なんとも嬉しくも悩ましい季節なのであり、浴衣姿の女性の清涼感をともなう途方も無い色気に、つい目を奪われ、危うく事故に遭いそうになったことも一再ではない。
余談ではあるが、もし、浴衣に目を奪われて事故に遭ってしまった場合、通常の交通法規に加えて「ユカタミン取締法」にも抵触してしまう危険性があるので、重度、軽度に関わらず、「ユカタミン」に反応してしまう諸兄には、いっそうの注意を促したいと思う。
それほど、「ユカタミン」には即効性と常習性が確認されており、危険な物質なのである。
がしかし、浴衣姿に至ってはエクセレント(すんばらしい)!と言うほかなく、いかなローライズと言えども、所詮は舶来の代物であり、日本古来より綿々と受け継がれる遺伝子情報の中に刻み込まれた「ユカタミン反応」は、ローライズの半ば直接的な色気でさえ寄せ付けぬ程の破壊力があるのだ。
非常に危険極まりない劇物ともいえなくもない「ユカタミン」であるが、妙齢の女性の「ユカタミン」が無ければ日本の夏は始まらず、また終わりもしない、まさに不可欠必須のものであり、適量を用いれば様々な効能が期待できるまさに「百薬の長」なのである。
晩婚化も、少子化も、核家族化も、年金問題でさえ、解決のカギは「ユカタミン」にあるのではないかと思えるほどだ。
(多分、無い。)
そういったことからも、女性には、是非とも積極的な浴衣の着用を願わずにはいられず、「ユカタミン」の用法・用量をよく守り、ご利用は計画的にしなければと、肝に銘じる今日この頃だったりするのである。
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知り合いに、とんでもない晴れ女と、とてつもない雨男がいる。
晴れ女さんが来る時というのは、本当に、どんなブ厚い雨雲もその人の周りだけポッカリ空いているかのような天気の激変を見せる。
それは自覚があるようで、こないだ、直前までザンザカ降っていた雨が、その人が来た途端まるで蛇口の水を止めたかのようにピタリと止んで、その晴れ女っぷりを如何なく発揮し、最後には
「降水率70%までならひっくり返してみせる」
と、豪語していた事からも、その凄まじさがうかがい知れよう。
一方、とてつもない雨男さんは、本当に、雨雲がその人を尾行しているのではないかと思うくらい、常に雨雲を背負っている。
これはひっくり返しようが無いだろう・・というようなカンカン照りの晴れの日に訪れた時も、なんと、少しだけ残っていた雲から、搾り出すように雨が落ちてきて、お天気雨を呼んだ事からもその雨男っぷりと、雨雲の執念が垣間見える。
しかし、その雨男さんは、造園会社の社長さんなので、仕事にはとても都合の良い能力なのだそうだ。
そこで、ふと思ったのだが、
果たして、その晴れ女さんと、雨男さんが同時に訪れた場合、どちらが勝つのだろうか。
今までその夢のカードは一度も実現していないが、是非一度見てみたいものである。
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世の中、「疑わしいもの」は色々あるが、テレビの「統計」ほど、疑わしいものはないと思っている。
様々な番組に、何食わぬ顔で現されるグラフ。
つい、「へえ、そうなのか。」と、正確な情報として刷り込まれてしまいがちなものだけど、考えてみれば、あんなものはテレビの作り手がなんとでも改ざんできるものである。
大体にして、「都心に住む500人に聞いた」とか言うのもおかしい。
都心に住む人を抽出する根拠もわからないし、そのごくごく一部の意見を日本全体の風潮のように吹き込んでしまうのも大いに問題ではないか。
電話アンケートなどするところもあるけど、私の身の回りで
「▲▲▲という番組のアンケートですが・・」という電話をもらった事があるという話はとんと聞いた事が無い。
生涯一度もだ。
なにより、私自身、テレビ番組のアンケートというものを受けた事が無いのだから、信用しろという方が無理と言うものだろう。
統計というものを見るたびに、知らず自分の意見をそのうちのどこかにハメ込んでしまう傾向に気付く事から考えるに、意外と「統計」というものは、「意見のバラつきを示す情報」ではなく、「雑多な意見の取りまとめ」という目的があるものなのかもなあ・・と思わないでもない今日この頃である。
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「絆(きずな)」ってのは、もともと牛や馬を繋ぎとめておくための綱の事を言うらしい。
「糸」で、「半」ば自由を拘束するから「絆」なんだって。
だから、よーするに「互いのために、互いを束縛する」のが絆なんだな。
だから、正しくは「きずな」ではなく「きづな」なのかも知れない。
牛や馬は強制的に「きづな」を結ばれてしまうけど、人間の「きづな」にはそれはない。
お互いがお互いを思いあって、ある程度の「束縛」を覚悟した上で初めて結ばれるのが、人間の「きづな」なんだろう。
だから、得がたいのではないか。
でも、最近は世の中が、みんな自由とか、便利だけを追っかけるようになって、一人暮らしやら、核家族化やら、家族と一緒にいても束縛を嫌い、それぞれが勝手に暮らすようになって、束縛されたくはないし、「束縛される」訓練もあまり積まずに「きづな」を欲しがり、「束縛されないきづな」を求める。
「絆」と言う漢字が古来からあるのは、「束縛されないきづな」なんてありえないんだと分かりきっているからなんで、自分の都合だけの美味しいトコだけの「きづな」を求めた結果、「きづな」は薄まり、歪み、ついには消えてしまうのだと思う。
「束縛されたくない」、「束縛したくない」、ならば、「きづな」を欲しがってはいけないのではないか。
考えさせられる。
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街場では最近、特に痴漢が急増しているそうで、おちおち夜も出歩けないのだそうだ。
山に住んでいると、夜出歩こうものならクマに遭遇する危険があるが、クマと痴漢、どちらにしても性質の悪いものではある。
なんで痴漢が増えたのだろう?
という理由をつらつらと考えてみるに、
女性が、男性に依存しなくても生きてゆけるという現実が出来上がり、それによって自然、相手の男に求める最低ラインが底上げされ、あぶれる男が増えた。
ってのと、
欲求不満を解消したい→無理やりどうにかしてやろう。という、実に短絡的で自己中心的な男が増えた。
ってのと、
流行りやら廃りやらで、女性の服装の傾向が、ある程度の露出を余儀なくされているから。
ってのもあるかもなあ・・。
と思った。
まあ、挙げればまだまだ出てきそうだけど、とりあえずパッと思いついたのがコレだ。
痴漢は確かに卑劣だけど、そうなじったところで、痴漢をするようなヤツは全然気にしないと思う。
やはり、マトモな方がスキを無くし、自衛するしかないのだな。
大体にして痴漢というのは夜、明りの少ない暗がりで、しかも後ろから来る。
しかも、先制権は常に相手持ちだ。
その時点でかなり痴漢側にかなり有利なのだ。
幼少のみぎりより、八極拳のクンフーを積んでいる女性なら、「鉄山靠(てつざんこう・・上図参照)」を繰り出す事で対抗する事も出来るだろうが、そういう人はかなりの少数派だと思われるので、誰にでも出来る防御法を考えなければならないだろう。
いつもクルマなどに乗っていて、夜道を一人歩いている女性を見て不思議に思うのだけど、どうして明りをつけないのだろう。
ということ。
街灯があるから・・なんてのは実に甘い。
基本的に、「暗がり+女性=エロ」という実に単純な思考回路を沢山の男は持っていると思うのだ。
まあ、それはかなり極端な話だけど、痴漢にとって、一番困るのは顔を見られることであり、だからこそ暗いところで襲うわけだから、常に強い光源の懐中電灯を持っていれば、かなり危険を回避出来ると思う。
光を持っている相手というのは、悪いヤツもやはり警戒してしまうし、万が一の際にも、相手に光を向ければ目くらましにもなるのだ。
そして、手には常に防犯ブザーを握っておけば、まず大抵の痴漢は手出し出来ないのではないかと思う。
まあ、大抵の女性は防犯ブザーを持っているだろうけど、実際に手に持って、いつでも鳴らせる体勢でいないと、後ろから組み付かれた時に、カバンから出して・・なんて悠長な事は出来ないんだから、持っているだけで安心してはいけない。ということだろう。
オッチャンの余計なお節介かもしれないが、「自分は大丈夫」なんて思わず、是非とも妙齢の女性には「やり過ぎくらいの警戒心」を常に持っていただきたいと願わずにいられない。
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男子たるもの、一度は懐柔されてみたいものだ。
薄暗い密室で、明らかに小間使いと思しき男から菓子箱を差し出されて、
「こちら、お口汚しではございますが・・。」
黄色い布の中には数百枚の福沢諭吉さんが白けた目でこちらを見ている。
「ほう、これは結構なお菓子ですな。ウチのが喜ぶだろうて。」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。それでは何とぞ、ひとつよしなに・・。」
「うむ?なんのことやら分からんが・・ほっほ・・冗談じゃ。万事任せておけい。」
「先生もお人が悪い。」
「なに、お前の主人には負けるわ。ふっほっほっほっほ・・」
「ひっひっひっひ・・・」
という、非常にありがちなやり取りをやってみたいのだ。
誤解の無いように言っておくが、「収賄願望」ではなく、「懐柔願望」であり、別に権力や特殊能力に対してお金が欲しいわけではない。
いや、もちろんお金は欲しいが、それに見合う権力も特殊能力も持ち合わせていないので、おそらく生涯のうちに、懐柔されるという栄誉に恵まれる機会は巡ってこないであろうという半ば諦めからの憧憬の念であり、もし、まかり間違って懐柔されようものなら、きっとビビって逃げてしまうであろうし、どちらにしても縁の無いものなのであり、だからこその「懐柔願望」なのである。
ちなみに、私は家族内で口ゲンカになった場合、そこに居合わせた人間に、
「ちょっと。200円やるから味方になって。」
と、敵前堂々懐柔を試み、
「200円?安いな。なめてんのか。」
と返されて余計に敵を増やします。
やはり懐柔は使わない、使われない方がいいのかも知れないと思い始めている今日この頃である。
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非常に下品な話で申し訳ないのだが、
究極の油断というものがあるとすれば、それは「おなら」をしている時だと思うのだ。
なにしろ、普通に緊張していて当たり前の、むしろ緩んじゃいけない「括約筋」が、つい緩んでしまうほどの「油断っぷり」だからであり、果てしない人間関係のなかでも、「おならの音を聞かせてはならぬ」という間柄の割合が圧倒的に多いことからも、その「油断指数の高騰」はうかがい知れよう。
「ほっとする」
という表現がある。
忙しさや、危機が去って、安堵する様を現しているのだが、この表現は生ぬるい。
前述のとおり、人間、もっとも安堵し、安心し、油断している時には「おなら」が出るのだ。
であるから、
真に正しく、「安心しました」を表現したいと欲するのであれば、
「プッとする」
というのが正解である。
たとえば、
「銀行の融資が決まって、経営危機がひとまず回避され、『プッとしました』。」
「ヒロシ君、浮気してると疑ってたんだけど、友達だったんだって。『プッとしちゃった』。」
「まだ、奴らは襲ってくるだろう。『プッとする』のは早いぜ。」
「ああ、ポチョムキン、無事だったのね。『プッとした』・・・。」
どうですか。
『プッとする』をひとたび使ってしまえば、「ほっとする」という表現のなんと生ぬるいことか、賢明な諸君には瞭然であろう。
他人に対して、自分の心情を表現する時に、労を惜しむのは必ず良い結果を生まない。
吐息のみで安堵を伝えるのではなく、腸や、肛門をフル活用して、お節介なほど分かり易く、無意味に大仰に表現してもらいたいものである。
プッ。
あ、失礼。
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暑い日には、アイスを買って食べる。
それも、大体が「ガソガソ君(ソーダ味)」1択だ。
たった60円であの清涼感は、もはや芸術、感動と賞賛の嵐である。
全米も震撼である。
日本列島も泣く。
まあ、それは良い。
ただひとつ困った事がある。
「ガソガソ君」は、当たりが出たらもう一本なのだ。
グリップの木材部分に、「あたり」の焼印があれば、それはすなわち、ただの燃えるゴミが60円の価値を持つ棒キレに変貌を遂げるのである。
果たして。
幸運にも、「ガソガソ君のあたり」に恵まれた28歳日本男児の正しい行動はどれなんだろうか・・。
迷わず購入した店舗にゆき、交換するというのは、正直、かなり恥かしい。
あたり棒を無邪気に交換できるのは、中学校3年生までだと思っている。
28歳のオッチャンが、
と得意満面の体をさらすのは、かなり痛いだろう。
その恥かしさが60円に見合うかどうかは大いに疑問だ。
むしろ普通に買いたい。
大人だもん。
ではどうしよう。
捨てるか。
否、それは出来ない。
思いがけない幸運といものは、自分以外の何かが運んできてくれるものだ。
その何者かの好意をソデにするなんて、罰当たりこの上ないというものだろう。
では、持っておくか。
いやだ。
酷く貧乏クサイ。
誰かに見られたら、多分、店に持っていくよりも恥かしいだろう。
ある意味。
その辺の子供にあげるか。
だめだ。
このご時世、何をどう誤解されて、いつの間にやら手が後ろに回っているかも知れない。
アイスのあたり棒を処分するのに、クサイ飯を食ってたまるか。
ああ・・!
どうすればいい・・!
これほどあればあったで嬉しいが、これほど処分に困るのは、分厚いエロ本と、アイスのあたり棒くらいなものだろう。
そんなことを考えているうちに、「ガソガソ君」を食べ終わる。
震える手で棒をひっくり返す。
・・・
何も無い。
ふう・・
幸か不幸か、今まで当たったことは無いのだが、毎回こんな事を考えつつアイスを食べる。
棒を見ないようにすればいいとか、当たりの付いていないアイスを食べれば良いとか言うのは、根本的な解決にはならないのだ。
何故なら私は、当たりが欲しいし、ガソガソ君が食べたいからだ。
矛盾している?
だから苦悩しているんじゃないか。
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「たろぐ」さんところの「電磁メカ」を読んでいて、ふと思い出した。
私の兄は元ヤンキー。
いまでもややヤンキーなのだが、当然、友人のお歴々もヤンキー揃いで、後輩も先輩も漏れなくヤンキーの、言わばヤンキーの遺伝子が集まったヤンキー一族を形成していた。
まあ、ヤンキーはこの際あまり関係ないのだ。
ただ、久しぶりに「ヤンキー」と言う言葉を入力して、その言葉にちょっとハマっているだけなのだ。
そのヤンキー兄の友人のヤンキーは、実家が理容店を経営しており、その仕事を継いで床屋さんになった。
ある日の事、その理容店に、後輩の高校生が来店し、髪のセットをお願いしたのだ。
勿論、当時は剃りこみを深く入れる、いわゆる「鬼ゾリ」が根性の証しであったから、
「センパイ!おもっきし気合いの入ったソリ、入れてくださいッス!」
「おお、まかしとけや。」
後輩ヤンキーはイスにドカリと座り、先輩ヤンキーのセンスに頭髪を委ねたのである。
ところで、散髪時には大きく二つのタイプがある。
ず~っと散髪の行方を見守るタイプ。
そして、つい、寝てしまうタイプ。
この後輩ヤンキーは、不幸な事に後者であった。
先輩ヤンキーは眠っている後輩の頭に気合いを表現すべく、深くソリを入れてゆく。
すこし離れて全体のバランスを見ている時に、偶然にも鏡に映ったテレビに、「電子戦隊デンジマン」のオープニングが流れ始めた。
「♪デン、デンジマン!デン!デンジマン誰かがどこかで叫んでる~♪(ちょっと歌詞うろ覚え)」
「ほう、デンジマンか。あいつら、気合い入ってるよなあ。」
何故か、デンジマンに気合いを感じてしまった先輩ヤンキー(理容師)。
目の前には整髪による気合い注入中の後輩(高校生・熟睡中)の頭。
かくして、悲劇の条件は揃った。
・・・
20分後。
「おら!起きろや!」
先輩ヤンキーに蹴飛ばされ、慌てて起きる後輩ヤンキー。
「あ!すんません!寝てました!」
「知ってんよ!先輩の前で寝るとはナメてんかオメー!・・まあいいや。頭、バッツリ気合い入れといたからよ!」
「あ!すんません!ありがとうござ・・」
鏡を見て凍りつく後輩ヤンキー。
「な!気合い入ってんべ!?」
かなり得意げな先輩ヤンキー。
その後、「俺のカットに文句あんのか!?」とブチキレる先輩ヤンキーに、マジ泣きして哀願し、全体を刈ってもらって、辛くもデンジマンカットを逃れた後輩ヤンキー。
這う這うの態で逃げ帰った事は言うまでも無い。
これが、今現在に至るまで、兄の仲間内で語り継がれている「デンジマンカット事件」のあらましであり、紛れも無い実話である。
現代なら、訴訟に発展してもおかしくないこういう事が、「ちょっとしたイタズラ」として許されたあの頃は良かったなあ~という懐古を込めて。
ちなみに、それからしばらく、
「弟クンもデンジマンにしてやっか?」
と再三誘われ、人知れず
デンジマンの危機にさらされていた事は、今となっては良い思い出である。
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告白します!
ワタクシ、まだ無精ヒゲの生えない頃、無精ヒゲの事を
だとばかり思っておりました!
「あんた、ブショウヒゲみっともないから剃りなさいよ!」
という会話を聞くと、
「ええ?そんな立派なヒゲ、剃るのはもったいなくないか?」
と本気で思っておりました。
おまけに、
「出不精」の事も、
「デブ性」だとばかり思っておりました。
つまり、太りやすい体質の事を指すのだと。
「私、出不精でさあ。」
と会話を振られた場合、
相手によって微妙に会話が繋がったり繋がらなかったりして難儀しましたとも。
「・・・ああ、そうかも知れませんね。」
「?・・でしょー。」
とか、
「え?そんなに太ってないじゃないですか!」
「???」
とか。
「不精」って誤解を招きやすいので、注意しましょう。
(普通、間違えません。)
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私の行きつけの店は、よく無くなる。
もともとあんまし買い物とかはしない方なのだが、それでもよく行く電機屋さんとか、コンビニとかくらいはあるものだ。
その、「よく行く」頻度の高い順番から、見事に消えてゆく。
昨日もそうだった。
ここ何年か、コンビニといえばここだな。
くらいの頻度(といっても週に1~2回ほどだけど)で利用していたお店が、どうやら閉店してしまったようだった。
前を通りながら、
「ああ・・!ここもか!」
と嘆息し、思えば結構利用していたパソコン用品屋さんも、もうすぐ閉店するというし、本当行く店行く店ことごとく無くなる。
しかし、理由がわからないでもない。
もともと、人が沢山いるところはニガテな性分で、人気を避けて店選びをすれば、自然と人気の少ない店、よーするに流行ってない店ばかりを選んでしまうのであり、そういうところばかりに行っていれば、当然無くなる可能性もかなり高いということになる。
ということは、逆に考えると
私が立ち寄るということは、流行ってない証しという事になるわけで、流行っている所には入りづらく、ヒマな店にコソコソ入るという行動から考えても、私は貧乏神そのものと取れなくも無い。
この、お客の持つ「気」みたいなものは確かにある。
その「気」は、お客さんの「嗅覚」が発生させるものではないかと思うのだ。
「良い店」を見分ける「陽」の気を持つお客さんの後には、当然他のお客さんも来る。
私は性分と長年の蓄積から、残念ながら今のところ「陰」の気を持ってしまっているので、行く店行く店なくなってしまうのかもしれない。
彼女と連れ立って歩くようになってから、流行っている店にも出入りするようになったのだけど、なるほど確かに人気のある店には、細やかな工夫がなされており、そう行った所から「陽」の気が出ていて、眩しい。
感心するとともに、そこで勉強して(パクって)、自分の店に反映することも出来るわけだ。
しかし、これだけの高確率で無くなるということは、もしかすると今に、どこからも入店拒否されるんじゃないだろうか・・。
という心配が常に付きまとう今日この頃である。
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漢字の起こりって、実に興味深く、奥深いものだ。
今日は「恋」という字の起こりを知る機会を得た。
「恋」という字は、旧字体で「戀」と書く。
見づらい場合は上イラスト参照のこと。
「『言(この場合は自制心とか、理性)』に糸が絡みつき、けじめがつけられない心の様子。」
の事なんだそうだ。
なるほど、恋ってそうだねえ・・。
だんだん染み込んできて、寝ても覚めても想ってしまうものさ。
けじめとかそういうものは付けられそうもなくてねえ。
それでとんでもない失敗をしたりもするんだけど、人生でそういうとんでもない失敗も必要な時期があるって事なのかも知れないなあ・・と最近思うようになった。
ついでに、「愛」っていう字は、
「心を傷めてうずくまる人の様子」なんだって。
真ん中に「心」があるもんね。
「愛」ですよ。
心を傷めるってのは、苦しい事なんだけど、自分自身に向いてる傷じゃないんだ。
自分以外の誰かのために、心を傷めるから「愛」なんだ。
「神様というものがいるとすれば、それはあなたのした事を悲しんでいる誰かの事だ。」
というようなことを詠った短歌もあった。
(「特殊歌人」枡野浩一さんの歌です。興味のある方は、枡野浩一著「君の鳥は歌を歌える」を購入して読んで下さい。
誰かのために心を傷めるってのは、純粋な損得勘定で言えば損なことなんだけど、それっていうのはとても大事なことで、少なくとも色んな事が分かってくるのだろう。
だから、大切な誰かのために、心を傷めつづけられるイカした(イカれたじゃないよ)オッサンになりたいと思います。
そのための「恋」であり、
そのための「愛」なのだろうから。
う~ん・・我ながらクサい文章だなあ。
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多層階の建物で、上り下りに使われるものといえばエレベーターとエスカレーターがある。
私は、どっちもニガテなのだ。
同伴者などがいる時は別にして、一人で行動している時は、たとえ目的地が7階だろうが10階だろうが階段を駆け上がり、駆け下りる。
もちろん、息は切れますし、たまにすれ違う従業員と思しき人たちに、明らかに奇異なものを見るような視線を向けられますが、そんなこと気にしない。
しかも、たまに足が上がりきってなくてつまづいて転んだりもするけど、それまた気にしない。
・・恥かしいけど。
エスカレーターも、別に乗れないことはない。
乗り込む時に躊躇したり、タイミングが計れないなんて事も無い。
ただ、あの階段に乗って、すい~っと登っていく時のゆっくりさにイライラする。
「ああ~!もう!」となって、結局動く階段の上を歩いてゆく事になるんだけど、その様を客観的に考えると
「急いでもいないのに、時間を無意味にケチっている」ように見えて、なんだか自分に釈然としないものを感じて止まなくなり、どっちにしても精神衛生上よろしくないので、それならばと階段をヨチヨチ登るわけだ。
決してせっかちなわけではないのだけど。
せめてもう少し、エスカレーターの進行速度が速ければ・・。
ガン●ムのカタパルトくらいに。
エレベーターも別に乗れないことはない。
毎回ドアに挟まれたり、あの一瞬来る無重力感に酔ったりする事もない。
あ、でも、実は二十歳くらいまでエレベーターにほとんど乗ったことが無くて、イマイチあの上下スイッチの使い方が分からなかった事がある。
たとえば、自分が3階にいて、これから1階に行こうと言う時に、エレベーターが2階にあったとする。
そこで、普通なら当然スイッチは「下」を押すんだけど、どう言うワケかその頃、
「カゴを上に持ってくるんだから、当然『上』を押すんだろう。」
と思いこんでいて、何の迷いも無く「上」を押して乗り込み、目的地とは反対方向に連れて行かれたこともあった。(実話)
それが心的外傷となってエレベーターに嫌悪感を感じてしまったのだ・・ということでも勿論ない。
強いて挙げるなら、「エレベータに乗ると笑ってしまう」という奇癖が原因かもしれない。
エレベーターの中で、何人か人がいると、みんながみんな視線を中空に放っていたり、所在なくなんとなく階数表示を見ていたり、ひたすら気配を消して押し黙っている。
エレベーターの小さい箱の中に、
「・・・・。」
が充満しているのだ。
そういう雰囲気の中にいると、自分も同じ事をしている事に、つい可笑しくなってしまって、
と、このように不気味にほくそ笑んでしまい、ますます周囲の変な、あるいは冷たい視線を集めてしまうのである。
そういうのは、多分、周りの人間にとって精神衛生上よろしくないと思われるので、結局階段をヨチヨチ登るのだ。
決して、皆さんを笑っているわけではないのだ。
せめてもう少し、エレベーターの中が自然な雰囲気であったなら・・。
鼻歌を歌っても訝しがられないくらいに。
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今日は選挙の日。
私も昼間の仕事を終えて、ヘロヘロながらもしっかり投票してきましたとも。
しかし、人いないわ・・。
テレビなんかでもやってるけど、投票率半分も行かないみたいだし。
・・・てえことはつまり、国民の半分以上の人が今の日本に大満足を感じているのですね。
「言うことナシ!」と。
へえ~。
これで満足してるのかあ~・・。
馬鹿だあ~・・。
今の世の中、投票率が衆院、参院問わず、90%は突破しないとウソだと思うのですがね。
民主政治って、基本的に多数決でしょう。
多数決なら大勢にとって都合のいい仕組みが出来て当たり前だと思うんだけど、どうして今、殆どの人間にとって都合の悪い仕組みになっているのだろう?
それは多分、多数決に参加する人が少ないからじゃないかなあ~と思うわけだ。
もちろん、民主政治とは言え、政治ってのはよーするに「少数による多数の支配」だからね。
でも、「多数が支配する少数を選べる」ってのが民主政治のミソだと思う。
もし、ズル賢い人が一部の人たちと示し合わせて、あるいは利害によって、あるいは圧力をかけて意見をまとめた所で、どんなに頑張っても全体の3割がいいトコだと思うのだけどね。
10割が意見を言い合って方向を決めるなら3割なんて少数意見に入るんだけど、もし、半分の人間が意見の発言を放棄したら残りの5割のうちの3割の意見が「全体の意見」になっちゃうんだからさ。
そうやって、3割の人間によって作られる3割の内のごく少数の人間にとって都合よく、結果9割以上の人間が苦しめられる仕組みが作られるってことなんじゃないのかなあ?
5割の無関心が、9割以上を苦しめるってことじゃないのかなあ?
ちがうんだろうか?
選挙に行かない人が、どんな都合や信条を抱えているのかは知らないけど、選挙に行く人はどんなに時間が無くても行くし、行かない人はどんなにヒマでも行かないもんだ。
「選挙に行きたかったけど、時間が無くていけなかった」なんて話は聞いたことが無い。
だから敢えて言わせてもらうけど、
選挙に行かない人って、ホント、バカだねえ。
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「眞鍋かをりのここだけの話」というblogを、最近楽しみに読ませて頂いている。
ニフティの各界の著名人を招いてblogを書いてもらうという趣旨のもので、大体忙しさからか内容が段々なおざりになっていったり、単なる活動告知になっていったりしてしまいがちなのだけど、この眞鍋かをりさんの文章は素直に面白くてつい読んでしまう。
実は、私はテレビもほとんど観ない上に芸能界にもまったく疎いので、眞鍋かをりさんがどういう活動をしているのか全然知らなかったりするのだが(すみません。)。
しかし、タレントさんであり、女優さんであり、とてもキレイな人で、文章が面白い方だという事は分かりました。
これからも、かなり影ながら応援してゆきたいと思います。
それはさておき。
眞鍋かをりさんの記事、「想い出がいっぱい by H2O(ちっちゃい2がかけないよ!)」の中で、「思い出ボックスの中で、中二の頃のアレな自分に再会した。」というくだりを読んでいて、ふと自分の14歳の頃を思い出していた。
・・・
ああ・・!
俺もバカだったなあ~・・。
思えば、中学生の頃って一番バカな時期なんじゃないだろうか。
小学校から上がって、やたら気合が入っていて、一番オトナぶりたいのにその方法も分からず、その上自分を客観的になんて全然見られなくて、傍から見るとどんな滑稽な事も大真面目にやってのけてしまう。
中でも14歳って、中学校にも慣れて、受験もまだそんなに気にしなくて良くて、自然とバカ指数が上がる時期でもあるだろう。
私も例に漏れず、ニキビ面で頭髪をスーパーハードのムースでバリンバリンに固め、(昔の)キッカワコウジさんばりのホストのような服を着て、自転車に乗り、ゲームセンターをウロついていた。
(上図参照)
当時はそれが我ながらすんごくカッコイイなあ~と思っていたんだからしょうがないんだけど、今思うと、よくあんな恥かし過ぎることをやったよなあ~・・と感心すらしてしまう。
さすがに中二の頃のバカは今となっては出来ませんが、私の場合、姪っこ(4歳)などに「何か描いて~」とせがまれると、反射的にウ●コを描いてしまい、その様子を見ていた母に
と言われます。
・・3歳から成長なし・・か。
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割といつもそうなのだけど、取材は突然やってくる。
昨日、テレビの取材を受けた。
東日本放送のニュース番組で、県内の夏のレジャー情報を特集するとかで、ウチのおこわのランチと、体験陶芸を紹介したいとの電話を前日にもらい、まあ、予約20人以外は予定も無かったので、軽く「いいッスよ~。」と受けてしまったのだが。
体験陶芸を教えるのは私の仕事なので、工房で実際にアナウンサーの方に教えて、その様子をカメラで撮る。
思えば、今まで何度か取材は受けたけど、大体隅っこの方で能面のような顔をして映っているだけだったので、こうやってメインの位置で撮られるのは初めてだという事に気付いて、目の前で手馴れた様子で積まれてゆくカメラやら、画面チェック用のモニタやら、初めて着けるピンマイクやら、「なんだか、エライ事になっとるなあ~・・」と、他人事のように眺めていた。
ちょっと緊張したけど、いつものやり方で教えるだけなので、大過なく撮影は終わった。
次にランチの方撮ります。
と言われ、「あ!」と思いつき、試しに言ってみた。
「あのですね。ウチ、ピザもやってるんですよ。ホラ、そこの石窯で薪で焼いてるんです。」
「ああ!あれですか!スゴーイ!」
お!食いついた。
よしよし・・。
「夏休みだと、子供さん連れも多いでしょうから、ピザなんかウケると思いますよ。」
「そうですね!じゃあ、ランチと一緒にピザを出してもらって、焼いてるところも撮らせてください。」
おお!
やった!
ドサクサにまぎれて、ピザの宣伝にも成功した!
結局、今回は母の山菜のランチと、私の体験陶芸と石窯ピザの取材となった。
割合としては、かなり私の方が多いはずなのだが、いざ放送する時に、どういう編集がなされているのかが気になるところではある。
そして、もうひとつ問題があるとすれば、ウチは東日本放送が映りづらいということだろう。
当日は、どこか知り合いのウチ(街に住んでる)で見せてもらうことにしようかとも考えていたりする。
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一体、何がどういう具合でそうなるのか皆目見当もつかないのだが、大体半年に一度、クツヒモがほどけまくる日がある。
そうなると、何度結びなおしても、いくら固く締め上げてもパラリとほどけてしまい、忙しい中かがみ込んでクツヒモの世話をしなければならない憂き目に遭う。
大体にして、私はモノグサなので、紐靴はヒモをゆるめに結んだまんま足をズボッとねじ込んで履く。
もしかすると、それは靴にとっては小さな侮辱であり、それが積もり積もって大体半年に一度暴発して、
「たまには結んでみたらどうなのよ!」
とか、
「釣った魚にはエサをやらない主義なのね・・!」
とか、
「いつでも履かせるような、簡単な靴だと思わないで!」
とかいう意思表示をしているのかもしれないが、「男尊靴卑」の考え方の強い私は、
「生意気な靴め!いつからそんなに偉くなった!」
「足を守る意外に能が無いお前に、何が分かる!」
などという罵詈雑言を浴びせかけ、力ずくでヒモを結ぶという凶行に及んでしまうのだ。
つまり、コスメティック・バイオレンス(暴力的なお化粧?)と言うヤツです。
しかし、世の中には上には上がいるもので、私の姉などは、同じく良くクツヒモがほどけてしまう悩みに遭った際、迷わず結び目を瞬間接着剤で固めたと言う伝説の持ち主であり、
「姉よ、それはいくらなんでもやり過ぎだ。」
と、言わずにはいられない今日この頃だったりするのである。
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こないだ、日展を観る機会に恵まれ、ねぶるように観て来た。
絵画、工芸、彫刻などと一緒に、当然「書」もあった。
勉強不足で意味は分からないけど、「書」には以前から興味があり、とても楽しみにしていたのだが・・。
・・・
読めねえ・・!
なんじゃ、このミミズが這ったような線は・・。
「お前なんかに読ませるもんか」というメッセージだけは受け取れるような、半紙に墨が乗っかった痕跡だけが見て取れ、たまに、「あ、しまった。」という感じで読める字がある。
しかも、全体の8割がそれで、大体が高評価を受けている。
これは、私だけが読めないのだろうか・・。
とも思ったのだが、そうでもないようで、みんな作品の脇に貼ってある解説と見比べながら、字を当てて探しているようだった。
つまり、「書」というのは「字」ではないのかもしれない。
だって、「字」は、万人に読めなければ用を成さないのだから、ごく一部の人間にしか読めないものは暗号でしかないんじゃなかろうか?
個人的に、「とても上手で達筆だけど、読みづらい字」より、「とてつもなく下手だけど、読み易い字」の方がはるかに上等だと思っているので、この達筆を極めたがっているあまり、意味不明になってしまったように見える字にはなんら感じるものが無かった。
それは私の感性が追いついていないだけなのかも知れないけど。
「書」の第一印象はあまり良くないものだったけど、これから機会を見つけては「書」を見て、勉強したいと思います。
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宮城県人なので、どうしても8月7日じゃないと七夕~って気がしないのだけど、全国的に七夕である。
せっかくの七夕なので、「トラックバック野郎」へのトラックバックがてら、七夕の中心で願いを叫んでみたいと思う。
え~と・・
とりあえず、自分自身には不満は無いなあ・・。
まあ、これはこれでそれなりだから。
周りにもそんなに不満は無いし・・。
うーん・・。
・・・おあ!?
考えてる間に8日になっちゃった!
ああ・・!
来年こそはちゃんとお願い出来ますように・・。
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私の中に「バレエの才能」を見出されてしまったのか、バレエ教室からオファーが来ている。
正直、自分でもバレエは向いていると思うし、あのユニタード(レオタードの男性用をこう呼ぶらしい)を着てみたいという密かな願望もあるのだが、「バレエ界の臥龍、鵬雛」と噂される私が始めようものなら、水を得た魚の如く、クマガイテツ●さんをも瞬く間に凌駕してしまうかも知れず、あっという間に違いが分かってしまうことも火を見るより明らかだと思われる。
・・・冗談ですが。
実は、姪っこが週一回通っているバレエ教室で、冗談めかしく「やってみませんか?」と言われただけなのだ。
姪っ子を毎回連れて行ってる婆ちゃん(つまり私の母)も、バレエの手ほどきを受けていて、その母に、たまに私もバレエレッスンを受けていたりするのである。
「プリエ!そのままカカトを上げて!上体伸ばす!カカトを前に押し出して!足曲げない!」
バシ!
「ああ・・!」
などという血の滲むようなレッスンが繰り広げられているのだ。
厨房で。
時たま、優雅に親子で踊る姿をお客さんに目撃されるが、そんな時は気にせず踊る事にしている。
何故なら、私たち親子にはダンサーとしての血が脈々と流れており、踊る事が即ち生きる事であるからだ。
誰が私たちの舞踊を止める事が出来ようか。
否、出来ない。
出来ようはずが無い。
バレエというのは、実に理に叶った運動方法で、普段滅多に使わないような内側の筋肉まで酷使するため、非常に均整の取れた美しい肉体が出来るらしい。
実はバレエに興味のある私だが、バレエ教室には行かないであろうと思われる。
何故なら、教室にいるのがオバチャンとガキンチョだけだからだ。
男の動機には、妙齢の女性が必須なのだ。
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非常にケチくさい話で恐縮なのだけど、
クルマにガソリンを入れる時、余程長距離を行く予定でも無い限り、10リッターだけ入れることにしている。
以前は20リッターずつ入れていたんだけど、最近のガソリン価格の高騰で、リッター115円、安いところでも113円という異様な高値がキッカケとなり、10リッター作戦を採ることにしたわけだ。
万年金欠と言えども、ガソリンを満タンにするくらいのお金は持ち合わせているのだが、敢えてしない事にいくつかの自分なりの理由がある。
一つ目は・・・これは仮説なんだけど、ガソリンを満タンにすると、車重が大きくなり、その分余計に油を食うのではないか?だったら、ガソリンを少なく入れて、消費ロスを抑えれば走行距離は伸びるのではないか・・という事。
まあ、その微々たる分も、ガソリンスタンドに立ち寄るわずかな距離や、時間のロスを考えると決して得ではないかもな・・。
と、最近考えはじめているのだが・・。
二つ目に、これが一番大事なポイントなのですが、ガソリンが入っていないと、自然に安全運転になるという事です。
何しろ、急発進、急加速、急ブレーキは危険なのも勿論、ガソリンの浪費に直結しますから、絶えず腫れ物を触るような運転になります。
すると結果的に、走行スピードも平均化され、うっかりネズミ捕り公道での速度超過指導や、白バイに引っかかるなんて事もありません。
・・そして3つ目に、ガソリンが沢山入っていると、他の人に乗られまくってしまい、いざ自分が乗る時にカラッポになっている事が多いというのが一番の理由かも・・。
最近では、給油ランプが点いてから何キロ走れるかでハラハラとするスリルも密かな楽しみになってきて、もともとリッター9キロと言われていたクルマも、リッター11キロまで伸ばすことに成功した。
もっと色々考えて、省エネ運転を極めてみたいものだと思う。
地球環境と、私の懐のために。
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以前、コメントの欄に、うっかり「私は今でも現役の妖精です。」と書いてしまったのだが、たまたま彼女(以下相方)がその文章を読んで、どうやら実は私が妖精だということを知ってしまったらしいのだ。
妖精だという事がバレてしまったのは仕方が無いし、いつかは話そうと思っていたことなので、ついに来るべき時が来たか・・という感じなのだが、どうもその事実が相方の心の琴線に触れてしまったらしく、妖精であるという事についていじられまくるという予想外の展開を迎えてしまったのである。
久しぶりに逢った時も、いきなり挨拶が
「こんにちは。見たよ。妖精だったんだってねえ。」
である。
まあ、それは軽く
「ああ、28歳で現役の妖精ってのはちょっと珍しいし誤解を招きやすいから、黙っていたんだけどね。」と返してやったのだが、それから事あるごとに妖精であることについていじってくる。
「今日は妖精のステッキ持ってないの?」
「妖精だから、地下鉄代いらないんじゃない?」
「今日は空飛ばないの?」
「妖精の魔法で、日展のチケット2枚にしてよ。」
などなど・・
妖精でなくても困惑するような、不当な要求を次々繰り出してくる。
昔はティンカーベル(ピーターパンに出てくる妖精)並に、それくらいの事は出来たのだが、齢28ともなると、もはや妖精の魔力は弱まり、肩書きなど有名無実化しているのだ。
相方の要求にひとつとして応えられない、妖精としての自分の無力さに、この時ほど打ちのめされた事は無かった。
おそらく、もうしばらくはこの「妖精ネタ」でいじられまくるのだろうが、それが自業自得とはいえ、早く過ぎ去って欲しいものだと願わずにはいられない。
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別にキレイ好きというわけでも、ましてや潔癖症なんかでもないんだけど、どうしてか本屋に並んでいる雑誌を買うときって、一番上に置いてあるモノは買わない。
一番上から4冊目くらいの、明らかに誰も触っていないモノを抜き取って買ってしまう。
ということに最近気付いて、どうしてなのか考えてみた。
まず、キレイ好きでなくても、誰が触ったのか分からないものを、その場でお金を出して買うというのは生理的にイヤ。
その一冊しかないならともかく、選択肢がその下に沢山あるのだから、わざわざそれに手を出さなくてもいいだろうな・・という心理は大きいと思う。
一番大きかったのが、以前、私が買おうと思った雑誌と同じものを立ち読みしている人がいて、丁度読み終わったのか、本を閉じ、ベチャッと一番上に置いていったのを見たことがあって、その行動がまるで鼻をかんだティッシュをそこの放り投げてゆくような感じに見えてしまい、そのあまりの行動の美しくなさに辟易したという事があったからだろう。
上手く抜き取らないと、積み重ねてある本が崩れて、立ち読みしているサラリーマンなどの冷視を注がれ小さな恥をかくこともあるが、それでも抜き取らずにはいられない。
私の身内にも同じく、「雑誌はしたから抜き取って買う」という人がいるんだけど、その人は以前、本屋で「週刊少年ジャンプ」を買おうとして、平積みしてあるジャンプの下から本を抜き取った。
そのまま他の買い物と一緒にレジに持ってゆき、本を置くとなんとそこには「プレイボーイ」があるではないか。
その人は女性なので、「何故!?」と驚愕し、レジのオバチャンにも「ホントにコレでいいの?」と聞かれてしまったという。
まあ、ここまでよく見ないで買う人はそういないだろうけど、こういうレアなこともあるようなので、注意したいと思います。
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物事は、大抵遅すぎて、そうでなければ早すぎるもので、「丁度いい」という事ってホントに少ない。
しかし、いつも上手く行かない事ばかりだからこそ、稀に訪れる「丁度いい」事が、たまらなくありがたく、貴重なものに思えるのだろう。
今日は、奇跡的といえるほどの「丁度良さ」で訪れた幸運に恵まれたので、是非ともここに書き残しておきたいと思った。
丁度今、宮城県に、17年ぶりに「日展」が来ていて、丁度そういう展覧会を見るのが大好きな私は、丁度明日休日なので是非観にゆこうと思っていた。
丁度そこに、私の担当する陶芸教室の会員さんであるフクトミさんが来た。
フクトミさんは、いつもなら毎週木曜日に来る人なのだけど、今週に限って色々な事情が重なって月曜日に来たのだ。
「今日は、珍しいですね~。」
などと話をしていると、フクトミさんは懐から一枚の紙を出してきてこう言った。
「先生、日展の券、要りません?」
「ほ?」
あまりのタイミングの良さに、一瞬呆然とする私。
「日展って、今、仙台に来てる日展の事ですか?」
と、少々マヌケな質問を返す。
「そうです。昨日友達と行ったんですけど、一人来られなかった人がいて、一枚券が余っちゃったんです。良かったら差し上げますから、観に行ってください。」
というではありませんか。
なな、なんというラッキー。
実は入場料の1,000円が、万年金欠の私にはちょっとキツイなあ~・・と思っていた矢先の、あまりに丁度いい出来事。
「いただきますいただきます!ありがとうございます!!」
冗談のようなホントの話。
まるで何かに導かれるように、一番欲している人間の所に、一番良いタイミングで舞い降りてきたチケット。
しかも無料。
これはもう、「日展」が私に観にきてくださいと言ってるに違いない(多分、そんなことは無いと思うが)。
そこまで言われちゃあしょうがない。
明日は「せんだいメディアテーク」まで「日展」観に行ってきます。
フクトミさん、ありがとうございました~!
ふひょひょ・・楽しみ~!
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昨晩、蚊の大群に襲われた。
被害は腰に一箇所、右腕2箇所、左腕1箇所、太腿1箇所、「ひかがみ」というかなりレアなポイントにまで一箇所喰らってしまった。
おかげで今日は、朝っぱらから痒いやら頭にくるやらで散々だったりするのであるが、蚊の立場に立ってみれば、積年の鬱憤が積もり積もっての計画的集団決起であり、暴力と殺戮のの連鎖の果てに辿り着いた酸鼻極まる事態であろう事は否定の仕様が無い。
というのも、私は滅多に蚊に刺されないのだ。
肌が敏感なのか、単に臆病な性格の副産物か、蚊が吸血すべく肌に止まると、感覚ですぐに気付いてしまい、針を刺す寸前に払い落とすなり、叩き殺すなりしてしまうのである。
蚊も、あながち馬鹿ではないので、首の後ろや、肘の裏など、人体の構造上気付かれにくく、発覚しても被弾の確立の少ないところを狙ってくるようになったのだが、それでも私は蚊の刺突・吸血を許さなかった。
過去に幾多の己の腕に頼む所のある万夫不当の豪傑蚊が、私の血を狙って忍び寄ってきたが、それらはことごとく屠られ、周囲に屍山血河を築くに過ぎなかったのである。
そして、ついに昨夜の惨劇が起こった。
蚊らは、昼のうちに私の部屋に侵入、潜伏し、私が寝静まった頃合いを見計らって大挙して押し寄せ、私の全身を流れる血という血をほしいままに吸血、蹂躙したのである。
深夜、かゆみに目覚めた私は失血と(?)怒りに蒼ざめ、すぐさま化学兵器(蚊取り線香)の投入を決意。
部屋を密閉して焚いたため、私自身もかなりのダメージを被ったが、憎き蚊たちへの報復は成ったのである。
私と蚊の戦いは、まだ序章に過ぎず、恐らくこれからさらに激化し、凄惨を極めてゆくと思うが、霊長類の尊厳にかけてこの戦いに勝利せねばならないと悲壮な誓いを新たにするのである。
たとえ、それが果てしなく不毛な結末を約束されたものであったとしても。
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「若き陶芸家(ニフティ株式会社公認?)」の私も、今のご時世(というより、ただ単に修行が足りないだけだけど)、陶芸だけでは食べていけないので、自分で石窯をこしらえてピザを焼いて見入りの足しにしている。
今日は天気も良くて、そよぐ風も爽やかでなんとも心地よく、ウチにも子供を連れた家族連れが沢山訪れた。
そうなると、俄然私のピザは忙しくなるのである。
特に今日は予想以上に枚数が出て、事前に用意したピザ生地が足りなくなるという事態に陥ってしまった。
そこで、注文をこなしながら生地も同時に焼くという事になったのだが・・。
いつものように生地を丸めて窯の前に持ってゆき、ポンポンポン!と手の間で少し伸ばして、ある程度伸びたところで空中に向けて回しながら投げる。
よく、イタリアのピザ職人がやっている事のマネなんだけど、これをやると生地の端に厚みを残したままキレイに丸く伸ばす事が出来るのである。
次から次にヒョイヒョイ投げて伸ばしていると、横合いから「すげえ~!」という声が飛んできた。
ふと見ると、いつの間にか子供とその親御さん達が生地伸ばしの様子を見ていた。
「こんにちは。」と軽く挨拶をして、時間も無いので急いでクルクル回していると、子供らはそのたびに
「おお~!」
「すご~い!」
「じょうず~!」
などと喜んでくれるのである。
ほうかほうか。
オッチャン上手いか。
「カッコイイ~!」
ほうかほうか。
オッチャンカッコイイか。
すっかり気分を良くし、持ち前の無駄なサービス精神をいかんなく発揮し、いつもより多く回す私。
そうして密かに悦に入っているうちに、注文がドカドカ入ってきたので、急いで厨房に戻らねばならなくなった。
今、焼いたばかりの生地に盛り付けをしようと皿にのせて見たところ、明らかにいつもよりデカく、皿からハミ出している。
「あれ?なんか、今回の生地、妙に大きくない?」
と周囲の人間に言われたが、まさかその理由が
子供に誉められて、ついいつもより多く回してしまいました。
とは言えなかった。
だって、
オッチャン上手だって・・。
オッチャンカッコイイって・・。
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占いってヤツは、これで結構気にするほうなんだけど、それが行動に何かしらの影響を及ぼすかというと、これが全然及ぼさない。
自分の星座なり、誕生日なりの運勢をわざわざ見るくせに、悪いなら悪いで少しだけ損した気分になって、良いなら良いで「ふ~ん・・」だけで忘れてしまうという。
大体、ラッキーカラーとか、ラッキーアイテムなんて何の意味があるのだろうか・・。
金運が良いからといってギャンブルをするってのも、勝っても負けてもああいうものは時間の損だし、
恋愛運がいいから彼女が出来るかって言うと、結局その人に魅力があって、タイミングが合わなければ無理だ。
よーするに、まるっきり占いというものを信じていないのだ。
そういう考えかたをしているのに朝の「目覚ましテレビ」のカウントダウン占いだかを見ては、みずがめ座の最下位率が異様に高くないか?と憤慨しているのが我ながら矛盾甚だしいと思う。
ところで、以前、ラジオで占いのコーナーがあって、何となく耳を傾けていたんだけど、その占いの内容が少し変だった。
「脂っこい食べ物を摂り過ぎないように」とか、
「黄色の信号などでは止まるように」とか、
「ギャンブルは控えて」とか、
「睡眠不足に気を付けて」とか、
そらー、それらを守ったら悪い事は起きないだろうけど・・。
それは占いというより、「生活習慣に対する諸注意」ではないだろうか・・?
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ハエ獲り紙ってありますね。
あの、リボンみたいなヤツを天井から下げて、そのリボンには粘着性のある薬品が塗りたくってあって、そこにハエが止まると、憐れ、動きを封じられ、そのまま生涯を閉じるという実に理にかなった対ハエ用の秘密兵器のアレです。
あれを見ていてふと思ったのですが、あのハエ獲り紙に、ハエが止まる瞬間って意外にお目にかかれないものではないか。
なんか、知らない間にハエの死骸が増えてるって感じがする。
今日も厨房で、昼時の次々に襲いくるピザの注文に必死に対処しながら、それが気になって仕方が無く、ちらちらと厨房の天井から吊り下がったハエ獲り紙を見ていました。
するとそこへ、いかにももうすぐ止まりそうなデカイハエがブーンと飛んでいるではありませんか。
ハエ叩きに追い立てられ、安住の地を探し求める一匹のハエが、中空を虚ろに漂っているのです。
・・これは、止まる。
密かに、そんな残酷な期待が胸にせり上げてきて、しばらく固唾を飲んでそのハエの挙動を見守っていました。
もう、先ほどから数分止まらずに、疲れ果てている事が傍目にも見て取れるハエ。
目の前の、いかにも「止まってください」と言わんばかりに吊り下がっているハエ獲り紙に向かって、ヨロヨロと近づいてゆく。
「ああ・・!止まる・・!」
ハエの生涯が終わりに対する憐憫の情と、いまだ見ぬ「ハエ獲り紙にハエがくっつく瞬間の目撃」という甘美な好奇的欲望への成就の期待が交錯したその時!
あ!
ハエの最後の意地か、それとも生に対する飽くなき執着か・・。
そのハエはハエ獲り紙という名の虎口を逃れ、私の失望を嘲笑うかのように視界から消えていったのです。
その賢くも誇り高いハエは、その後、母の空気をも切り裂く電光石火のハエタタキ一閃であっけなくその生涯を閉じたものの、あの時見せた命の輝きは、私の心に深く刻まれました。
今回は好機を逸してしまいましたが、いつの日か、「ハエがハエ獲り紙にくっつく瞬間」を見てみたいものだと願わずにはいられません。
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身内と話をしていて、ネットで「明日、人類が滅亡するとしたら、あなたが最後に食べたい物はなんですか?」というアンケートがあったという話を聞いた。
よーするに「最後の晩餐」の話である。
非常にありふれた質問で、まあ、「そんなことはまず無いだろう」という前提のもとに自分の一番好きな物だったり、今食べたい物だったり、思い出や思い入れのある食べ物だったりを答える人も多い事だろう。
中には食べる物は何でもいいから、家族や好きな人と食べたいという人もいるかもしれない。
そういう人って、ステキですね。
しかし、私が同じ質問をされて、毎回考え込んでしまうのは、
果たして「明日死ぬと分かっているのに、何かを食べるという気になるのだろうか?」
という事。
普通に想像したら、不安と緊張と恐怖と未練で悲嘆に暮れるよなあ・・。
ショックで寝込んでしまうよなあ。
どう考えても、そんな状態で
・・・とは思わないのではないか。
多分、質問の趣旨が理解できていないと思われることだろうが、そう思ってしまうのである。
だから、毎日の夕餉を美味しく食べられるためにも、人類は滅亡して欲しくないな~と切に願って止まない。
なんのこっちゃ。
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寝ているときに見る夢。
楽しい夢もあれば怖い夢もあるものだけど、大抵忘れてしまったり、夢と気付かずに目がさめてしまい、「ああ、夢だったのか・・」とガッカリする事もよくある。
でも、たまに「自分は今、夢を見ている」と気付くことがある。
そういう時は、割かし自分の好き勝手な欲望を、かなりリアルに実現する事が出来るため結構楽しいものだったりする。
大分前になるけど、その夜も私は夢を見ていた。
街場に住んでいた頃のアパートの前で、ふと気付く。
「む。これは見慣れた風景だけど、空気が不自然だ。今、夢を見ているな。」
せっかく夢の中にいるんだから、現実では絶対に出来ないことをしないと損というものだ。
と、何をしようか頭を巡らし、すぐに答えが出た。
そうだ。
空を飛ぼう。
一度、生身で空を飛んでみたかったのだ。
しかし、飛び方が分からない。
とりあえず集中して、「浮け!」と念じてみた。
すると、何の抵抗もなく足が浮く。
「おお!?浮いた!ホントに浮いた!」
大はしゃぎ。
そのまま見慣れた風景は角度を変えて行き、段々と見慣れぬ風景になってゆく。
近隣の家の屋根を見下ろすくらいの高度まで上昇した所で周りを見渡すと、はるか下で犬が不審げに吠えかかり、人々は指をさして驚いている。
まだそんなに上昇していないのに、意外と風が強い。
その景観が妙にリアル過ぎて、生身で浮いている自分がとても心細くなってきてしまった。
何しろ、何の根拠も無く浮いているわけだから、突然何の根拠も無く落ちても不思議では無いわけで、そう考えると、今の自分の格好がTシャツにジーンズ、何故か靴を履かずに靴下であるということからも、自分が今いる高度は十分に死ねる高さであり、運が良くても数箇所の骨折は免れないであろうという事が容易に想像できた。
「うおおお!ダメだ!怖い怖い怖い!!」
そう叫びながら、恐る恐る降りてゆく。
無事地面に足がついてホッと安堵したところでて目がさめた。
「自由に空を飛びたい」というのは、多くの人間の夢であると思うが、実際生身で飛んだことのある人間から言わせると、それは実に恐ろしく、心細いものである。
あんなオモチャのようなタケコプターで、悠々と空を飛べるのび太君は、まこと肝の座った漢(おとこ)であると、フィクションの中のいじめられっこの胆力に嫉妬すら感じ、「もう、夢の中でも二度と飛ぶまい・・。」と固く心に誓った事は言うまでも無い。
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多分、一生遭遇する事はないであろうイベントのひとつに、
「何者かが撒き散らしたお金が頭上から降ってくる」
というものがあります。
フィクションでは、アメリカのB級映画のクライマックスなどでよく見られる光景で、下にいるエキストラの人たちが我先に拾い集めたり、乱闘に発展したりするわけです。
現実でも、たま~~にニュースを騒がせたりします。
こないだ見たのは、どっかのテレビ塔の上から1ドル札をばら撒いたという事件で、大体にして「1ドル」というのが微妙にセコくてショボいのですが、まあ、やっぱり下にいた人たちは拾い集めていました。
その様子を見ていて、まず思ってしまったのが、
これが、紙幣ではなくて、硬貨だったら怖いよなあ・・。
という事。
それも、筒状に包まれた硬貨だったりしたら、果たしてみんな拾いに行くだろうか・・。
金属の雨ですからね。
軽く死ねます。
っつーか、それはもはや無差別テロと呼べないことも無い。
などと思ったりとか、
もし、誰一人拾わなかったら、かなりカッコワルイよなあ・・。
とか。
そして、もし、自分がそこに居合わせたらどうだろうか?ということも想像しました。
拾うか?拾わないか?
試しに彼女にも聞いてみたところ、即座に
「拾わない。」
という答えをもらった。
「なんで?」
と聞くと
いみじくも言うたり!!
天晴れな婦女子である。
私も同意。
上でニヤニヤしながら眺めているヤツがいるかと思うと、
「絶対に拾ってやるものか!」
と思ってしまう。
もちろん、お金は欲しい。
高潔ぶるつもりもこれっぽっちも無いけど、
ただ、「癪に障る」のだ。
万が一、実際に振ってきたら、自制心を総動員して、全部拾われてゆくのを傍観しながら、後で「ああ、拾わなくて良かった。・・でも、一枚くらい拾っとけば良かったかも・・」という要らぬ葛藤に苛まれて、なんだか激しく損をした気分になるかも知れない。
もともと自分のものじゃないお金で損をした気分になるなんて、まさに降って湧いた災難と言えなくも無い。
だから、これからもどうか頭上から紙幣が降ってきませんように。
特に硬貨は降ってきませんように。(危ないから)
と祈るわけです。
それがまったくの「杞憂」だとしても。
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ヒトの日常において、「何食わぬ顔」をするという機会はそうないのではないかと思います。
「何食わぬ顔」というのは、とぼけながら悪事を働く時に使われることが多い言葉だからでしょう。
「何食わぬ顔して、横断歩道でおばあさんをオンブする。」
「何食わぬ顔して、献血。」
「何食わぬ顔して、雨の中捨て犬を抱きしめる。」
とはあまり言いませんから。
そして、他人の「何食わぬ顔」は見る機会があっても、「自分の何食わぬ顔」というのは、意外に見る機会はないものではないかと思うのです。
大抵、他人から「あんた・・何食わぬ顔して・・!」などと指摘される場面が殆ど。
もしかすると、一度も自分の「何食わぬ顔」を見る事無く生涯を終えてしまう人の方が多いかもしれません。
そんなかなり貴重な「自分の何食わぬ顔」。
私は、それを目の当たりにする幸運に恵まれてしまいました。
それは昨夜、とある店屋に入ったときのこと。
整然と並べられている本を見ていると、とんでもない事に気付きました。
なんと、ズボンのチャックが全開だったのです。
全開を「0」、密閉を「100」とすると、およそ「6」くらいの数値を弾き出すほどで、「0」ではないにしろ、一般的には完全に「閉め忘れ全開」の評価を頂くほかないという状態だったのです。
不幸中の幸いか、Tシャツをズボンから出してあったため、殆ど見えてはいなかったのですが。
内心少し慌てましたが、周りにあまり人もいなく、わざわざ物陰に行って・・というのも、いかにも「慌てて上げてます感」を気取られてしまう危険性もある。
男を28年もやっていれば、「何気ないチャックの閉め方」くらいは心得ているものです。
「ポジションチェンジ」のフリをして現場に手を持っていき、さりげなく中指と薬指でチャックを掴み、「おっと、ズボンが下がっちゃったい。」という態を装ってグイッと上げる事により、「この上なくさりげないチャック・リカバリー」に成功したその瞬間。
眼前のガラスに映った私の顔が、まごうことなき「何食わぬ顔」だったのです。
「ああ・・!これが私の『何食わぬ顔』なのか!」
新鮮な驚き、そして感動すら覚えました。
それは、「最近、ズボンのチャックを上げ忘れる事が多いなあ・・」という悩みも吹き飛ぶほどであり、自分の知らない「もう一人の自分」に出会ったような感覚を覚えるほどでした。
しかし、「何食わぬ顔」をしなければならないような事態にはあまり陥りたく無いものです。
「何食わぬ顔」をしなくて済むためにも、
「チャックは常に100で。」
を今後の目標にしたいと思いました。
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かつて、柔道の山下選手は、対戦相手が傷めている方の足をわざと狙わずに戦ったと言う。
相手の弱点は、敢えて触れないというのが人間としての優しさであり、思いやりだと思う。
しかし、哀しいかな昨今は、「相手の弱点を見つけたら、とりあえずそこを狙っとけ。」という風潮が蔓延しているようだ。
実に憂うべき事ではないかと思う。
例えば、脇を突かれると悶絶する男がいたとする。
それを知っている人間3人に、常に狙われるというような事態に陥ったら、それはもうこの世の地獄と言っても過言ではなく、まさに一時たりとも気の休まらない、言うなれば、「日常が普通に極限状態」という凄惨な状況に置かれる事になる。
まあ、よーするに、私がその渦中に巻き込まれているのだが。
私の彼女(以下、相方)は、とにかく隙を見つけると脇を突いてくる。
勿論、それは一風変わった愛情表現(多分)ではあるのだが、たまたまその様子を見ていた姉と、その娘(私から見ると姪。)が、それを面白がって相方がいない時でも、私の隙を見つけると突きに突いてくるようになってしまったのである。
「そんちょの脇突っつきブーム」の到来である。
それからというもの、私に安堵の刻はなくなった。
厨房でもヅン!
工房でもヅン!
デート中でもヅン!
場所を選ばずに突かれるマイ・脇腹。
いつも脇に注意を払い、戦々恐々と日々を送らねばならなくなった。
この3人の「脇ストーカー」が、何故私の脇だけを狙うのだろうかと考えてみたのだが、まったく思い当たるフシがなく、私の脇から「突いて下さいフェロモン」が分泌されているのかもしれないという仮説にとどまっている状況なのである。
この一大「脇突きフィーバー」が収束する日はいつになるのか分からないが、一日も早い終結を願わずにはいられない。
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